第18話:命を縫う刃
衝立の向こう側に足を踏み入れた瞬間、空気が物理的な重みを持ってエルザの肺胞を押し潰した。
そこは、救護所の前半分に満ちていた「薬湯の湯気」や「生への希望」とは完全に隔絶された、濃密な死の澱だった。外の冷たい氷雨の気配など届かぬほどに、室内の温度は異常に高く、息苦しい熱気が淀んでいる。
鼻孔を暴力的に刺したのは、動物の死骸にハエが群がり、泥水の中で数週間放置された時と同じ、あの甘ったるく鼻腔の奥にへばりつくような腐敗臭――壊死した生体組織が自己融解を起こし、腐敗菌がタンパク質を貪り食う時に放つ、腐肉の蒸気だった。
「……う、あ……あぁ……」
粗末な木製ベッドの上で、一人の青年が荒い息を吐きながら身悶えていた。
村長の息子、ルーカス。十八歳。
収穫期には村で誰よりも重いライ麦の俵を軽々と担ぎ上げていたという屈強な若者の肉体は、今や見る影もなく痩せこけ、肋骨の浮き出た胸郭が浅く激しい呼吸に合わせて不規則に波打っていた。顔面は土気色を通り越して灰白色に濁り、額には脂汗が吹き出し、開かれたままの双眸は光を失って天井の虚空を彷徨っている。唇は乾ききって黒くひび割れ、歯の隙間から細い呼気とともに黄色い粘液が泡を吹いていた。
「ルーカス……! ああ、ルーカス……!」
ベッドの脇にへたり込んだ老村長が、泥まみれの我が子の手を握りしめ、ボロボロと涙をこぼしていた。
「しっかりしろ、ルーカス! 大公様のお医者様が来てくださったんだ! お前もあの苦い薬を飲めば、助かるんだからな……!」
「退きなさい、村長」
エルザの冷徹な声が、老人の嗚咽を容赦なく切り裂いた。
エルザは手袋をはめた指先でルーカスの頸動脈に触れた。
ト・ト・ト・ト・ト――触知される脈拍は、異常なほど細く、そして速い。毎分百三十回を超えている。手首の橈骨動脈に触れると、拍動は糸のように頼りなく、血圧が極限まで低下していることを示していた。額に手を当てると、掌が焼けるような高熱。体温は優に四十度を超えている。
「マリカ、足元のシーツを剥がしなさい」
「は、はい!」
マリカが震える手で、ルーカスの腰から下に掛けられていた粗末な麻布を跳ね上げた。
その瞬間、救護所の奥にいた全員が、息を呑んで絶句した。
青年の右足。
それは、もはや生きている人間の肉体の一部とは到底呼べない、おぞましい破滅の相を呈していた。
膝の皿からわずか三寸下――下腿の中央から足先、五本の指に至るまでの全組織が、まるで泥炭の中から掘り出された太古のミイラのように、縮み上がり、完全に炭のような黒褐色へと変色していた。
それだけではなかった。
軽症の者たちに見られた乾いた「乾燥壊疽」の段階はとっくに過ぎ去っていた。
黒く変色した組織の隙間から、黄色と緑色が混ざり合ったドロドロの膿汁が滝のように溢れ出し、皮膚は水膨れのように破れてブヨブヨにふやけている。腐敗菌が皮下組織を食い破り、ガスを発生させているのか、患部の周囲の皮膚を指先で軽く押すと、プチプチと皮下気腫の不気味な破裂音が指先に伝わってきた。
「……湿性壊疽への転化。嫌気性細菌による二次感染、および重度のガス壊疽です」
エルザは患部から漂う強烈な腐臭にも眉一つ動かさず、淡々と病態を言語化した。
「麦角中毒による局所虚血によって壊死した無酸素組織に、環境中の腐敗菌が侵入した。菌が産生する毒素と壊死組織の崩壊産物が、すでに下肢の静脈を通じて全身の血流へと逆流しています。……全身性炎症反応症候群(SIRS)。敗血症性ショックの末期です」
「はいぜつ……しょう……?」村長が呆然と呟く。
「血液中に細菌の毒素が回り、心臓、肝臓、腎臓の全機能が停止しかけているということです」
エルザは立ち上がり、トランクからオスカーが鍛え上げた鋼のメス、骨鋸、止血鉗子、そして太い縫合針を取り出した。
金属の冷たい擦過音が、静まり返った部屋に乾いて響く。
