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呪いではなく鉛中毒です〜死に戻り侍女は近代医学で冷酷大公を救い、宮廷の嘘を解剖する〜  作者: タカケンサンバ


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第13話:黒い穂先と浄火の煙

黒狼城に初冬の厳寒が訪れても、天守閣の最上階にある大公執務室は、常に微かな薪の爆ぜる音と清澄な空気に満たされていた。

南向きの大きな窓からは、朝の冷たい光がまっすぐに差し込み、執務机の上に積み上げられた領地経営の書類の山を白く照らしている。以前であれば、部屋の隅々に重厚なピューターの装飾品が鎮座し、甘ったるい濃縮ワインの香りと鉛の不快な金属臭が鼻腔をくすぐっていたはずの場所だった。

だが今、室内に漂っているのは、乾燥させた薬草の爽やかな青い香りと、オスカーの工房が焼き上げた無鉛白磁のマグカップから立ち上る、澄んだミントとカモミールの湯気だけだった。


「……閣下。北方の国境守備隊から届いた今月の兵糧報告書です。麦の備蓄、馬の飼料ともに損耗率は平年の半分以下に抑えられています。城内および兵舎の煮沸消毒と手指衛生が徹底されたことで、冬季に頻発していた兵士たちの原因不明の腸炎がほぼ根絶されたためかと」


副官のテオバルトが、革張りの報告書を丁寧に机の上へ置いた。

かつてはエルザに対して剥き出しの敵意を抱き、幾度となく軍刀の切っ先を突きつけていた生真面目な男の表情には、今や一片の疑念も残っていなかった。それどころか、日々の点呼や兵站の管理において、エルザが策定した「衛生管理手順書」の規定を、誰よりも厳格に遵守する忠実な実務責任者へと変貌していた。


「そうか」

執務机の奥、豪奢な黒革の椅子に深く腰掛けたギルバートが、羽ペンを滑らせて書類に承認の署名を走らせた。

右腕の動きには、寸分の淀みも震えもない。

かつて下垂し、死肉のように垂れ下がっていた腕は、完全に全盛期の筋力と神経伝達を取り戻していた。無駄のない筋肉に覆われた手首が力強くペンを走らせるたび、袖口から覗く褐色の肌が躍動する。


ギルバートは署名を終えると、視線を書類から外し、部屋の窓辺へと向けた。

そこには、粗末な木製の作業台を前に、乾燥させた薬草の束を黙々と選別している少女の姿があった。

エルザ・ヴァルデック。

仕立て直された濃紺のウールワンピースの上に、汚れ止めの白いリネンエプロンを着けた十二歳の少女。淡い陽光を浴びるその横顔は、まるで精緻な陶器の彫像のように冷たく、感情の波を一切感じさせない。

彼女は小さな真鍮のハサミを用い、干からびた薬草の葉と茎を、ミリ単位の精度で切り分けていた。


「エルザ。まだその草の山と格闘しているのか。城下のギルドから届いた新しい蒸留器を試すのは午後からでいいと言ったはずだが」

ギルバートの声は、テオバルトに向ける峻烈なそれとは異なり、どこか低く甘やかな温度を帯びていた。

エルザは作業の手を止めることなく、ハサミの刃先をカチリと鳴らした。


「ヤナギの樹皮に含まれるサリシンと、オオバコの配糖体の抽出効率を測定するための下準備です。オスカーの蒸留器の精度を検証するには、原料の乾燥度合いと重量比率を厳密に揃えておかなければ、得られるデータの信頼性が損なわれます」

「相変わらず、少しの妥協も許さんな」

「妥協した分だけ、後で患者が死ぬ確率が跳ね上がりますから」


エルザの口調は、あまりにも淡々としていた。

ギルバートは口端をわずかに吊り上げ、立ち上がると、窓辺のエルザの元へと歩み寄った。

見上げるような巨躯の影が、エルザの作業台をすっぽりと覆い隠す。ギルバートは無骨な指先を伸ばし、エルザの耳元にかかっていた淡い前髪を、驚くほど慎重な手つきで払った。

「……お前が根を詰めすぎて倒れれば、俺が困る。この城の空気も、俺の命も、すべてはお前の手の中にあるのだからな」

「大公閣下。診察以外の私的な接触は、作業の衛生管理上好ましくありません」

「主治医殿は随分とつれないな」


冷淡にいなされながらも、ギルバートの氷灰色の瞳には、エルザに対する狂おしいまでの執着と愉悦の色が濃く宿っていた。

二人の間に流れる、奇妙で、誰にも割り込めない絶対的な共犯関係。

テオバルトが居心地悪そうに咳払いをしようとした、まさにその時だった。


ドォンッ!!


