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呪いではなく鉛中毒です〜死に戻り侍女は近代医学で冷酷大公を救い、宮廷の嘘を解剖する〜  作者: タカケンサンバ


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第17話:泥まみれの救護所

神殿の権威が泥水の中へ無様にへたり込んだ瞬間、広場を支配していたのは歓喜ではなく、底知れぬ茫然自失の静寂だった。

恐怖と寒さに震え、泥に塗れた法衣を抱きしめて後ずさる異端審問官ルシアン。その背後で、神殿私設兵たちは構えていた槍をだらしなく下ろし、互いに顔を見合わせて視線を泳がせている。彼らがこれまで絶対の正義と信じ込まされてきた「神罰」の化けの皮は、たった一羽の鶏の痙攣と、十二歳の少女が突きつけた冷徹な生化学の理屈によって、完全に粉砕されていた。


だが、エルザは勝利の余韻に浸る素振りなど、微塵も見せなかった。

彼女は泥水の中に膝をついたままのルシアンを一瞥することすらなく、手にした乳鉢をマリカへと手渡すと、踵を返してテオバルトを見据えた。

その琥珀色の瞳は、すでに「敵の論破」という通過点を遥かに飛び越え、村全体を覆う致命的な生物学的危機――百数十人の生体代謝をいかに維持し、毒素を体外へ洗い流すかという、極めて現実的な戦場へと照準を定めていた。


「テオバルト副官」

低く、だが広場中の誰の鼓膜にも鋭く届く声。

「ボーッと突っ立っている暇はありません。敵を倒しても、患者の血管の中に残った毒は消えません。……直ちに、黒狼騎士団の全戦力を以て、ヴェルデ村の全域に対する緊急防疫措置を開始します」


「あ、ああ……!」

歴戦の副官であるテオバルトが、一瞬気圧されたように返答を詰まらせ、すぐに姿勢を正した。

「指示をくれ、エルザ。我々は何をすればいい」


「第一に、毒の供給源の完全遮断です」

エルザは容赦のない手つきで、村の中央に立ち並ぶ民家、そして先ほど確認した共同備蓄庫を指差した。

「騎士団を三隊に分け、この村にあるすべての穀物倉、家庭の台所、地下の貯蔵樽、パン焼き竈(かまど)をシラミ潰しに捜索しなさい。収穫されたライ麦、粉に挽かれた穀粉、焼き上げられたパンの欠片に至るまで、一粒残らず、この広場の中央へと強制押収するのです」


「……全穀物の、押収だと?」

テオバルトの隣で、泥まみれの老村長が息を呑み、血相を変えてエルザの前へ這い寄ってきた。

「お、お待ちください、エルザ様! 麦をすべて奪われてしまっては、私たちはどうやって飢えを凌げばよいのですか! 今年の冬を越すための食糧は、あのライ麦しかないのです! それを取り上げられては、病で死ぬ前に、村人全員が飢え死にしてしまいます……!」


周囲を取り囲んでいた村の男たちや、戸口から恐る恐る覗いていた女たちからも、悲痛な叫びが上がった。

「そうだ、麦を奪わないでくれ!」「少し黒ずんでいるだけで、粉にして焼けば食べられるはずだ!」「子供たちに何を食わせろというんだ!」


無知ゆえの執着。飢餓への恐怖。

彼らにとって、目の前の黒い粒は「毒」である以前に、汗水垂らして泥を耕し、冷夏に耐えて収穫した唯一の「命の糧」なのだ。

だが、エルザの眼差しに、一片の甘さも揺らぎも生じなかった。

彼女は村長を見下ろし、冬の夜風よりも冷たい声音で、残酷な二者択一を叩きつけた。


「選びなさい」

広場が静まり返る。

「毒のパンを腹に詰め、激痛に叫びながら手足を炭にして切り落とされて死ぬか。それとも、汚染された麦をすべて焼き捨て、飢えの苦しみに耐えながらでも、五体満足で生き延びるか。……どちらが良いか、自分の頭で計算なさい」


