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呪いではなく鉛中毒です〜死に戻り侍女は近代医学で冷酷大公を救い、宮廷の嘘を解剖する〜  作者: タカケンサンバ


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第16話:鶏の痙攣と暴かれたカビ

備蓄庫を出ると、降りしきる冷雨はみぞれ混じりの突風へと変わり、凍てつく飛沫となって広場を吹き抜けていた。

中央広場には、異様な膠着状態が張り詰めていた。

木柵の内外を制圧した五十騎の黒狼騎士団は、漆黒の重装甲冑の上に氷雨を弾かせながら、一糸乱れぬ包囲陣を敷いていた。抜刀された長剣と穂先が、白銀の法衣を泥で汚した五十名の神殿兵たちを完全に威圧し、指先ひとつ動かすことすら許していない。

泥濘(ぬかるみ)の真ん中、大剣の切っ先を突きつけられたまま膝をついていた審問官ルシアンは、凍える寒さと恐怖に歯の根をガタガタと鳴らしながらも、その濁った双眸に執念深い狂信の炎を燃やし続けていた。


「戻られたか、エルザ」

背後から響いたテオバルトの声に、騎士たちが左右へと道を開ける。

泥にまみれたエプロンの裾を翻し、木靴の音を響かせて歩み出てきたのは、エルザだった。

その両手には、備蓄庫から持ち出してきた粗末な素焼きの小皿が捧げ持たれている。背後には、真鍮の顕微鏡を収めた木箱を抱えたマリカと、青ざめた顔で立ち尽くす老村長が従っていた。


エルザは迷いなく、泥の中に平伏していたルシアンの眼前まで歩み寄ると、靴先で泥を跳ね上げることもなく、すっと小皿を男の鼻先へと突き出した。


「審問官様。検分を終えました」

淡々とした、だが雨音を切り裂いて広場全体に染み渡るような硬質な声。

「村人たちが悪魔と契約などしていない動かぬ証拠です。この黒い粒をご自身のお目でよく御覧なさい」


ルシアンは吐き気を催すような激痛を喉元の大剣から感じながら、忌々しげに視線を小皿へと落とした。

白い素焼きの皿の上に転がっていたのは、十数粒の奇怪な異物だった。

通常のライ麦の三倍近くに膨れ上がり、不気味な黒紫色に鈍く光る、まるで獣の角(ツノ)のように鋭く湾曲した硬い塊――。


「……あ……?」

ルシアンの眉間に深い溝が刻まれた。

「な、なんだこれは……? ただの……腐った麦の搾りかすではないか……!」


「麦角菌の菌核です」

エルザは皿を水平に保ったまま、解剖学の講義を行うかのように淀みなく言葉を紡いだ。

「冷夏と長雨の湿気によってライ麦の穂先に寄生した、純粋なカビの結晶体です。そして、この黒い粒に含まれる麦角アルカロイド(エルゴタミン)こそが、村人たちの手足を焼き、その正気を奪っている毒素の正体です」


エルザは冷徹な眼差しで、広場の泥の中で今なお悶絶している村人たちを一瞥した。

「この毒素は、生体組織におけるαアドレナリン受容体を強力に刺激し、末梢血管の平滑筋を持続的、不可逆的に収縮させます。細動脈が万力で締め上げられるように閉塞し、毛細血管の血流が完全に途絶する。血が通わなくなった手足の組織は急速に虚血壊死を起こし、黒くミイラ化して脱落するのです。……さらに、毒素が血液関門を通過して中枢神経系を侵食すれば、セロトニン受容体の攪乱によって激しい幻覚と全身の筋肉の制御不能な痙攣を誘発する」


エルザの指先が、小皿の黒い角を指し示す。

「これが、あなたが『悪魔の宴』『神の業火』と呼び、百人以上の命を生きたまま焼き殺そうとした現象の全貌です。悪魔の囁きなどどこにも存在しません。村人たちはただ、この毒カビの混ざった粉でパンを焼き、知らずに毎日口に含んでいただけなのです」