天守閣の重厚な外扉が、激しい勢いで叩き開けられた。

執務室の廊下に響き渡る、乱れた足音と甲冑の擦れ合う乾いた音。

「大公閣下ッ! 緊急の急報でございますッ!!」


飛び込んできたのは、黒狼騎士団の早馬斥候だった。

男の軍服は泥と雪にまみれ、顔面は極度の疲労と寒さで土気色に染まっていた。息も絶え絶えに床へ膝をついた斥候は、凍りついた手袋を震わせながら、封蝋の施された革筒をテオバルトへと差し出した。

「領内最北端……ヴェルデ村より、至急の救援要請であります! 村が……村が壊滅の危機に瀕しております!」


「ヴェルデ村だと?」

ギルバートの双眸から、先ほどの柔らかな熱が一瞬で消え失せ、戦場の死神の光が蘇った。

テオバルトが革筒を割り、中の羊皮紙を素早く広げる。

そこに記されていた内容を追うにつれ、生真面目な副官の顔から急速に血の気が引いていった。


「……バカな。何だ、この報告は……」

「テオバルト、読み上げろ」ギルバートの硬質な声が飛ぶ。

「は、はっ! ……十日前より、ヴェルデ村の住民百数十名のうち、半数以上が突如として原因不明の狂乱状態に陥ったとのこと。住民たちは夜ごと激しい痙攣を起こして手足を振り乱し、まるで悪魔の音楽に合わせて踊り狂うように暴れ回り……」

テオバルトの声が震える。

「……さらに、発症した者の手足に、激しい灼熱痛が発生。皮膚が焼け爛れるような激痛に叫び声を上げ、数日のうちに指先、足先が炭のように真っ黒に変色……壊疽を起こし、生きたままポロポロと関節から肉が脱落している、と」


「……悪魔の舞踏病」

斥候の兵士が、恐怖に歯の根をガタガタと鳴らしながら呟いた。

「村の者は『悪魔の業火に焼かれている』と泣き叫び、互いに狂乱して噛みつき合っているとのことです! 呪いです……! 北の凍土に眠る古代の悪魔が目覚め、村人全員の魂を食らい尽くそうとしているのです!」


悪魔の呪詛。

かつてアルトハイム伯爵邸や大公家を支配していたのとまったく同じ、未知の病に対する無知と恐怖の言霊。

だが、テオバルトの報告には、さらに不吉な続きがあった。


「……閣下、問題はそれだけではありません。報告書の末尾に……帝都正教会、アンセルム首席司教の特使がすでに現地へ介入しているとあります」

「アンセルムだと?」

ギルバートの眉がピクリと跳ね上がった。


「はい。たまたま北方教区の巡回を行っていたという名目で、アンセルム首席司教の腹心である『異端審問官ルシアン』率いる神殿私設兵五十名が、すでにヴェルデ村を完全に包囲・封鎖したとのことです。ルシアン審問官は、この事態を『全村人による悪魔崇拝および呪詛の蔓延』と断定……」

テオバルトは唇を噛みしめ、重い宣告を口にした。

「……悪魔の穢れが領内全土に広がるのを防ぐため、明日未明をもって、住民ごと村を焼き払う――神聖なる『浄火の儀』を執り行うと通告してまいりました」


「村ごと焼き払う……!?」

斥候が息を呑む。

病に苦しむ百数十名の領民を、治療するでもなく、原因を究明するでもなく、ただ「悪魔の呪い」というレッテルを貼り、生きたまま全員を灰燼に帰すというのだ。神の名を騙った、あまりにも一方的で残酷な虐殺宣告。


「アンセルムめ……」

ギルバートの喉の奥から、地鳴りのような唸りが漏れた。

「アルトハイムの件で恥をかかされた腹いせに、今度は俺の領地で神殿の絶対権威を誇示しようという腹か。領主たる俺の裁可も得ず、勝手に領民を焼き殺すなど……舐められたものだ」


執務室の空気が、大公の凄まじい殺気によって氷点下まで叩き落とされる。

だが、その殺気の渦中にあって――。


トン、と小さな音が響いた。


エルザが、手にしたハサミを作業台の上に静かに置いた音だった。

彼女は薬草の束を丁寧に布で覆うと、ゆっくりと振り返った。

その琥珀色の瞳は、驚くほど冷徹で、凪いだ水面のように平坦だった。怒りも、恐怖も、同情すらも浮かんでいない。ただ、提示された臨床症状のデータを、脳内の病理学辞典と照合し終えた学者の、絶対的な静寂。