「壊死した組織に薬湯は届きません。腐った肉を体に繋ぎ止めたままでは、あと数時間と持たずに循環虚脱を起こして心停止します。……右下肢、膝下三分の一からの『大腿切断術』を施行します」
「……え?」
村長の時間が、一瞬止まった。
老人はエルザの手にある銀色の刃物を見つめ、次いで我が子の黒ずんだ足を見つめ、それから血を吐くような絶叫を上げた。
「せ……切断……!? 足を……息子の足を、切り落とすというのかァッ!?」
村長は半狂乱になってベッドに覆いかぶさった。
「嘘だ! そんな馬鹿なことがあるか! 足を切り落とすなんて、そんな残酷なこと……! この子はまだ十八だぞ! 春になれば隣村から嫁を迎えるはずだったんだ! 足をなくして、どうやって畑を耕せというんだ! 薬をくれ! さっきの者たちのように、足を温める油を塗ってくれぇっ!」
「無意味です」
エルザの声は、慈悲のかけらもない刃だった。
「死んだ細胞は、二度と蘇りません。油を塗れば腐敗の速度を早めるだけです。選ぶ余地はありません、村長。足を捨てて命を拾うか、足に執着して今夜中に冷たい骸を抱きしめるか。母親や婚約者に、生きた彼を返すのか、それとも腐り果てた死体を返すのか……どちらが良いか、今すぐ決めなさい!」
「う、あ……あぁぁぁ……!」
村長は頭を抱え、泥の床に崩れ落ちて咽び泣いた。
その時だった。
「神への冒涜だぁぁぁッ!!」
衝立を乱暴に蹴破り、狂乱の形相で踏み込んできた影があった。
広場でルシアン審問官とともに捕縛されていたはずの、神殿の残党神官――白銀の法衣を引き裂き、泥に塗れた十字架を振りかざした男だった。
神官は血走った目をエルザに向け、唾を撒き散らしながら絶叫した。
「聞いたか、村人どもよ! この小娘の正体を見よ! 主が創りたもうた尊き肉体に刃物を突き立て、生きた人間の手足を切り刻むなど、魂を地獄の業火へ売り渡す悪魔の所業! 神への冒涜だ! 肉体を損壊された者の魂は、天上の門をくぐることを許されず、永遠の闇を彷徨うことになるのだぞ! 死ぬなら五体満足で神の御許へ送るのが人の道だ! その魔女の手から、哀れな魂を守れぇぇッ!」
神官の狂信的な叫びが、救護所の中にいた村人たちの心を激しく揺さぶった。
死後の救済。神の創りたもうた肉体の神聖性。
何百年も教会から刷り込まれてきた迷信の鎖が、息子の死を目前にした村長や村人たちの理性を縛り上げようとする。
「そうだ……体を傷つけたら、ルーカスの魂が……」「神様のお怒りを買うのでは……」
エルザは、手にしたメスを握り直すこともせず、静かに神官を見据えた。
その琥珀色の瞳の奥に宿っていたのは、怒りですらなかった。
ただ、生命の構造を理解しようともせず、死に瀕した人間を都合のいい教義の生贄に捧げようとする者に対する、絶対零度の軽蔑。
「……黙りなさい、生ゴミ」
低く、透き通ったエルザの一言が、神官の金切り声をピタリと塞いだ。
エルザは一歩、踏み出した。血まみれの青年のベッドの前に立ち塞がり、神官の喉元を射抜くように見据える。
「腐った肉を神聖視し、生かすべき命を見殺しにすることこそが――この世で最も醜悪で、最も愚劣な冒涜です。神が肉体を与えたというのなら、なぜその肉体を維持するための知性を否定するのですか。魂を地獄へ送っているのは私ではない。中身のない祈祷を唱え、手遅れになるまで放置した、あなた方の無知そのものです」
「な……貴様ッ、神罰が――」
「神罰など恐れてメスが握れるものですか。私は目の前にある心臓を動かす。ただそれだけのためにここに立っているのです」
エルザは神官から視線を切り、背後に立つ巨躯の影を呼んだ。
「大公閣下」
「……ここにいる」
影が動いた。
天守閣の主、ギルバート・フォン・ラングリールが、軍外套を脱ぎ捨てて踏み込んできた。
大公は口を開こうとした神官の胸ぐらを、無言のまま左手一つで鷲掴みにし、宙へと持ち上げた。そのまま、集会所の外壁の石壁へと叩きつける。
ドガァンッ!
