↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
呪いではなく鉛中毒です〜死に戻り侍女は近代医学で冷酷大公を救い、宮廷の嘘を解剖する〜  作者: タカケンサンバ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/48

第14話:黒狼の抜刀と冷たい雨

北へ向かうにつれ、空は鉛の塊のように重く垂れ込め、やがて凍えるような氷雨となって大地を叩き始めた。

車輪が泥濘(ぬかるみ)を抉り、泥水を激しく跳ね上げる。

エルザとマリカを乗せた頑丈な医療馬車は、黒狼騎士団の五十騎が疾走する地響きに追従し、険しい山道を猛烈な速度で駆け抜けていた。馬車の小窓を打つ雨粒は、もはや液体というより氷の粒に近く、ガラスを伝う水滴の向こうで木々の枝が骨のように白く凍りついている。


「……っ、冷えますね、エルザ様」

膝の上に清潔な包帯の包みと薬箱を抱え込んだマリカが、唇を青ざめさせながら小さく身を震わせた。

車内には暖を取る火鉢すらない。急を要する行軍のため、余分な荷物はすべて切り捨てられていた。だが、エルザの琥珀色の瞳は、寒さなど知らぬかのように澄み渡り、膝の上に広げた羊皮紙の覚書へと注がれていた。

「震えている暇はありませんよ、マリカ。筋肉を小刻みに震わせて体温を維持しなさい。現地に到着した瞬間から、私たちは泥と血と悪臭の海に飛び込むことになります。……心の準備はできていますか」

「は、はい……! 大丈夫です!」

マリカは震える両手でエプロンを握りしめ、力強く頷いた。


外から、騎馬の蹄の音が馬車の横へと近づいてきた。

窓のカーテンをわずかに開けると、黒鉄の甲冑の上に降りしきる雨を弾かせながら、テオバルトが馬上から声を張り上げていた。水飛沫が副官の頬を伝い落ちる。

「エルザ! 峠を越えた! 前方の谷底にヴェルデ村の木柵が見える! ……だが、煙が上がっているぞ! すでに神殿の連中が手を下し始めたかもしれん!」


「煙……!?」

エルザは窓から身を乗り出し、灰色の雨煙の彼方を見据えた。

狭隘な渓谷の底、針葉樹林に囲まれた寒村の入り口から、黒く重苦しい煙が細く立ち上っていた。雨に打たれながらも燻り続けるその煙は、薪の燃える匂いとともに、かすかに鼻を突く鉱物油――石炭油の刺激臭を風下へと運んでいた。

「急ぎなさい! 油を撒いて火を回されたら、一分と持たずに村全体が火の海になります!」


エルザの叫びに応じるように、車列の先頭を駆ける巨大な黒馬の上から、咆哮のような号令が轟いた。

「全騎、突撃(突貫)態勢! 馬車を中央に挟み、柵を突破するぞ!」

ギルバートだった。

漆黒の軍外套を雨に濡らし、氷灰色の双眸に濃密な殺気を滾らせた大公が、馬腹を強く蹴る。五十騎の重装騎兵が一斉に加速し、泥を蹴散らしながら坂道を怒涛の勢いで雪崩れ落ちていった。


◇


ヴェルデ村の入り口は、異様なバリケードによって完全に封鎖されていた。

本来は野生動物の侵入を防ぐための丸太の木柵の前に、乾いた薪や枯れ枝、古い荷車が幾重にも積み上げられ、高さ二メートルを超える即席の防壁が築かれていた。その木組みの表面には、黒々とした石炭油がたっぷりと塗りたくられ、降りしきる冷雨を弾いて不気味にギラついている。


柵の内側からは、この世のものとは思えない阿鼻叫喚の狂乱が響き渡っていた。


「助けてくれ! 出してくれぇぇっ!」

「悪魔など呼んでいない! 神よ、なぜ私たちを焼き殺そうとなさるのですか!」

「痛い……っ、足が燃えている! 誰か水をくれ、火を消してくれぇぇっ!」


泥水に塗れた柵の隙間から、無数の手が突き出されていた。

だが、その手の光景は、あまりにも凄惨を極めていた。

多くの村人の指先が、まるで炭火で焼かれたかのように真っ黒に変色し、乾からびて硬直していた。激痛のあまり自らの爪を丸太に立て、皮膚を引き裂き、血と膿を滴らせている者。激しい中枢神経の痙攣によって、弓なりに背中を反らせて泥水の中で泡を吹き、手足を制御不能に踊らせている母親。泣き叫ぶ幼子の足先は、すでに壊疽が始まって冷たく硬い黒紫色の肉塊と化していた。


だが、その地獄絵図を見下ろす柵の外側には、神の慈悲など一片も存在しなかった。


積み上げられた薪の山の上、一段高い岩場に立っていたのは、白銀の豪奢な法衣の上に真鍮の胸当てを纏った一人の男だった。

異端審問官、ルシアン。

帝都正教会の頂点に君臨するアンセルム首席司教の直属であり、「神の鉄槌」を自称する若き狂信者。整った神経質そうな顔立ちには、苦悶にあえぐ村人たちへの哀れみなど微塵もなく、あるのはただ、穢らわしい汚物を消毒するかのような冷酷な優越感だけだった。