静まり返る広場。

テオバルトをはじめとする黒狼騎士団の兵士たちが、息を呑んで皿の上の黒い粒を見つめた。

あまりにも理路整然とした解説。奇怪極まる現象の裏に潜んでいた、身の毛のよだつほど明快な物質の理屈。


だが――。

泥に塗れたルシアンの顔面に浮かび上がったのは、納得でも悔悛でもなかった。

それは、己の信じてきた世界のすべてを否定された狂信者が浮かべる、醜悪極まる嘲弄と逆上だった。


「……くっ……くははッ! あはははははッ!」

ルシアンは喉元に刃を突きつけられていることすら忘れ、黄色い歯を剥き出しにして哄笑を上げた。飛沫が飛び散り、泥水がその口元を汚す。

「戯言を! 笑止千万! 大公家の回し者かと思えば、小娘の口から出たのはただの作り話、お伽話の妄想ではないか!」

「妄想ではありません。生物学と薬理学の事実です」


「黙れ、悪魔の代弁者め!」

ルシアンは唾を吐き捨てるように怒鳴り散らした。

「ただの草の燃えカスに、カビなどという下賤な名をつけ、神聖なる神罰を覆そうなどと神への冒涜も甚だしい! いいか、この村の者共の手足が腐り落ちているのは、魂が悪魔に売られた証なのだ! 踊り狂っているのは、地獄の業火に魂が焼かれているからだ! 聖典のどこに、草の粒一つで人間が悪魔のように発狂するなどと書かれている!? 書かれておらんのだ! 聖典にない理屈はすべて悪魔の欺瞞である!」


目を血走らせ、狂乱の叫びを上げるルシアン。

神殿の私設兵たちもまた、その言葉に勢いを得たようにざわめき始めた。

「そうだ……! そんな小さな粒で人が狂うはずがない!」「小娘のペテンだ!」「悪魔の呪いを誤魔化そうとしているのだ!」


騒然となる中央広場。

だが、その狂乱の波を前にしても、エルザの表情は湖面のように凪いでいた。

怒りも、失望も、焦燥すらない。

言葉の通じない狂信者を前にした時、知性を持つ人間が取るべき行動は一つしかないことを、彼女は前世の処刑台の記憶から骨の髄まで理解していた。


「……言葉では理解できないのですね」

エルザは小皿をマリカへと手渡した。

「概念を論理的に説明しても、教義という名の耳栓をしている者には届かない。……ならば結構です」

エルザはすっと顔を上げ、周囲の騎士たちへと視線を巡らせた。


「論より証拠をお見せしましょう。言葉で納得できないのであれば――目の前で起きる『現象』によって、その曇った眼球を無理矢理にでも開いて差し上げます」


「な……何を企んでいる……!?」ルシアンが眉根を寄せる。


エルザは周囲を素早く見渡した。

村の民家の軒下、泥水溜まりの端を、餌を求めて所在なげに歩き回っていた数羽の家禽――放し飼いにされていた村の雄鶏が、雨宿りをしながらクックと喉を鳴らしていた。

エルザは近くに控えていた黒狼騎士団の若い兵士を指差した。

「そこの騎士様。あそこの雄鶏を一羽、捕まえてここへ連れてきなさい。傷つけずに、暴れないよう羽を固定して」

「は、はっ!」

兵士は戸惑いながらも、大公の主治医の命令に即座に従い、泥濘を駆け抜けて見事な手つきで大柄な赤褐色の雄鶏を捕獲してきた。抱えられた鶏は、見知らぬ人間に捕らえられて激しく羽ばたき、クワックワッと甲高い声を上げて暴れている。健康そのものの、血気盛んな生体。


