第15話:レンズの奥の黒い角
木柵を押し開けて足を踏み入れたヴェルデ村の内部は、雨と泥に溶けかけた、生きた煉獄そのものだった。
外側から立ち込めていた石炭油の刺激臭は、集落の中へと進むにつれて急速に掻き消され、代わりに鼻腔の奥を容赦なく締め上げてきたのは、濃密な饐えた汗の臭いと、排泄物が垂れ流された下水のような汚濁、そして――冷たい雨水に冷やされながらも確かに立ち上る、肉が徐々に壊死していく特有の生臭さだった。
「ひっ……!」
エルザの斜め後ろで、薬品と器具の木箱を両腕で抱え込んでいたマリカが、短い悲鳴を上げてその場に立ちすくんだ。
木靴が泥濘に深く沈み込み、冷たい飛沫が足首を打つ。
広場の中央、剥き出しの土と泥水が混ざり合う地面の上で、一人の若い男が狂ったように身悶え、のたうち回っていた。
着ている麻のシャツは泥にまみれてボロボロに引き裂かれ、露出した胸板には、自らの爪で狂ったように掻き毟った生々しい血の筋が無数に走っている。
「熱い! 熱いぃぃっ! 足が燃えているんだ! 誰か、誰か火を消してくれぇぇッ!」
男の絶叫は、耳を塞ぎたくなるほど悲痛だった。
彼は泥水を自らの足へと狂乱の勢いで浴びせかけ、それでも足りぬとばかりに、氷雨の溜まる水溜まりへと両足を力任せに突っ込み、凍てつく泥を自らの素肌に擦り付けていた。だが、どれほど冷水を浴びせようとも、男の瞳孔は狂気に見開かれ、喉が裂けんばかりの絶叫は止まらない。
「火なんて……火なんてどこにもついていません! どうして……!?」
マリカが震える声で叫ぶ。
その隣を、エルザは風のように通り過ぎた。
泥水がエプロンの裾を跳ね上げようとも意に介さず、エルザは暴れ狂う青年の足元へと膝をついた。高価なウールのスカートが泥水に浸かり、瞬く間に重く冷たい水を吸い上げていく。
「マリカ、木箱を地面に置きなさい。そして彼の右肩を押さえなさい」
「は、はいっ!」
エルザの声は、恐ろしいほど平坦だった。
青年が振り回す泥だらけの右足を、エルザは華奢な両手で力強く挟み込み、地面へと縫い止めた。男は「触るな! 業火が燃え移るぞ!」と泡を吹いて叫んだが、エルザの指先は寸分の動揺もなく、男の履いていた泥まみれの羊毛の靴下を、足首から一気に引き裂くように剥ぎ取った。
剥き出しになった右足。
それを見た瞬間、マリカの喉が「ひゅっ」と息を呑んで凍りついた。
「……あ……」
青年の足先には、火など一筋もついていなかった。
それどころか――。
足首から先、五本の足指に至る皮膚は、まるで炭火で蒸し焼きにされた木炭のように、あるいは極寒の雪山で放置された死体のように、どす黒く、禍々しい黒紫色に変色していた。
エルザが手袋を外した指先で、黒ずんだ足の甲へと直接触れる。
氷の塊。
触れた皮膚は、青年の「燃えている」という叫びとは完全に正反対に、まるで死後数時間が経過した死体のように冷たく、硬直していた。毛細血管の拍動は完全に消失し、足背動脈の拍動すら触れない。
「末梢の虚血性壊疽……乾燥壊疽の極期です」
エルザは青年の皮膚の境界線を冷徹に視認した。
黒く変色した足先と、まだ赤みを残している足首の境界には、明瞭な赤い炎症の輪が浮き上がっている。
「麦角アルカロイドによって血管平滑筋が極限まで攣縮し、末梢への血流が物理的に完全に遮断されている。酸素と栄養を絶たれた神経細胞が、死滅する間際に激しい異常信号――脳へ向けて最大級の『灼熱痛』のシグナルを誤送信しているのです。……患者にとっては、本当に手足が業火で焼かれているのと何一つ変わらない地獄の苦痛です」
「そ、そんな……! 足はこんなに氷みたいに冷たいのに、本人は焼かれていると思い込んでいるなんて……!」