「……手足の激しい灼熱痛。知覚異常。次いで末梢血管の閉塞による、四肢の乾性黒色壊疽」

エルザの声が、静まり返る執務室に凛と響き渡った。

「さらに、中枢神経症状としての激しい痙攣、舞踏運動様の不随意運動、そして幻覚と精神錯乱」


エルザはテオバルトへ視線を向けた。

「テオバルト副官。ヴェルデ村の主産物は何ですか」

「え……? あ、ああ、ヴェルデは北方の寒冷地だ。小麦は育たん。住民の主食は、寒さに強いライ麦だ」

「今年の北方の気候は?」

「冷夏だった。特に初秋のライ麦の収穫期は、記録的な長雨が続き、日照時間が極端に少なかったと聞いているが……それが何か関係あるのか?」


「大いに関係あります」

エルザは迷いなく言い切った。

「すべてのパズルのピースが噛み合いました。悪魔など、この世のどこにも存在しません。村人たちを狂わせ、その手足を腐らせているものの正体は――『麦角(ばっかく)中毒』です」


「バッカク……チュウドク……?」

テオバルトが怪訝そうに眉をひそめた。

ギルバートが鋭い視線をエルザへと注ぐ。「毒なのか、エルザ」


「はい。カビによる食中毒です」

エルザは白磁のマグカップの白湯を一口含み、喉を潤してから、淀みなく解説を始めた。その口調には、一切の迷いがない。


「長雨と低温が続いた環境下において、ライ麦の穂先には麦角菌(Claviceps purpurea)という子嚢菌(カビの一種)が極めて寄生しやすくなります。菌に侵された麦の粒は、通常の穀粒の数倍の大きさに膨れ上がり、黒紫色の、まるで硬い動物の角のような異形の塊――『菌核』へと変貌するのです」


エルザは自らの人差し指を立ててみせた。

「村人たちは、その黒いカビの塊が混ざっていることに気づかず、あるいは飢えのために選別を怠り、汚染されたライ麦を粉に挽いてパンを焼き、毎日口にしてしまったのでしょう。麦角菌が作り出す毒素――エルゴタミンをはじめとする麦角アルカロイドは、極めて強力な二つの生体毒性を持ちます」


エルザは窓の外、北方の空を指差した。

「第一に、強力無比な末梢血管収縮作用。血管壁の平滑筋を持続的に収縮させ、毛細血管の血流を完全に遮断します。血液が届かなくなった手足の末梢組織は、激しい酸素欠乏に陥り、まるで火で炙られているかのような錯覚――灼熱痛を引き起こす。やがて組織は完全に死滅し、血の通わない指先はミイラのように黒く干からび、壊疽して自然脱落するのです。古の記録にある『聖アントニウスの火』と呼ばれる病態そのものです」


「な……ッ」テオバルトが息を呑む。

「そして第二に、中枢神経のセロトニン受容体に対する攪乱作用。脳の血管を収縮させると同時に、神経伝達を狂わせ、激しい幻覚、全身の筋肉の制御不能な痙攣、そして精神錯乱を引き起こします。村人たちが踊り狂っているように見えるのは、悪魔に憑かれたからではない。脳と神経が毒素によって焼き切られ、自らの肉体を制御できずに暴走している生理的反射に過ぎません」


すらすらと解き明かされる、奇怪な現象の裏にある残酷なまでに明快な生化学の理屈。

悪魔の業火も、呪いの舞踏も、すべてはただの「カビの毒」が人間の血管と脳を破壊しているだけの現象に過ぎない。

エルザの冷徹な知性が、神殿の創り上げたオカルトの幻影を、一瞬にしてただの病理標本へと引きずり降ろした。


「……カビ、だと?」

テオバルトの顔に、戦慄が走った。

「悪魔の呪詛などではなく……ただの、腐った麦を食べたことによる中毒だというのか……!?」

「そうです。毒キノコを食べて腹を下すのと、規模が違うだけで本質はまったく同じです」

エルザは作業台から自らの黒革のトランクを引き寄せ、パチンと留め金を外した。


「大公閣下。今すぐ馬を出し、ヴェルデ村へ向かってください」

エルザの琥珀色の瞳が、ギルバートの氷灰色の双眸を真っ直ぐに射抜いた。

「放置すれば、村人は手足を失って死ぬか、あるいは神殿の無知な狂信者どもによって、生きたまま丸焼きにされます。カビの毒で死ぬのも、火で焼かれて死ぬのも、医学の敗北です。私の目の届く領内で、そのような無知による虐殺を許すわけにはいきません」