「ぎゃあっ!?」
「騒ぐな、ネズミめ。エルザの集中を乱すな」
ギルバートは失神しかけた神官を床へ投げ捨てると、大股で青年のベッドの枕元へと歩み寄った。
その氷灰色の瞳は、エルザの覚悟を完全に理解していた。
「何をすればいい」
「閣下。患者の上半身を、両肩からベッドへ完全に縫い止めてください。術中に暴れれば、動脈を傷つけて失血死します」
「任せろ。指一本動かさせん」
ギルバートはその鋼のような両腕を伸ばし、青年の両肩と胸郭を、ベッドの木枠ごと万力のように押さえつけた。軍神の膂力。どれほど狂乱しようとも、もはや青年の上半身が動く余地はミリ単位ですら存在しなかった。
「マリカ、術野の確保を!」
「はいっ!」
マリカがテキパキと動き出した。
青年の右大腿部を石鹸水と高濃度エタノールで二度洗い、煮沸消毒された清潔な四枚の麻布で患部の周囲を四角く囲い込む。
麻酔器も、筋弛緩薬もない時代。
エルザはオスカーに作らせていた高濃度の阿片チンキをスポイトで吸い上げ、青年の舌下へと数滴、滴下した。粘膜から急速に吸収されたアヘンアルカロイドが、中枢神経の痛覚伝導を鈍麻させる。さらに、氷水に浸した清潔な布を大腿部の切断予定部位に数分間強く押し当て、局所の神経終末を寒冷麻痺によって一時的に麻痺させた。
「メスを」
エルザが右手を差し出す。
マリカが、煮沸消毒を終えたばかりの特注の鋼製メスを、柄の向きを揃えてエルザの掌へと叩きつけるように渡した。
カチリ、と皮膚に触れる冷たい金属の感触。
エルザは深く息を吐き、琥珀色の瞳を細めた。
迷いは一秒すらなかった。
(切断高位――膝蓋骨上縁から三横指上。大腿骨下三分の一。健康な皮膚組織と壊死組織の境界から、十分に安全域を確保したマージンライン)
――スッ。
エルザの手首が、狂いのない軌跡を描いて一閃された。
鋭利な刃先が、青年の大腿部の前外側の皮膚を、美しい円弧を描いて切り裂いた。
「ぐ……っ、ああああああっっ!!」
阿片の麻痺を突き抜ける激痛に、ルーカスの全身がビクンと跳ね上がった。だが、ギルバートの剛腕がその巨躯を微動だにさせずベッドへと縫い止める。
「動くな! 耐えろ、小僧!」ギルバートの叱咤が轟く。
鮮血が噴き出した。
だが、エルザの指先は一片の躊躇もなく、皮膚、皮下脂肪、そして赤々とした大腿四頭筋の筋膜へと深く切り進んでいく。
「マリカ、圧迫止血! 視野を広げなさい!」
「はいっ!」
マリカが滅菌布を傷口の縁に当て、血飛沫を吸い取る。
エルザの左手が、筋肉の裂け目を押し広げ、深部を走る主幹血管を探り当てた。
「見つけました。大腿動脈の終末枝、および伏在動脈」
拍動に合わせてピュッ、ピュッと鮮血を吹き上げる血管の断端。
エルザは右手の止血鉗子を滑り込ませ、コンマ一秒の躊躇もなくその血管を挟み込んだ。
カチリッ。
金属音が響き、激しい噴血がピタリと止まる。
「結紮糸!」
オスカーが精製した強靭な極細の絹糸。エルザの指先が信じられないスピードで交差し、血管の断端を二重に硬結びで縛り上げた。動脈性出血の完全な制圧。
筋肉を前後に切り分け、後で骨の断端を覆うための「筋肉の蓋」――筋皮弁を美しく剥離していく。
そして、露出した大腿骨の白い骨幹部。
「骨鋸を」
マリカから受け取ったのは、細かい波状の刃を持つ、オスカー特製の鋼の鋸だった。
エルザは骨膜を剥離子で押し上げ、露出した骨へ鋸の刃を直角に当てた。
ギィィィ……ジャリッ、ジャリッ、ジャリッ!