マリカの瞳に涙が滲む。
だが、地獄は広場の青年一人にとどまらなかった。
周囲の粗末な石造りの民家から、開け放たれた窓や扉を通じて、絶え間なく阿鼻叫喚の呻き声が重なり合って響いていた。
ある家の中では、若い母親が激しい全身痙攣を起こし、まるで弓のように背中を極限まで後方へ反らせた姿勢(後弓反張)のまま、白目を剥いて黄色い胃液を吐き散らしていた。その傍らでは、三歳ほどの幼子が、意味をなさない言葉を叫びながら自らの頭壁に打ち付け、見えない悪魔の影を払おうと虚空を掻き毟っている。
中枢神経が毒素によって狂わされ、脳内の神経伝達物質が暴走しているのだ。
「エルザ様……! あちこちの家から、苦しむ声が……! 本当に、本当に呪いではないのですか!? こんな恐ろしい病気、私、見たことも聞いたこともありません……!」
マリカが震える手でエルザの腕に縋り付いた。
周囲の光景は、神殿が「悪魔の宴」と呼ぶにふさわしい、あまりにも異様で、理性を失った狂気の光景だったからだ。
エルザは立ち上がり、マリカの肩を両手でしっかりと掴んだ。
その琥珀色の瞳は、荒れ狂う嵐の海にあって、微動だにせぬ灯台のように揺るぎない光を湛えていた。
「マリカ。私の目を御覧なさい」
「……エルザ、様……」
「怖がる必要は一切ありません。現象に圧倒されて思考を止めるのは、無知な神官どもと同じ愚行です。よく観察しなさい。発症している者たちに、呼吸器からの飛沫感染や、皮膚接触による病変の拡大は見られますか?」
「え……?」
マリカが息を呑み、周囲を見渡す。
「激しく痙攣する母親を抱きしめている父親は、熱を出していません。狂乱する青年に寄り添う老人は、手足の壊疽を起こしていない。……人から人へ伝染するペストや天然痘の類ではないのです。この村の住人が、ある特定の期間に、全員で共通して口にした『何か』が存在する。原因は外部の悪魔ではなく、彼らの胃袋の中にあります」
エルザの極めて明晰で理路整然とした言葉が、マリカのパニックを急速に鎮静化させていく。
そこへ、柵の向こうから這うようにして近づいてきた影があった。
泥まみれの老村長だった。
「お、お嬢様……! 大公閣下の連れてこられたお方……! どうか、どうか村をお救いください……! 私たちは本当に悪魔など呼んでおらんのです! 神への祈祷も、大聖堂への寄進も、貧しい収穫の中から欠かさず納めてまいりました! それなのに、なぜ神はこのような罰を……!」
「祈祷の話は結構です、村長」
エルザは老人の懇願を冷たく遮った。
「神の罰でも悪魔の呪いでもありません。あなた方が食べた穀物の毒です。……村長、この村の住民が共有している穀物の備蓄庫へ案内しなさい。今すぐに」
「え……? こ、穀物倉ですか……? しかしあそこには、今年の秋に収穫したライ麦が保管されているだけで……」
「そこに、彼らを狂わせている毒の塊があります。案内を」
有無を言わさぬエルザの覇気に、村長は幽霊にでも命じられたかのように震え上がり、「は、はい……! こちらです……!」と立ち上がった。
◇
村の北側の斜面、陽の当たらない鬱蒼とした針葉樹の影に、石造りの共同備蓄庫は佇んでいた。
冷夏と長雨の影響か、外壁の巨石の隙間にはびっしりと黒いカビと苔が繁殖し、屋根の庇からは雨水が絶え間なく滴り落ちていた。
村長が震える手で重い鉄の閂を外すと、ギィィィと鈍い軋み音を立てて樫の木の扉が開かれた。
モワッ、と鼻腔を突いたのは、息が詰まるような冷気と、耐え難いほどの澱んだ湿気だった。
風通しの極めて悪い庫内には、粗末な麻袋に詰められたライ麦の俵が、天井近くまでうずたかく積み上げられている。床の敷き藁は湿気を吸って腐敗しかけ、カビ特有の青臭い埃の匂いが立ち込めていた。
