第19話:折られた凶刃
降り続いていたみぞれ交じりの氷雨は、深夜を回る頃には音もなく勢いを弱め、湿った冷気が地面の泥濘から白い靄となって立ち込めていた。
昼間まで阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられていたヴェルデ村の集会所は、今や信じがたいほどの静寂に包まれていた。
石造りの壁の隙間から吹き込む北風を避けるように、窓には煮沸された清潔な麻布が何重にも張られ、室内の大竈には薪が絶えることなくくべられている。パチパチと爆ぜる火の粉の音と、規則正しい寝息。四十名を超える中等症の患者たちは、ヤナギのサリシンと大蒜の抽出液によって血管が開き、手足の激痛から解放されて泥のような眠りに落ちていた。
衝立の奥の隔離室でも、最悪の峠は越えつつあった。
大腿切断術を受けた村長の息子ルーカスは、切断面を清潔な圧迫ガーゼで覆われ、丸太のように深く眠り続けていた。
マリカが冷水で絞った手拭いで青年の額を拭い、静かに息を吐き出す。
「……エルザ様、ルーカスさんの体温、三十七度五分まで下がりました。切断部の出血も完全に止まっています。脈の乱れもありません」
「良好ですね」
衝立の端から様子を確認したエルザは、手帳に記された数値を一瞥して頷いた。
「嫌気性菌の増殖巣は患部ごと完全に切除されました。あとは本人の組織修復力と、補水液による代謝の維持です。マリカ、あなたも仮眠を取りなさい。看護者が倒れては、夜明けからの回診が回りません」
「はい……! でも、私、もう少しだけここで記録をつけてから休みます。ルーカスさんが目を覚ました時、誰かが傍にいてあげないと不安でしょうから」
泥と汗で汚れたエプロンを誇らしげに整えるマリカの横顔には、もはや無知に震えていた下働き侍女の影はなかった。生命の最前線に立つ医療従事者としての自負が、その瞳に宿っている。
エルザは小さく頷くと、集会所の外へと足を踏み出した。
◇
集会所の裏手、騎士団が野営のために設営した数張の簡易天幕。
その中央に位置するエルザの天幕の中は、外気と遮断されたわずかな温もりと、真鍮製のランプの灯りが揺れる静かな実験室と化していた。
机代わりに置かれた頑丈な補給用木箱の上には、オスカーが作った携帯用顕微鏡と、ガラス瓶に入った麦角菌の標本、そして今日一日の全患者のトリアージ記録と投薬記録が記された羊皮紙が整然と積まれている。
エルザは椅子代わりに置かれた小さな木樽に腰を下ろし、冷えた指先で真鍮の羽ペンを走らせていた。
カリ、カリ、と羊皮紙を擦る硬質な音だけが、天幕の薄い布を伝って夜気へと溶けていく。
(……麦角アルカロイドの血中半減期はおよそ二時間から四時間。だが、末梢組織の受容体への不可逆的結合を考慮すると、完全な血管拡張と組織血流の正常化には最低でも七十二時間の継続的モニタリングが必要だ)
エルザの思考は、夜の帳の中にあっても一片の濁りなく回転し続けていた。
七十八名の患者の投薬量、血管拡張薬の濃度、排尿量と尿の比重。
現代医学の知識を、この中世の限界ある物資の中でいかに最適化して適用するか。感情の入る隙間などどこにもない。彼女が記録しているのは、ただの数値と現象の推移であり、それこそが死神から命を買い戻すための唯一の通貨だった。
その時だった。
サワ……と、天幕の入り口の垂れ布が、微かに揺れた。
外の風は止んでいた。みぞれの滴りすら途絶えた無風の夜。
にもかかわらず、天幕を留めている麻紐が、何者かの手によって外側から音もなく外されたのだ。
泥を踏みしめる、微かな、だが確かに殺意を孕んだ湿った足音。
気配が天幕の内部へと滑り込んでくる。
冷たい外気とともに漂ってきたのは、雨水の匂いではない。