「テオバルト副官、作業台としてそこの樽をこちらへ」

「あ、ああ……」

テオバルトが転がっていた酒樽を立て、エルザの前に置いた。

エルザは手元のトランクから、清潔な磁器製の小さな乳鉢と乳棒、そして少量の蒸留水が入ったガラス瓶、細長いガラススポイトを取り出した。

オスカーが精製した、不純物を一切含まない実験器具。


エルザは小皿から、あの黒い麦角の粒を三粒だけ取り出し、乳鉢の底へと落とした。

カラン、と硬質な音が響く。

「見なさい、審問官様」

エルザは乳棒を握りしめると、体重をかけて黒い角を力任せに押し潰した。


ガリ、ゴリゴリ……。


硬い外皮が砕け散る、鈍い破壊音が広場に反響する。

エルザの手首がリズミカルに円を描き、黒い破片は瞬く間に微細な暗紫色の粉末へとすり潰されていく。そこへ、スポイトで温められた蒸留水を数滴、滴下した。

粉末が水に溶け出し、乳鉢の底に、濁った赤紫色の濃厚な浸出液が生成される。

ツンと鼻を突く、独特の生臭いアルカロイドの刺激臭が、冷たい雨の空気の中に微かに漂い出た。


「エルザ、その液体は……?」ギルバートが低く問う。

「麦角アルカロイドの濃縮浸出液です。経口投与による急性毒性反応の生体検証を行います」


エルザはガラススポイトのゴム球を指先で押し、乳鉢の底から赤紫色の毒液をチューと吸い上げた。目盛りにして、わずか一ミリリットル足らず。

彼女は鶏を抱えている騎士の前へと歩み寄った。

「頭部を固定し、嘴(くちばし)をこじ開けなさい」

「は、はっ!」

兵士が鶏のトサカを掴み、暴れる嘴を無理やりに開かせる。

エルザは躊躇うことなく、スポイトの先端を鶏の喉奥へと深く差し入れた。

キュッ、とゴム球が押し込まれ、赤紫色の毒液が一滴残らず鳥の素嚢(すのう)へと流し込まれる。


「……飲ませたぞ」

「一体何が起きるんだ……?」

神殿兵たちも、黒狼騎士団の兵士たちも、そして泥の中に座り込むルシアンも、全員が固唾を呑んで樽の上の雄鶏を凝視していた。

雨音だけが、ザアザアと降り注ぐ。


最初の三十秒、何も起きなかった。

嘴を解放された鶏は、首を振って異物を吐き出そうとしたものの、やがて何事もなかったかのように樽の上で羽繕いを始めた。

それを見たルシアンが、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

「……ふん! 茶番だ! 鶏一羽すら殺せん泥水を飲ませて、一体何が証明できたというのだ! やはり悪魔の戯言――」


「黙って見ていなさい」

エルザの冷徹な一喝が、ルシアンの言葉を断ち切った。

「鳥類の代謝速度は、哺乳類の数倍です。血流に乗って毒素が標的組織へ到達するまで――三分と持ちません」


エルザが懐から取り出した真鍮の懐中時計の秒針が、チ、チ、チ、と冷徹に時を刻む。

一分が経過した。


その時だった。


「……コッコッ……?」

樽の上の鶏が、唐突に不審な鳴き声を上げた。

羽繕いをしていた首が、ピクン、と不自然に跳ね上がる。

次の瞬間、鶏の両脚が、まるで目に見えない糸で引き攣られたかのように、ピーンと硬直した。爪先が樽の木肌をギリギリと引っ掻き、奇妙な痙攣を始める。


「な……?」神殿兵の一人が呟いた。


変化は、そこから加速度的に暴走を始めた。

投与から二分。

先ほどまで鮮やかな真紅に染まっていたはずの、鶏の頭頂部にある立派なトサカ(鶏冠)。

そのトサカの先端から、目に見える速度で「赤み」が引いていったのだ。

毛細血管が極限まで締め上げられ、血液が完全に締め出されていく。

鮮紅色は瞬く間に土気色の白へと変わり、次いでチアノーゼの青紫、そして――先端からドス黒い、まるで腐った葡萄のような黒紫色(ブラック・パープル)へと変色していった。


「トサカが……! トサカの色が、死人の皮膚みたいに変わっていく……!?」

マリカが叫ぶ。

それだけではなかった。

肉髯(にくぜん)までもが漆黒に変色した鶏は、突如としてバサバサバサッ!!と狂乱の勢いで羽を羽ばたかせた。だが、その動きには何の統制もない。

首を真後ろへ、骨が軋むほどの異常な角度へと反り返らせ(後弓反張)、両目を白濁させて見開いたまま、樽の上を制御不能に跳ね回り、激しく痙攣しながら泥の中へと転がり落ちた。