「ランプを」
エルザの指示を受け、マリカが手早くカンテラに火を灯した。
揺らめく黄色の炎が、山積みにされた麻袋の山を照らし出す。
エルザは腰のベルトから、オスカーに特注で作らせていた清潔なステンレス製の解剖用メスを引き抜いた。迷いなく一番手前に積まれていた麻袋の腹へと刃先を突き立て、一気に横へと切り裂く。
サァッ、と乾いた音を立てて、麻袋の裂け目から無数のライ麦の穀粒が床へと雪崩れ落ちた。
エルザは床に膝をつき、両手でその穀粒を掬い上げた。
カンテラの光を限界まで近づける。
(……見つけなさい、エルザ。必ず混ざっているはずだ)
エルザの琥珀色の瞳が、掌の上の微小な穀粒を、猛禽のような集中力で走査していく。
正常なライ麦の粒は、淡い黄褐色から灰緑色をしており、長さは五ミリから八ミリ程度、表面には細い縦の溝が一本通っている。
だが――。
その正常な穀粒の隙間に、明らかに異質な、禍々しいものが混ざり合っていた。
「……あった」
エルザの指先が、ピンセットのように正確にその異物を摘み上げた。
マリカがカンテラを掲げ、息を呑んでエルザの手元を覗き込む。
「な……んですか、それ……? 麦の粒……? でも、色が……」
エルザの白く細い指先に載っていたのは、正常なライ麦の穀粒の、およそ二倍から三倍――長さ二センチ近くにまで異常肥大化した、奇怪な物体だった。
色は、熟した穀物の色などではない。
光を吸い込むような、不気味な黒紫色。
形状は丸みを帯びておらず、まるで細長く湾曲した、動物の鋭利な角のように硬く尖っていた。指先で強く圧迫しても潰れることはなく、まるで乾燥した木の実のような硬度を持っている。
「穀粒ではありません」
エルザは冷徹に言い放ち、ランプの光の下でその黒い角を回転させた。
「麦角菌の菌核です」
「バッカクキンの……キンカク……?」村長が呆然と呟く。
「そうです。ライ麦が開花する時期、長雨によって胞子が雌しべの柱頭に付着し、子房の組織を完全にカビの菌糸で乗っ取ってしまった成れの果てです。麦の粒ではなく、冬を越すためにカビが自らの肉体を固めて作り上げた、硬い菌糸の塊そのものなのです」
エルザは立ち上がり、切り裂いた麻袋の奥から、別の穀粒を手づかみで取り出した。
一つ、二つではない。
ほんの一握りの麦の中に、あの黒い角状の菌核が、十数粒も当たり前のように混ざり合っていた。
全体の収穫量の、優に数パーセントを超える汚染率。
「……恐ろしい量です。通常、麦角の混入率が〇・一パーセントを超えるだけで、重篤な中毒症状を引き起こすとされている。この袋の麦でパンを焼き続ければ、村中が発狂して手足を壊疽させるのは、生化学的に見て百パーセント必然の結果です」
「ひっ……!」村長が顔面を蒼白にしてへたり込んだ。
「そ、そんな……! 私たちは、ただの麦の出来損ないだと思って……! 今年は長雨で麦が黒ずんでおるが、もったいないから粉に挽いてしまおうと……! 自分たちで、自分たちの手で毒を……!?」
「後悔するのは後にしなさい。まだ証明すべき作業が残っています」
エルザは背負っていた革のトランクを作業台の上に下ろした。
留め金を外し、中から慎重に取り出したのは――鈍い真鍮の輝きを放つ、精巧な筒状の機械だった。
オスカーがエルザの設計図に基づき、城下のギルドの全技術を注ぎ込んで完成させた、帝国初の『携帯用複式顕微鏡』。
鏡筒、ラック&ピニオンの焦点調節ダイヤル、下部の凹面鏡、そして先端に取り付けられた高倍率の対物レンズ。
エルザはトランクから取り出したスライドガラスをテーブルの上に置くと、手元の剃刀の刃をランプの火で軽く炙って滅菌した。