村長が息を詰まらせ、絶句した。

「泣き叫んでいる暇があるなら、大鍋に湯を沸かしなさい! 今すぐ体内の毒を洗い流さなければ、今夜中にさらに十人が足を失います!」

エルザの鋭い一喝が、寒村の空気を震わせた。

テオバルトが即座に抜刀し、騎士たちへ下知を飛ばす。

「聞いたな! 各戸へ突入せよ! 麦の一粒、パンのひとかけらも残すな! 抵抗する者は力ずくで排除しろ、これは大公閣下の領民を生かすための軍事行動だッ!」


「「「応ッッ!!」」」


五十騎の騎士たちが一斉に散開した。

各民家の扉が開け放たれ、悲鳴と怒号が交錯する中、麻袋に詰められた黒ずんだライ麦、台所の木壺に残されていた灰色の小麦粉、焼き上がった黒パンが、容赦なく広場の中央へと運び出されていく。

その量は、わずか半時(約一時間)の間に、優に数トンに達した。広場の中央に築かれた、黒紫色の穀物の巨大な山。


「石炭油を撒きなさい」

エルザの指示を受け、騎士たちが神殿兵から奪い取った燃料樽を傾け、穀物の山へと浴びせかける。

エルザはルシアンが泥水の中に落としていた松明を拾い上げると、濡れた外套を翻し、迷いなくその山へと投げ込んだ。


――ボォォォォォッッッッ!!!!


爆発的な轟音とともに、巨大な火柱が鉛色の空へと噴き上がった。

みぞれ混じりの雨を蒸発させながら、紅蓮の炎が猛烈な勢いで麦の山を呑み込んでいく。立ち上る煙は、穀物が焦げる香ばしさなど微塵もなく、有機物が不完全燃焼を起こした特有の、目と鼻を刺すような黒い悪臭の塊となって天を覆った。

村人たちは地面にへたり込み、自らの半年間の労働の結晶が灰へと変わっていく光景を、涙を流しながら見つめていた。だが、その炎の熱気こそが、彼らの命を内側から蝕んでいた元凶を、物理的にこの世界から消滅させる唯一の浄火だった。


◇


「炎を見つめて涙を流す時間は終わりです。次、病床の確保!」

エルザは煙を背に受け、すでに次の行動へと移っていた。

「村の中で最も天井が高く、風通しの良い建物はどこですか」

涙を拭った村長が、震える指で広場の奥を指差した。「あ、あそこの……村の寄り合いで使う『共同集会所』です。石造りで、冬の祭りの時には村人全員が入れる広さがあります……」

「そこを使います。マリカ、案内しなさい!」


共同集会所は、頑丈な花崗岩で組まれた広大な平屋だった。

だが、扉を開けた瞬間に漏れ出てきたのは、何週間も閉め切られていた特有の埃とカビの臭気だった。

「テオバルト副官、騎士十名をこちらへ寄越しなさい。まず、この部屋の四方の高窓をすべて開け放ち、床の泥とゴミをシャベルで掻き出すのです! そして――」

エルザは医療馬車の荷台から、オスカーに作らせていた生石灰の粉末が入った麻袋を引きずり降ろした。

「井戸水を沸騰させ、この生石灰を混ぜて熱湯消毒液を作りなさい。床という床、壁という壁にぶち撒けてデッキブラシで擦り洗いを徹底すること! 不潔な環境に患者を寝かせれば、壊疽した創部から二次感染を引き起こし、破傷風と敗血症で確実に全滅します!」


「わ、分かりました!」

騎士たちが甲冑を脱ぎ捨て、腕まくりをして熱湯とブラシを手に集会所へと飛び込んでいく。

普段は剣を振るうことしか知らない屈強な軍人たちが、エルザの峻烈な指揮のもと、泥と汚水を掻き出し、もうもうと湯気を立てながら石畳を磨き上げていく。


その中央で、目覚ましい働きを見せたのは、第一助手のマリカだった。


「そこのあなた! 泣いている暇があるなら、家にある一番大きなお鍋を持ってきて! お湯を沸かすのよ!」

マリカは泥まみれになりながら、恐怖で集会所の外に固まっていた村の女性たちの手を力強く引っ張った。

「え……? で、でも、私たちなんかが入ったら、悪魔の病が……」

「悪魔の病なんかじゃないって、エルザ様が目の前で証明してくださったでしょう!?」

十五歳の元下働き侍女の声が、鋭く響く。

その瞳には、かつて大公城の地下で怯えていた面影など微塵もなかった。エルザの背中を追い、近代看護の鉄則を叩き込まれてきた少女の、確固たる職業意識。


「患者さんの体を拭いて、足を温めて、薬を飲ませなきゃいけないの! 手が足りないのよ! 自分の夫や子供を助けたいなら、ボーッと突っ立ってないで手を動かしなさい! ……まず、この石鹸でお湯を使って、爪の先から肘まで三十秒、しっかり洗うの! 手を洗わない人は、一歩も中に入れさせませんからね!」