ルシアンの周囲を取り囲む五十名の神殿私設兵たちは、鉄兜を目深に被り、濡れた長槍とクロスボウを柵の内側へ向けて構え、逃げ出そうとする者がいれば容赦なくその切っ先で突き戻していた。


「無駄な足掻きはおやめなさい、悪魔の器どもよ」

ルシアンの声は、雨音を切り裂いて冷たく響き渡った。

彼は油を染み込ませた巨大な松明を右手に掲げ、左手には大聖堂の紋章が刻まれた重厚な聖典を高く掲げた。松明の赤い炎が、雨の中でも消えることなく、ジュクジュクと油を爆ぜさせて黒煙を吹き上げている。


「神聖なる帝国に、悪魔の棲み処は一寸たりとも不要である! 汝らの手足が黒く腐り落ち、理性を失って踊り狂っている事実こそが、汝らが悪魔の甘言に耳を貸し、神への信仰を捨て去った動かぬ証拠! 病ではない、これは神罰であり、魂の腐敗である!」

「違います、審問官様! 私たちはただ、収穫した麦でパンを焼いて食べただけです!」

柵にしがみついた老村長が、泥の中に額を擦り付けて血の混じった涙を流した。

「悪魔など契約しておりません! どうか、子供たちだけでもお助けください! 子供たちには何の罪もございません!」


「黙りなさい、悪魔の代弁者!」

ルシアンは唾を吐き捨てるように一喝した。

「穢れた血を引く種子を残せば、再び帝国に災厄の種が蒔かれることになる! 火によってのみ、汝らの穢れた肉体は灰となり、魂は地獄の業火において神の許しを乞うことができるのだ! ……これぞ大聖堂の慈悲、神聖なる『浄火の儀』である!」


ルシアンは松明を振り上げ、冷酷無比な処刑宣告を下した。

「点火せよ! 柵ごと、村ごと、すべてを燃やし尽くせぇッ!」


「ああああああっ!」

柵の向こうから、絶望の叫びが一斉に上がった。

神殿兵たちが松明を薪のバリケードへと投げ込もうと、腕を振り上げた――その刹那。


――ヒュバッッッッ!!!!


大気を引き裂く、常軌を逸した重低音の風切り音が響き渡った。

雨雲を貫いて飛来したのは、一本の巨大な黒鉄の投槍だった。


ドガァァァァンッッッッ!!!!


ルシアンの足元、わずか数センチ手前の岩場に、投槍が深々と突き刺さった。

凄まじい衝撃波とともに堅牢な玄武岩が粉々に砕け散り、鋭利な石の破片と濁った泥水が四方八方へと弾け飛ぶ。

「ぎゃあっ!?」

泥水をまともに顔面に浴びたルシアンは、悲鳴を上げてよろめき、松明を取り落としそうになりながら岩場を転がり落ちた。白銀の法衣が泥に塗れ、無惨に汚れる。


「な、なんだ!? 何事だッ!?」

神殿兵たちが狼狽し、一斉に武器を構え直した。


ゴォォォォォ……ッ!

地響きが、大地を揺るがしていた。

雨烟る街道の向こうから、冷たい水飛沫を巻き上げながら疾走してくる漆黒の軍勢。

黒狼騎士団。

先頭を駆ける巨大な黒馬が、まるで嵐そのものを背負ってきたかのように、木柵の手前で前脚を高く跳ね上げ、激しい嘶きを上げた。


ドシンッ!!


馬上の巨躯が、地面を揺らして飛び降りた。

漆黒の甲冑の上に雨を滴らせ、黒鉄の長剣を引き抜いた男――ギルバート・フォン・ラングリール大公。

その氷灰色の双眸から放たれる殺気は、吹き荒れる氷雨すら凍りつかせるほどの絶対零度だった。


「ひ……っ!?」

泥の中から這い起きたルシアンが、大公の顔を認めた瞬間、喉を詰まらせた。

「ぎ、ギルバート……大公閣下……!? なぜ、北方の本隊がここに……!?」


ギルバートは一切の返答をしなかった。

大股で泥濘を踏みしめ、転がっていたルシアンの前へと一瞬で間合いを詰める。

銀光が一閃した。

次の瞬間、抜き身の大剣の冷たい切っ先が、ルシアンの喉仏の皮膚へと、ピタリと押し当てられていた。


チリッ。

触れただけで皮一枚が切れ、ルシアンの青白い喉元から、鮮紅色の血が一筋、雨水に混ざって伝い落ちる。

生と死の境界線、わずかコンマ数ミリ。

ルシアンの喉が、唾を飲み込むことすら許されずにピキリと凍りついた。


「……誰の許可を得て」

ギルバートの声は、低く、静かだった。

怒号よりも遥かに恐ろしい、日常的に人の命を奪ってきた者だけが持つ、感情の欠落した死の響き。

「俺の庭に油を撒き、俺の領民に火を放とうとしている。……答えろ、神の犬」


「ひっ……ぐ……っ」

ルシアンは脂汗を流しながら、必死に聖典を胸の前に突き出した。自らの背後にある教皇庁の絶対的な権威だけを頼りに、震える声で威嚇を試みる。

「き、貴教への反逆ですぞ、大公閣下……! 私はアンセルム首席司教猊下より全権を委任された異端審問官! この村は悪魔の呪詛に侵され、すでに人の理を失っている! 焼き払わねば、悪魔の業火が帝国全土に広がるのです! 領主といえども、教会の神聖なる浄化に武力干渉することは、破門に値する大罪――」