恐怖によって滲み出た酸っぱい脂汗の悪臭、失禁した尿の残滓、そして――刃物を油で研ぎ澄ました時に放つ、冷酷な鉄の匂い。
エルザの背後、わずか二歩の距離に、影が落ちた。
だが、エルザはペンの動きを止めなかった。
インク壺にペンの先を浸し、淡々と次の行へ文字を刻み続ける。肩の力一つ抜かず、振り返りすらしなかった。
「……随分と軽率な侵入ですね、審問官様」
エルザの氷のように平坦な声が、静まり返った天幕に落ちた。
「床に生石灰を撒いて消毒したばかりです。泥だらけの靴で踏み入ることは、私の衛生管理基準に反します」
背後の影が、ヒッと息を呑んだ。
次いで、狂気と憎悪に濁りきった、掠れた男の喘ぎ声が漏れ出す。
「……小娘……なぜ、驚きもせんのだ……」
そこに立っていたのは、昼間の威厳ある白銀の法衣を引き裂かれ、泥と汚水に塗れた異端審問官ルシアンだった。
その双眸は血走り、瞳孔は恐怖と屈辱によって異常に収縮している。額には青筋が浮き上がり、髪は雨水で額に張り付いていた。
そして――その震える右手には、月光を反射して青白く光る、抜き身の肉厚な短剣が握りしめられていた。
「お前さえ……お前さえ現れなければ……!」
ルシアンの口から、唾沫とともに怨嗟が漏れ出す。
「私は教皇庁直属の審問官として、この村を焼き払い、神罰の執行者としてアンセルム首席司教猊下から莫大な恩賞を賜るはずだったのだ! 大司教への階段を登るはずだったのだ! それを……それを貴様のような下賤な小娘が……訳の分からぬペテンで台無しにしおって!」
短剣の切っ先が、エルザの無防備なうなじへと向けられる。
「お前を殺す……! お前を殺して、この天幕にある奇怪な道具も紙切れもすべて焼き払ってやる! そして『魔女が毒の術を用いて審問官を襲撃したため、正当防衛として誅殺した』と教皇庁へ報告するのだ! そうすれば……そうすれば私の正義は守られる! 神殿の権威も、私の地位も、すべて元通りになるのだ!」
完全な自己保身と、狂信がもたらした自暴自棄の凶行。
自分が犯した誤診と虐殺未遂の罪から逃れるため、真実を暴いた者を物理的に抹殺しようという、あまりにも浅薄で稚拙な短絡。
エルザは、羊皮紙の上に最後のピリオドを打ち終えると、静かに羽ペンをペン立てへと置いた。
そして、椅子の背もたれに手を置き、ゆっくりと上半身をルシアンの方へと向けた。
その琥珀色の瞳には、恐怖の欠片も、命乞いの色も存在しなかった。
ただ、顕微鏡のプレパラートの上に載せられた有害な寄生虫を冷淡に観察するような、絶対零度の視線。
「カビの毒に論破された次は、暗殺ですか」
エルザの唇から零れ落ちたのは、嘲弄ですらない、純粋な失望の溜息だった。
「神に仕える者のすることにしては、あまりに短絡的で、科学的思考の欠片もありませんね。私を殺したところで、村人たちの血管から毒が消えるわけでもなく、あなたの無知が歴史から消えるわけでもないというのに」
「黙れぇぇッ! 死ね、魔女めがぁッ!!」
逆上したルシアンが、顔を歪めて短剣を両手で振り上げた。
全体重を乗せ、エルザの細い喉元を貫かんと切っ先が垂直に振り下ろされる。
距離はわずか一メートル。刃がエルザの皮膚を裂くまで、コンマ一秒の刹那。
だが、その刃がエルザの髪の一筋に触れることすら叶わなかった。
――バギィィィッッッッ!!!!
生木を万力でへし折ったかのような、凄惨な破壊音が天幕の空気を爆発させた。
「ぎゃあああああああああああっっっ!?」
ルシアンの口から、人間のものとは思えない絶叫が噴き上がった。
振り下ろされていた短剣が、空中でピタリと静止していた。
いや、静止させられていたのだ。
闇の中から音もなく伸びてきた、漆黒の鉄手甲――黒狼騎士団総帥の腕輪が、ルシアンの右の手首を、骨ごと粉砕するほどの力で鷲掴みにしていた。
ギチ、ギチ、ギチ……メキメキッ!