傲岸不遜極まりない要求。

だが、その言葉を聞いた瞬間――。


ガタッ、と重厚な音を立てて、ギルバートが立ち上がった。

大公は壁に掛けられていた漆黒の大剣の鞘を鷲掴みにし、腰の革ベルトへと吊るした。

その顔には、先ほどまでの冷徹な軍指揮官の仮面を脱ぎ捨て、我が意を得たりと言わんばかりの、獰猛な狼の笑みが浮かんでいた。


「テオバルト!」

「はっ!」

「黒狼騎士団の精鋭五十騎を直ちに招集せよ! 全騎、完全武装! 補給は最小限、ヴェルデ村まで不眠不休で馬を飛ばすぞ!」


「閣下!」テオバルトが色をなして叫んだ。

「お待ちください! 相手は教皇庁直属の異端審問官です! いくら領内とはいえ、神殿の私刑執行に武力で干渉すれば、帝都の教皇庁およびアンセルム首席司教との全面対決は避けられません! 宮廷の貴族どもが『大公家が異端を匿った』と皇帝陛下へ讒言(ざんげん)する口実を与えてしまいます!」


「知ったことか」


ギルバートの一喝が、執務室の空気を叩き割った。

大公はテオバルトの肩をその剛腕で乱暴に掴み、引き寄せた。

「俺の領地で、俺の領民を、神の代理人面した豚どもが勝手に焼き殺す権利など、最初から与えた覚えはない。ましてや――」

ギルバートの視線が、トランクに薬品を詰め込んでいるエルザへと向けられた。

「我が主治医が『治せる』と言っているのだ。……神が何を宣(のたま)おうが、この領地においてエルザの診断に勝る法など存在せん」


絶対的な独裁者の、主治医に対する全幅の信頼。

テオバルトは息を呑み、それから己の主君の瞳の奥にある決して揺らがぬ覚悟を悟った。

「……御意! 直ちに第一騎兵隊を召集いたします!」

テオバルトは軍靴を鳴らして敬礼し、嵐のように執務室を飛び出していった。


◇


出撃の準備は、電光石火の速さで進められた。

エルザは城下のオスカーの工房へ早馬を飛ばし、完成したばかりの携帯用機材をすべて回収させた。

トランクの中に詰め込まれたのは、オスカーが心血を注いで磨き上げた真鍮製の携帯用複式顕微鏡、ガラスのプレパラート、解剖用メス、止血鉗子、そして急造された各種生薬の抽出エキス。

城の中庭へ駆け下りると、そこにはすでにマリカが、煮沸消毒された清潔な包帯の束と、大量の石鹸、そしてヤナギの樹皮の粉末を詰めた麻袋を馬車の荷台へと積み込み終えていた。


「エルザ様! 準備、完了いたしました!」

マリカの顔には恐怖の色はなく、第一助手としての使命感に満ちた強い光が宿っていた。

「よくやりました、マリカ。あなたも馬車に乗りなさい。現地では凄惨なトリアージが必要になります。手を休める暇はありませんよ」

「はいっ!」


地響きのような蹄の音が中庭を埋め尽くす。

黒鉄の甲冑に身を包んだ五十騎の黒狼騎士団。その先頭に立つのは、巨大な黒馬に跨がり、漆黒の軍外套を風になびかせるギルバート大公だった。

大公は馬首を巡らせ、馬車へと乗り込もうとするエルザを見下ろした。

「エルザ。俺の馬に乗るか?」

「結構です。馬車の中で薬液の配合比率を計算しなければなりません。……閣下こそ、落馬してまた手首を痛めないよう気をつけてください」

「手厳しいな」

ギルバートは低く笑い、大剣の柄を叩いた。


「全軍、前進ッ! 北の狂信者どもに、黒狼の牙を思い出させてやれッ!!」


咆哮とともに、五十騎の重装騎兵が城門の跳ね橋を蹴破るような勢いで疾走を始めた。

その後を追うように、エルザとマリカを乗せた頑丈な医療馬車が、乾いた轍(わだち)の音を響かせて飛び出していく。


目指すは、大公領最北端――ヴェルデ村。

冷たい初冬の風が吹き荒れる街道を、車列は矢のような速度で北へと突き進む。

迷信と狂信の炎に包まれようとしている寒村へ向けて、近代医学の鋭利なメスが、今まさに全力で放たれた。

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