そして、あの黒い麦角の菌核を指先で固定し、職人技のような精密さで、その断面から向こう側が透けて見えるほど極薄の切片を切り出した。
ピペットで蒸留水を一滴落とし、切片を載せ、気泡が入らぬよう慎重にカバーガラスを被せる。
プレパラートをステージの上に固定し、凹面鏡の角度を調整して、カンテラの光を標本の下から反射させた。
エルザは接眼レンズに右目を当て、ダイヤルをゆっくりと回転させる。
カリ、カリ、と真鍮の歯車が噛み合う微かな音。
ぼやけていた視界が、急速に焦点を結んでいく。
円形の光の輪の中に広がったのは、肉眼では決して見ることのできない、息を呑むほどに精緻で異様なミクロの世界だった。
(……見えた)
それは、植物の細胞構造――規則正しいセルロースの細胞壁を持つ組織とは、根本的に異なっていた。
無数の細長い糸のような構造――菌糸が、まるで複雑な織物のように高密度に絡み合い、互いに癒着して形成された、緻密な偽組織(偽柔組織)。
外側を覆う黒褐色の厚い皮層と、内部にびっしりと詰まった無色の菌糸細胞。その細胞内には、高濃度のアルカロイド毒素を蓄えた微小な油滴が、光を浴びて無数に輝いていた。
「……完全な子嚢菌類特有の菌核組織。細胞壁のキチン質、密集した偽菌糸、そして麦角アルカロイドの油滴沈着を確認」
エルザはレンズから目を離さず、淡々と呟いた。
「植物の奇形でも、悪魔の呪詛でもない。ただの、子嚢菌門バッカクキン科に属する菌類の、生存のための生殖構造です。この微小な細胞の塊が、血管を締め上げ、人間の脳を狂わせる毒の工場となっているのです」
「……これが、悪魔の正体か」
不意に、背後から低く重厚な声が落ちてきた。
エルザが振り返ると、備蓄庫の入り口に、巨躯の影が立っていた。
ギルバート・フォン・ラングリール大公。
外套の肩に冷たい雨を滴らせ、大剣を鞘に納めた大公が、静かな足取りで埃っぽい倉庫の中へと歩み寄ってきた。外の神殿兵たちを黒狼騎士団の武力で完全に包囲・無力化し、自らエルザの背を追って入ってきたのだ。
エルザは身を引いて、顕微鏡の横を空けた。
「大公閣下。御覧になりますか」
「……ああ」
ギルバートは無言でエルザの前に屈み込み、その大きな身体を折り曲げるようにして、真鍮の接眼レンズへと氷灰色の瞳を落とした。
静寂が、薄暗い備蓄庫を支配する。
カンテラの炎が微かに揺れ、雨音が石屋根を激しく叩く。
やがて、レンズを覗き込んでいたギルバートの息が、小さく詰まった。
歴戦の戦場で幾千の敵を屠り、宮廷の権謀術数をくぐり抜けてきた大公の瞳に、生まれて初めて目にする「生命の極微の世界」に対する、強烈な戦慄と畏怖が走る。
そこに蠢く、緻密極まる菌糸の幾何学模様。
目に見えぬほど小さく、だが何百人もの人間を生きたまま焼き殺すほどの破壊力を秘めた、物質の真実の姿。
「……信じられんな」
ギルバートはゆっくりと顔を上げ、自らの掌を見つめた。
「神殿の司教どもは、これを悪魔の呪いだと言い、祈祷を捧げ、村人を焼き殺そうとした。……だが、実態はこれか。この小さな、草に寄生するカビの欠片に過ぎんというのか」
「ええ、大公閣下」
エルザは白磁のような横顔を上げ、カンテラの光の下で静かに告げた。
その瞳には、神殿の欺瞞を完全に解剖し終えた、絶対的な知性の光が宿っていた。
「目に見えないほど小さく、しかし確実に人を殺す――ただの生物の営みです。神の奇跡も、悪魔の呪詛も、このレンズの奥には一寸たりとも存在しません」
敵の正体は完全に暴かれた。
次なる戦いは、この狂信の審問官どもの目の前で、迷信の嘘を完膚なきまでに叩き潰す公開解剖の舞台へと移っていく。