橈骨と尺骨が圧力に耐えかねて擦れ合い、皮膚の下で粉々に砕け散る生々しい音が天幕に響き渡る。
短剣がルシアンの麻痺した指先から滑り落ち、床の敷布の上へカランと乾いた音を立てて転がった。
「ひ……っ、あ……あぁぁぁっ! 腕が……私の腕がぁぁぁっ!」
ルシアンが激痛に白目を剥き、崩れ落ちようとする。
だが、彼が膝をつくことすら許されなかった。
闇の中から現れたのは、漆黒の軍外套を羽織った巨躯の男――ギルバート・フォン・ラングリール大公だった。
大公は右腕でルシアンの手首を握り潰したまま、空いた左手でルシアンの喉元を鷲掴みにした。
そして、百キロ近い大人の男の体を、まるで藁人形であるかのように軽々と片手で持ち上げると、天幕の太い樫の木の支柱へと、容赦のない速度で叩きつけた。
ズドォォォンッ!!
天幕全体が激しく軋み、支柱にめり込んだルシアンの背骨が鈍い悲鳴を上げた。
「がはっ……!?」
肺の中の空気をすべて吐き出させられ、ルシアンの口から濁った胃液が吹き飛ぶ。
宙吊りにされた男の眼前、わずか数寸の距離に、夜の深淵を切り取ったかのようなギルバートの氷灰色の双眸があった。
そこにあるのは、怒りではない。
戦場で幾千の首を刎ね、幾万の命を踏み躙ってきた本物の軍神が放つ――呼吸をするように人を殺す者の、絶対的な虚無。
「……俺の主治医に刃を向けたな、ネズミめ」
ギルバートの低く、地底の底から響くような声が、ルシアンの耳朶を直接凍りつかせる。
「昼間の無礼を見逃してやったのは、エルザの治療を優先するためだったというのに……己の立場も弁えずに這いずり回り、あまつさえ俺の宝にその薄汚い泥の手で触れようとするとはな」
大公の左手の指先が、ルシアンの喉笛へと徐々に食い込んでいく。
気管が圧迫され、ルシアンの顔面が急速に赤黒く鬱血していく。頸動脈を締め上げられた男の瞳孔が散大しかけ、足が宙で空しくバタついた。
「が……っ……げ……た、大公……閣下……」
ルシアンは泡を吹きながら、折れた右手を押さえ、掠れた声で必死に命乞いを紡ごうとした。
「わ、私は……教皇庁直属の……審問官……私を殺せば……帝国全土の教会が……貴様を異端として……破門し……帝国軍が貴様を……!」
薄汚い保身の脅迫。
だが、ギルバートは眉一つ動かさなかった。
冷え切った口端が、三日月のように残酷に吊り上がる。
「殺しはせん」
「……え……?」
「ここで貴様の汚れた首を刎ねれば――」
ギルバートは視線をわずかに落とし、足元の床を見つめた。
「エルザが何時間もかけて敷き詰めた、この清潔な消毒布が、貴様の腐った血で汚れる。……我が主治医の手を、貴様のような生ゴミの後片付けで煩わせるわけにはいかんのだ」
ギルバートの左腕が、無造作に振るわれた。
ドサァァァンッ!!