「呪いではありません」


凛と張り詰めた、鋭利な声が雨音を切り裂いた。


神殿兵たちの視線が、一斉に街道へと向けられた。

そこに停まった一台の頑丈な医療馬車。

扉が開き、ステップを軽やかに踏み降りてきたのは――濃紺のワンピースの上に白いエプロンを纏った、十二歳の少女だった。

エルザ・ヴァルデック。

その小さな手には、オスカーが鍛え上げた真鍮の携帯用顕微鏡を収めた木箱が抱えられていた。


「な……子供……?」ルシアンが呆然と呟く。


エルザは、神殿兵たちが構える抜き身の槍やクロスボウの切っ先など、まるで視界に入っていないかのように、泥濘の中を平然とした足取りで歩み進んだ。

足首まで泥水に浸かりながらも、その背筋は定規のように真っ直ぐに伸びている。

彼女はギルバートの隣まで進み出ると、冷たく濡れた前髪の隙間から、泥に塗れたルシアンを怜悧な琥珀色の瞳で見下ろした。


「審問官様。あなたのその目は節穴ですか。それとも、都合の悪い真実から目を背けるために、神という名の目隠しを自ら巻き付けていらっしゃるのですか」

「な、何だと……!? 無礼な! どこの小娘だ!」


「この村で起きている現象のどこに、悪魔の介在する余地があるというのです」

エルザの声には、一片の揺らぎもなかった。

「手足の灼熱痛と壊疽、激しい痙攣と幻覚。これらはすべて、長雨によってライ麦に繁殖した麦角菌――カビが作り出したアルカロイド毒素による、典型的な急性食中毒の症状です」


「カ……ビ……!?」

ルシアンが目を剥き、次の瞬間に狂気じみた嘲笑を漏らした。

「戯言を! ただのカビで人が踊り狂い、生きたまま手足が炭になって腐り落ちるはずがなかろう! 神への冒涜だ! 悪魔の代弁者が、出鱈目を並べて審問を妨害する気か!」


「出鱈目かどうか、今から皆様の目の前で解剖して証明して差し上げます」

エルザはルシアンの怒号を完全に無視し、油の撒かれたバリケードの木柵へと歩み寄った。

そして、躊躇うことなく自らの両手を伸ばし、油の染みた丸太を力任せに押し開けようとした。


「エルザ様!?」

馬車から駆け寄ってきたマリカが悲鳴を上げ、テオバルトが血相を変えて叫んだ。

「待て、エルザ! 柵の中に入る気か!? 狂乱した住民たちが暴れているのだぞ、危険すぎる!」

「な、何を考えているのだ、その気違い娘は!」ルシアンもまた叫んだ。

「不浄の地に入るな! 悪魔の穢れが伝染るぞ! 触れるだけで呪いに冒されるのだぞ!」


エルザは振り返りすらしなかった。

丸太を押し開き、泥水溜まりを踏み越えて、地獄絵図の広がる村の内部へと、迷いなくその小さな足を踏み入れていく。

「人から人へ感染する病気ではありません。原因物質を口にしなければ、何一つとして恐れるものはない。……怯えて遠巻きに見ている暇があるなら、マリカ、薬箱を運びなさい」


「は、はいっ!」

マリカは恐怖を振り払い、泥に足を取られながらもエルザの背中を追って柵の中へと飛び込んだ。


「おい、衛兵! あの小娘を射ち殺せ! 異端の魔女だ!」

逆上したルシアンが神殿兵へ命令を下そうとした。


――グッ。


大剣の刃先が、ルシアンの喉元へさらに数ミリ深く食い込んだ。

鮮血がポタリと泥水へ落ちる。

ギルバートの氷灰色の瞳が、ルシアンの網膜の奥を射抜くように細められた。

「誰に弓を引けと言った、ネズミめ」

「ひ……っ……!」


ギルバートは冷酷に、耳元へ死の宣告を囁いた。

「我が主治医の歩みを邪魔する者は、神官だろうが神そのものだろうが容赦なく叩き斬る。……黙って見ていろ。その首が胴体と繋がっているうちに」


冷たい雨が降りしきる中、神殿の狂信を力づくでねじ伏せ、エルザの近代医学のメスが、いま「悪魔憑きの村」の深淵へと切り込まれようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。