鈍く、重い骨を断つ音が、静まり返った救護所に響き渡った。
骨髄の独特の生臭い匂いが、立ち込める血の臭いと混ざり合う。
外から覗き込んでいた神官たち、そして村の男たちが、そのショッキング極まりない音と光景に耐えきれず、顔を蒼白にして口元を押さえ、次々と外の泥水の中へ飛び出して嘔吐した。
「お、おえっ……!」「人の骨を……鋸で切っている……!」「化け物だ……あの娘は化け物だ……!」
だが、エルザの表情には、恐怖も嫌悪も、微塵も存在しなかった。
ただひたすらに、骨の切断面が平滑になるよう、一定のリズムと角度を保って鋸を前後に引き続ける。
ジャリ、ジャリ、ジャリ――パキッ。
乾いた音が響き、骨が完全に両断された。
ドサリ。
膝から下、あの黒く腐敗し、ガスを噴き出していた青年の右足が、作業台の上の金属トレイへと落下した。
「足を隔離しなさい! 直ちに生石灰を撒いて外へ!」
「は、はいっ!」
マリカが震える手でトレイを抱え、衝立の外へと運び出す。諸悪の根源、敗血症を引き起こしていた巨大な感染巣が、完全に青年の肉体から切り離された瞬間だった。
「……骨の断端をヤスリで研磨。棘を削り落とします」
エルザは骨鋸を置き、骨の縁を滑らかに整えると、剥離しておいた前後の筋肉を骨の断面の上で引き合わせ、キャットガット(羊腸線)で力強く縫合した。
クッションとなる筋肉の層が骨を包み込み、将来義足を装着した際にも痛みが起きないよう配慮された、近代外科学の粋。
「皮膚を閉じます。角針と絹糸を」
エルザの指先が、流れるような刺繍の技法で動いた。
外側の皮膚を、狂いのない等間隔――五ミリピッチの結節縫合で、一枚の布を継ぎ合わせるかのように美しく閉じ合わせていく。
針が通るたびに、開いていた創口が整然と閉じ、出血は完全にコントロールされていく。
切開から、わずか二十分。
最後の一糸を結び、ハサミで切り落とした時――。
「……処置、完了しました」
カラン、と乾いた音を立てて、エルザが血まみれのメスをトレイへと置いた。
静寂。
室内に響いていたのは、吹き荒れる外の雨音と――。
そして。
「……す……ぅ……」
深く、規則正しい、安らかな呼吸の音だった。
激しい高熱に喘ぎ、死の淵で痙攣していた青年の呼吸が、嘘のように落ち着きを取り戻していた。
マリカが涙を拭い、青年の手首に触れて叫んだ。
「脈拍、毎分八十五! 緊張度、良好です! 呼吸……呼吸が深くなって、熱が……熱が下がり始めています!」
青年の土気色だった頬に、わずかに生者の赤みが差していた。
腐敗の毒の根源を断ち切られた肉体が、自らの免疫と治癒力によって、猛烈な勢いで生への代謝を取り戻し始めたのだ。
切断された大腿の断端には、一本の真っ直ぐな、美しい縫合痕が刻まれ、そこからの出血はガーゼ一枚を汚す程度にまで完全に止まっていた。
「あ……ああ……」
ベッドの脇で腰を抜かしていた村長が、震える手で息子の胸に触れた。
力強く打つ心臓の鼓動。温かい体温。
「生きてる……息子が……息を吹き返した……! 神様……いいえ、エルザ様……!」
老人は床に額を擦り付け、血の混じった涙を流して号哭した。
衝立の隙間から覗き込んでいた村人たちも、膝をつき、奇跡を目の当たりにしたかのように合掌していた。
だが、エルザは歓声を聞くこともなく、ただ静かにゴム手袋を外し、その場に立ち尽くしていた。
集中力が極限まで研ぎ澄まされていた反動。
十二歳の小さな肉体に、猛烈な虚脱感と疲労が押し寄せる。肩が微かに揺らぎ、膝の力が抜けかけた、その瞬間――。
スッ、と温かい感触が、エルザの額に触れた。
「……?」
エルザが目を瞬かせると、目の前にはギルバートの顔があった。
大公は自らの黒革の手袋を外し、戦場で無数の敵を屠ってきたその無骨な指先で、エルザの額に滲んでいた大粒の汗を、驚くほど優しく、丁寧に拭い取っていた。
「……見事だったぞ、エルザ」
低く、深く、耳朶を震わせる声。
その氷灰色の瞳には、冷酷な軍神の光など微塵もなく、ただ一人の少女に対する狂おしいまでの畏敬と、魂を奪われた男の熱い独占欲が満ち溢れていた。
「お前のメスは、神の呪いすら切り裂いて見せた。……我が主治医の腕を、誇りに思う」
指先から伝わってくる、男の生々しい体温。
エルザは小さく息を吸い込み、乱れかけた呼吸を整えると、ふっといつもの冷徹な表情を取り戻した。
「……まだ終わりではありませんよ、大公閣下。術後管理の第一日目が、感染症との本当の戦いですから」
血の匂いと雨音に包まれた救護所の中で、少女の冷たいメスは、また一つ、死神の鎖を完全に断ち切っていた。