マリカの気迫に圧倒され、村の女性たちが我に返ったように動き出した。

「わ、分かったわ!」「大鍋を持ってくる!」「家に清潔なシーツがある、あれを使って!」

絶望に沈んでいた寒村に、生きるための熱量が急速に循環し始めた。


集会所の中央には、洗浄された長い木製テーブルが整然と並べられ、オスカーの工房が焼き上げた清潔な無鉛白磁の器と、煮沸消毒された真っ白な麻布が敷き詰められた。

即席の野戦病院の完成だった。


◇


「トリアージを開始します」

エルザは白衣代わりに身につけた清潔なエプロンの紐を締め直し、集会所の入り口に立った。

「マリカ、患者を重症度に応じて三つの区画に選別しなさい」


「はい! 基準を教えてください!」

マリカが羊皮紙のボードと炭のペンを構える。

「第一区画――軽症。手足の先端の痺れ、違和感のみで、皮膚の変色がない者。

第二区画――中等症。激しい灼熱痛を訴え、四肢末梢の冷感、チアノーゼ(青紫色)が始まっている者。および、軽度の痙攣や不随意運動が見られる者。

第三区画――重症。すでに皮膚組織が黒色壊疽に陥っている者、意識障害、呼吸不全、持続的な大痙攣を起こしている者。……第三区画は部屋の最奥、衝立の向こうへ隔離しなさい」


選別は迅速に行われた。

運び込まれてくる村人たちは、総勢七十八名。

そのうち軽症が二十五名、中等症が四十三名、そして――すでに手足が炭のように壊死し、高熱に呻いている重症者が十名。


「軽症および中等症の患者に対する薬理学的介入を開始します」

エルザは作業台の上に、馬車から降ろした薬草の瓶を並べた。

彼女が選んだのは、三種類の生薬だった。

第一に、大公城から持参した乾燥ヤナギの樹皮の粉末。

「ヤナギの樹皮に含まれるサリシン……生体内でサリチル酸へと代謝され、強力な解熱鎮痛作用を示すと同時に、プロスタグランジンの合成を調整して末梢の炎症を抑え、微小血栓の形成を阻害する」

第二に、村の各家庭から大量に徴発させた、野生の大蒜(ニンニク)のすり潰し汁。

「大蒜に含まれるアリシンおよび有機硫黄化合物……強力な血管拡張作用を持ち、麦角アルカロイドによって極限まで収縮させられた毛細血管の平滑筋を弛緩させ、組織への末梢循環を強制的に再開させる」

そして第三に、大量の清潔な煮沸水に、微量の岩塩と野蜂蜜を溶かした『経口補水液』。


「マリカ、女性たちに指示を出しなさい」

エルザは調合した暗緑色の薬湯を大鍋で一気に煮出させながら命じた。

「大鍋の薬湯を、患者一人につき深皿一杯、必ず温かい状態で飲ませること。拒絶する者にはスプーンで喉の奥へ流し込みなさい。そして、飲ませたら休ませず、すぐに白湯を飲ませて体内の毒素を尿から排泄させるのです」


「わかりました! ……エルザ様、手足の激痛を訴えて暴れている患者さんたちはどうすれば!?」

「局所の温熱マッサージを行います」

エルザはトランクから、精製された植物油(菜種油)と、微量のトウガラシチンキを取り出した。

「血管が収縮して手足が凍りついているのです。冷水をかけては逆効果、虚血が悪化して壊疽の範囲が広がります。温めた油を手掌に塗り、患者の足首から指先に向けて、優しく、だが力強く求心性のマッサージを施しなさい。物理的な刺激と温熱、そしてカプサイシンの局所刺激によって、閉塞した毛細血管の血流を呼び戻すのです!」