「ギャッ……クワッ……クルルルッ……!」

喉から泡を吹き、手足を突っ張らせて泥水の中で狂ったように踊り回る鶏。

その姿は――。

今まさに広場で「足が燃えている」「悪魔が踊らせている」と叫びながら身悶えている村人たちの凄惨な姿と、寸分違わず、完全に一致していた。


「ひっ……!?」

神殿兵たちが、一斉に悲鳴を上げて後退った。

槍を持つ手がガタガタと震え、互いの甲冑をぶつけ合って音を立てる。

「同じだ……! 村人たちと……まったく同じ発作だ……!」

「悪魔の呪いではないのか……!? あの黒い粉を飲んだだけで……!?」


そして投与から三分。

泥水の中で激しく痙攣していた鶏は、バタリと横倒しになり、黒く変色したトサカを泥に浸したまま、ピクピクと足を硬直させて動かなくなった。

絶命ではない。だが、末梢の虚血と中枢神経の急性麻痺により、完全に昏睡状態へと陥っていた。


中央広場を、死のような静寂が支配した。

雨の音だけが、ペチペチと倒れた鶏の羽を叩いている。


その絶対の沈黙の中、エルザはゆっくりと歩みを進めた。

泥まみれの鶏を一瞥すらしなかった。彼女の琥珀色の瞳は、ただ一人、泥濘の中で腰を抜かし、幽霊でも目撃したかのように顎をガクガクと震わせているルシアンへと、真っ直ぐに注がれていた。


「……ご覧になりましたか、審問官様」

エルザの声は、どこまでも澄み渡り、それゆえに氷の刃のように残酷だった。


「悪魔と契約した覚えなど欠片もない、神への信仰すら持たないただの鶏ですら――あの黒いカビの粒をすり潰して飲ませれば、わずか数分で、あなた方の言う『悪魔の舞踏病』と寸分違わぬ症状を起こし、手足を黒く壊疽させて倒れ伏します」


エルザは乳鉢を持ち上げた。

まだ底には、数羽の命を奪うに足る、濃厚な赤紫色の毒液が残されている。

彼女はルシアンの目の前にかがみ込み、その乳鉢を男の鼻先わずか数寸の位置へと突き出した。


「これが、あなたの言う『神聖なる浄火』を下すべき悪魔の呪詛の全貌です。毒キノコを食べて腹を壊すのと、生化学的に何の違いもありません。……神の罰でも、悪魔の宴でもない。ただの、自然界に存在する有機化合物の生体反応に過ぎないのです」


ルシアンの顔面から、完全に血の気が失われていた。

唇は紫色にチアノーゼを起こし、額からは雨水に混ざって冷たい脂汗が滝のように流れ落ちている。

自らが「神の正義」と信じ込み、百数十名の人間を生きたまま焼き殺そうとしていた大義名分が――たった一羽の鶏の痙攣と、少女の振るう乳棒によって、完膚なきまでに粉々に粉砕されたのだ。


「う……あ……あ……」

喉から掠れた空気の音が漏れるだけで、言葉にならない。


エルザの口元に、冷酷極まる、絶対零度の笑みが浮かんだ。

彼女は乳鉢をさらに一歩、ルシアンの唇へと近づけた。


「……それとも、審問官様。あなたはいまだに、この黒い粒が悪魔の使い魔の化身であると主張されるおつもりですか?」

エルザの瞳の奥に宿る暗闇が、ルシアンの魂を直接締め上げる。

「もしそう仰るのなら、どうぞ証明なさってください。神への信仰が篤く、主の絶対的な加護を一身に受けていらっしゃるあなた様であれば――悪魔の毒など何の効果もないはずです」


エルザは乳鉢を傾け、毒液をルシアンの唇へ触れんばかりに迫らせた。


「さあ、飲み干しなさい。この黒い粒を一握り、今ここで一気に胃袋へ流し込み、あなたの神の奇跡によって手足が腐らぬことを、その身をもって証明してみせなさい!」


「ひ……っ! ひぎゃああああああああっっ!!」


ルシアンは喉を引き裂くような絶叫を上げ、狂乱の勢いで両手を振り回して後方へと飛び退いた。

だが、足をもつれさせた男は、受け身を取ることもできず、泥水の中に無様極まりない音を立てて尻餅をついた。

バシャアンッ!

泥水が跳ね上がり、ルシアンの白銀の法衣を頭から爪先まで茶色く染め上げる。


神の代理人を気取り、百の命を焼き殺そうとしていた男は、今や全身をガタガタと震わせ、自らの股間から生温かい液体を漏らしながら、ただ泥の中でエルザを見上げて命乞いをするだけの、哀れな虫けらへと成り果てていた。


その無残な自滅の光景を見下ろし、大剣を構えていたギルバートが、喉の奥から獰猛な嗤い声を漏らした。

「……ククッ。神の奇跡とやらは、一滴の毒を前にして逃げ出す程度の下らぬものだったようだな、審問官殿」


迷信という名の虚飾の仮面は、完全に剥ぎ取られた。

雨煙の立ち込めるヴェルデ村の広場に、いま、近代医学の絶対的な勝利の鐘が、冷徹に鳴り響いていた。

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