天幕の入り口の垂れ布を突き破り、ルシアンの巨体が外の冷たい泥濘の中へと放り投げられた。
氷水溜まりの中に顔面から激突し、泥水を跳ね上げる。
「ごふっ……! げほっ、おえっ……!」
泥水を吐き出し、折れた腕を抱えて呻くルシアン。
だが、男が顔を上げる暇もなく、暗闇の中から無数の軍靴の音が迫り、四方から冷たい鋼の切っ先がルシアンの全身へ突きつけられた。
「動くな、汚物め」
現れたのは、完全武装のテオバルトと、抜刀した黒狼騎士団の精鋭たちだった。
テオバルトは氷のような目でルシアンを見下ろすと、手にした硬い布製の猿ぐつわを、泥に塗れたルシアンの口内へと力任せに押し込んだ。
「むぐっ……!? んぐぅぅぅっ!」
「騒ぐな。大公閣下の御前であるぞ」
テオバルトは手際よくルシアンの健康な左手と両足を、太い革バンドで背後へエビ反りに縛り上げた。
天幕の中から、外套の裾を翻してギルバートが歩み出てきた。
大公は雨上がりの冷気の中、泥にまみれて芋虫のように蠢くルシアンを、軍靴の先で見下ろした。
その視線には、慈悲の欠片もなかった。
「教皇庁の犬め。アンセルムに伝えろ」
ギルバートの言葉は、帝都の大聖堂を直接撃ち抜く矢のように鋭かった。
「『我が大公領の土を踏む聖職者は、二度と五体満足で帝都へ戻れると思うな』とな。……次にお前たちが俺の前に現れる時は、教会ごと解剖される時だ」
ギルバートはテオバルトへ視線を向けた。
「馬に乗せて領境の検問所まで運べ。夜明けまでに、この領地の外側へ豚のように投げ捨ててこい」
「はっ! 直ちに!」
テオバルトの合図とともに、騎士たちがルシアンの体を乱暴に担ぎ上げ、夜の闇の彼方へと引きずっていった。猿ぐつわの奥から漏れる情けない呻き声が、遠くの谷底へと消え去っていく。
◇
騒乱が去り、再び天幕の周囲には、雨上がりの静寂が戻っていた。
冷たい夜風が、破れた天幕の入り口から吹き込み、室内のランタンの火をチチと揺らす。
ギルバートは天幕の中へと戻ると、床に転がっていたルシアンの短剣を軍靴の先で拾い上げ、無造作に外の闇へと蹴り飛ばした。
そして、作業台の前に座ったまま、一度も取り乱すことなくカルテを整理していたエルザの前へと歩み寄った。
「……怪我はないか、エルザ」
先ほどまでルシアンの骨を粉砕していたその男の声は、信じがたいほど穏やかで、痛々しいほどの懸念に満ちていた。
エルザは羊皮紙を揃え、木箱の中へ収めながら淡々と答えた。
「ありません。閣下が天幕の外に潜んでいらっしゃることは、最初から脈拍の気配で分かっていましたから」
「まったく……少しは怯えるということを覚えろ」
ギルバートは溜息をつき、乱暴に前髪をかき上げた。
だが、次の瞬間。
ギルバートの大きな腕が、エルザの細い肩を抱き寄せ、自らの厚い胸板へと力強く引き寄せていた。
「……っ、閣下?」
エルザの体が、硬質な軍服の布地と、男の逞しい筋肉の熱気に包み込まれる。
ギルバートの腕は、砕けそうなほどの力でエルザを抱きしめていた。
その体躯から伝わってくるのは、圧倒的な武力を持つ覇者の威厳ではなく――自らの唯一無二の光を失いかけた男の、狂おしいまでの焦燥と、剥き出しの独占欲だった。
「二度と、あのようなゴミ屑にお前を近づけさせん」
ギルバートの掠れた低音が、エルザの耳元を熱く震わせる。
「お前が死ねば、俺の世界は再びあの暗黒の呪縛へと戻る。……お前を失うことなど、俺が許さん。皇帝だろうが神殿だろうが、お前に刃を向ける者は、俺がこの手ですべての骨を砕いてやる」
重すぎる、鋼の檻のような愛と庇護。
胸元に顔を埋められたエルザは、男の激しく脈打つ心臓の鼓動を、自らの皮膚を通じて感じていた。
計算ずくで手に入れたはずの『生きた盾』。
だが、この冷酷軍人がエルザに向ける感情は、もはや単なる利害の一致など遥かに超越していた。自らの命そのものをエルザの指先に委ね、彼女のためだけに牙を研ぎ澄ます、狂気的なまでの忠誠。
エルザは小さく息を吐き出すと、拘束された腕をわずかに動かし、ギルバートの硬い胸板をトントンと指先で叩いた。
「……大公閣下。心拍数が毎分百十を超えています。過度の興奮は交感神経を緊張させ、血管攣縮を招きますよ」
「……お前という奴は」
ギルバートは苦笑交じりに息を漏らしながらも、抱きしめる腕の力を緩めようとはしなかった。
東の地平線の彼方が、ゆっくりと白み始めていた。
長い、長い嵐の夜が明けようとしていた。
迷信と狂信の凶刃を完全にへし折ったエルザの近代医学は、いま、朝の光とともに、ヴェルデ村の全住民が目撃する「奇跡の真実」へと歩みを進めようとしていた。