「はいっ!」


救護所の中は、まさに戦場と化した。

マリカが指揮を執り、村の女性たちが額に汗を光らせながら、患者たちの間を駆け回る。

「ほら、おじいさん、苦いけど我慢して飲んで! これを飲まないと足が腐っちゃうのよ!」

「息を吸って! 白湯を飲んで! 汗を出して!」

「お湯を足して! 足を温める布が冷えてきたわ!」


女性たちの手によって、温かい薬湯が次々と患者たちの胃袋へと注ぎ込まれていく。

強烈な苦味とニンニクの刺激臭に、最初はむせ返り、吐き出そうとする者もいたが、マリカたちは決して諦めなかった。スプーンを口にねじ込み、背中をさすり、必死に毒素を洗い流すための液体を送り込み続ける。


そして――手足の激痛に狂乱していた中等症の患者たちのもとへ、油を手にした女性たちが取り付いた。

「痛い! 触るな、燃えているんだ!」

暴れる青年の足を、騎士が力強く押さえつけ、村の母親が温めた油をその氷のように冷たい足先へと擦り込んでいく。

指先から足首へ、足首から膝へ。

冷え切り、硬直していた筋肉を、祈るような思いで揉みほぐしていく。


変化が現れ始めたのは、処置を開始してから二時間が経過した頃だった。


「……あ……?」


第二区画のベッドで、先ほどまで「足を切り落としてくれ」と泣き叫んでいた三十代の農夫が、呆然と自らの足先を見つめた。

激しい呼吸が、徐々に落ち着きを取り戻していく。

土気色に青ざめ、氷のように冷たかった男の足の甲に――。

ポッ、と小さな赤みが差したのだ。

ヤナギのサリシンと大蒜のアリシンが消化管から血流へと吸収され、全身の血管を拡張させ始めた証拠。

閉ざされていた毛細血管の扉が開き、せき止められていた温かい動脈血が、飢餓状態に陥っていた末梢組織へと一気に流れ込んでいく。


「温かい……」

男の唇から、掠れた声が零れ落ちた。

「足が……痛くない……? 燃えるような痛みが……引いていく……?」


「血が通ったんだわ!」

足をマッサージしていた妻が、油まみれの手で涙を拭い、叫んだ。

「見て、お前さんの足に血の色が戻ってきた! 青黒かった爪が、ピンク色になってる!」


奇跡のドミノ倒しが始まった。

「痛みが消えた……!」「熱が……体がポカポカして、汗が出てきたぞ!」「息ができる……頭の霧が晴れていく……!」

あちこちのベッドから、嗚咽と歓声が湧き上がった。

祈祷師の呪文でも、教会の高額な聖水でも、何日祈っても一度たりとも引かなかった地獄の激痛が。

エルザが調合した苦い薬湯を飲み、足を温められただけで、嘘のように鎮静化していく。

大量の温湯によって代謝が促され、患者たちは次々と寝床を抜け出して便所へと駆け込み、毒素を含んだ濃い尿を大量に排泄していった。排泄されるたびに、脳を蝕んでいた幻覚の霧が晴れ、狂気から正気へと生還していく。


泥と汗に塗れ、湯気の立ち込める救護所。

マリカは煤けたエプロンの袖で額の汗を拭い、患者たちの安らかな寝息を見つめて、胸を熱くさせていた。

「エルザ様……! 効いています……! 第二区画の患者さんたち、全員の脈拍が安定して、痛みが引いたって……!」


だが。

集会所の最奥――衝立で厳重に仕切られた『第三区画』の前に立つエルザの表情は、依然として氷のように硬いままだった。

彼女の琥珀色の瞳は、衝立の隙間から漏れ聞こえてくる、浅く、苦しげな荒い呼吸の音を見据えていた。


「……喜ぶのはまだ早いですよ、マリカ」

エルザの声は、救護所の歓声を凍りつかせるほど低かった。

「軽症と中等症は、血管が完全に閉塞する前だったから薬理作用で救えたに過ぎない。……だが、あの奥にいる者たちは違う」


エルザは懐から、オスカーに研ぎ澄まさせたいくつものメスが収められた金属ケースを取り出した。

カチリ、と冷たい真鍮の留め金が外れる音が響く。

「組織が完全に死滅し、腐敗菌が侵入して敗血症を引き起こしている。……薬湯など、一滴も届きはしない」


エルザは衝立を押し開けた。

そこには、命の境界線を踏み越え、死神の爪に喉元を掴まれた者たちの、本当の地獄が口を開けて待っていた。

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