第12話:満月の誓い
北方の冬は、大気そのものが凍りつくような冷徹さをもって黒狼城を閉ざしていた。
だが、峻険な岩山の上にそびえ立つ黒鉄の要塞は、三ヶ月前とはまるで別の生き物のように、清浄な白い息を吐き出しながら静かに脈打っていた。
かつて城内の至るところに澱んでいた、あの酸化した獣脂の饐えた油臭や、人馬の汚物と腐敗菌が混ざり合った甘ったるい死臭は、今や完全に消え去っていた。
石畳の敷かれた主通路は、毎朝氷水と石鹸で徹底的に磨き上げられ、通気口という通気口からは常に澄んだ冷涼な風が吹き抜けている。厨房から立ち上るのは、有害な鉛の蒸気ではなく、オスカーの工房が焼き上げた無鉛白磁の巨大な大鍋で煮込まれる、野菜と香草の芳醇なスープの湯気だった。
そして――何よりも劇的な奇跡が起きていたのは、かつて「死体置き場」と蔑まれていた西塔地下の病棟だった。
「包帯の交換、完了いたしました! 創面の肉芽形成、極めて良好です。浸出液の減少を確認、体温三十六度八分、脈拍は平時と変わりありません!」
白く清潔な木綿のエプロンを纏ったマリカの澄んだ声が、明るい光の差し込む病室に響く。
かつて黒板で打ち付けられていた窓はすべて取り払われ、オスカーが急造した無鉛板ガラスの嵌め込まれた窓からは、冬の柔らかな陽光がたっぷりと降り注いでいた。
泥と糞尿を吸い込んでいた藁布団はすべて焼却され、今や清潔な木製のベッドに、毎日煮沸消毒された真っ白なシーツが張られている。
四十人近くいた重傷の騎士たちのうち、この三ヶ月で命を落とした者は、わずかに一人――それも、運び込まれた時点で内臓破裂を起こしていた致命傷の兵士だけであり、残る全員が敗血症やガス壊疽の危機を完全に脱していた。
前年の同じ時期、負傷兵の死亡率は実に八割を超えていたのだ。
それが、今や十分の一以下――ほぼゼロに近い水準まで叩き落とされた。
熱湯による滅菌、石鹸による手指衛生、創部の流水洗浄、そしてオスカーが精製した耐熱ガラスの蒸留器によって抽出された、高純度の薬草エキスと生理食塩水。
迷信を捨て去り、近代的な病理の理屈に従って環境を整えただけで、人間はこれほどまでに死神の顎から生還できる。その冷徹な現実を前に、城内の誰もが言葉を失っていた。
「エルザ様がお通りになるぞ!」
回廊の先で衛兵の鋭い号令が飛ぶ。
エルザが手帳を抱えて歩いてくるだけで、かつて「下働きの雑巾娘」と嘲笑っていた屈強な騎士たちが、壁際にピタリと背筋を伸ばして張り付き、一糸乱れぬ直立不動の敬礼を捧げる。
老家老ハインツをはじめとする重臣たちですら、今やエルザの姿を遠目に見るだけで深々と頭を下げ、その進路を譲るようになっていた。
十二歳の少女が、その頭脳とメスの一振りによって、帝国最強を誇る黒狼騎士団の精神を、完全に心服させていたのだ。
◇
夜の帳が下りると、北方の空には息を呑むほどに冷たく澄み切った満月が浮かび上がっていた。
月光が、城の最上層――天守閣に突き出した見晴らしテラスの玄武岩を、白銀の刃のように青白く照らし出している。
ヒュンッ、ヒュンッ、と空気を引き裂く鋭利な風切り音が、夜気を震わせていた。
テラスの中央、雪を払った石畳の上で、一人の男が抜き身の大剣を振るっていた。
上半身の服を脱ぎ捨て、月光を浴びる筋骨隆々とした逞しい肉体。幾重にも刻まれた戦傷の痕を、玉のような汗が光を反射しながら伝い落ちていく。
ギルバート・フォン・ラングリール。
大剣が描く軌跡は、神速にして苛烈。
かつては鉛の毒に冒され、橈骨神経の麻痺によってだらりと力なく下を向いていたはずの右腕が――今や、重量数十キロはあろうかという巨大な鋼の塊を、まるで己の肉体の一部であるかのように軽々と操っていた。
手首のスナップ、肘の返し、肩甲骨の連動。
寸分の狂いもない踏み込みとともに振り下ろされた切っ先が、虚空を薙ぎ払い、月光を鋭く跳ね返す。全盛期を遥かに凌駕する、研ぎ澄まされた軍神の剣舞。
「……素晴らしい筋力と神経の回復速度です。腱反射の伝導速度も、ほぼ正常値に戻っていますね」
回廊の影から、静かな声が響いた。
大剣の切っ先がピタリと空中で静止する。
ギルバートが荒い呼気を吐きながら振り返ると、そこには外套の襟を立てたエルザが、手帳を胸元に抱えて佇んでいた。
「ですが、今夜の素振りはそこまでにしておきなさい、大公閣下」
エルザはテラスへ歩み寄り、冷淡極まる事務的な口調で続けた。
「神経の髄鞘が再生したばかりの組織に過度な高負荷をかければ、筋繊維の微小断裂を招き、筋肉内に乳酸が過剰蓄積します。毛細血管の血流を阻害しては、せっかくのデトックス効果が相殺されてしまいますよ」
ギルバートは荒い息を整えながら、大剣を地面に突き立てた。
濡れた漆黒の前髪を乱暴にかき上げ、口端を獰猛に吊り上げる。
「乳酸、だったか。……お前の口から出る言葉は、相変わらず呪文のように難解だな、我が主治医」
「呪文ではありません。運動生理学の基礎です」
エルザはギルバートの前まで歩み寄ると、手袋を外した小さな指先を、彼の右腕の上腕二頭筋へと迷いなく這わせた。
熱い皮膚、鋼のように硬く引き締まった筋繊維。
触診するエルザの手つきには、貴族の男の半裸を前にした羞恥など微塵も存在しない。あるのは、エンジニアが機械の調子を確かめるような、絶対的な観察の集中力だけだった。
「脈拍、毎分百二十。血圧の上昇は運動による一時的なもの。……舌を出してください」
「……またか」
ギルバートは苦笑交じりに息を漏らしながらも、素直に口を開いた。
エルザは爪先立ちになり、月光を頼りに大公の口腔内を覗き込む。
(消えている……完全に)
下顎の犬歯から臼歯にかけて、かつて禍々しく沈着していたあの濃紺の線――バートン線(鉛縁)は、跡形もなく消失していた。
歯肉の血流は健康的な淡紅色を取り戻し、毛細血管の鬱血も完全に解消されている。
オスカーに作らせた無鉛磁器とガラス器具による完全な重金属の遮断。硫黄とキレート作用を持つ野草エキスの反復投与。そして、徹底した水分代謝。
三ヶ月の歳月をかけ、エルザの近代医学は、この帝国最強の男の体内に何代にもわたって蓄積されてきた猛毒を、完全に濾過し切ったのだ。
「……合格です。血液中の鉛濃度は、ほぼ基準値以下にまで低下しました。もはや『骨を蝕む悪魔の呪い』が、あなたの命を奪うことはありません」
エルザが診断を下し、手を引こうとした、その瞬間だった。
ガシッ、と熱く力強い掌が、エルザの華奢な手首を優しく、だが逃げ場のない力強さで包み込んだ。
「……閣下?」
ギルバートは大剣から手を離した。
重厚な鋼の刃が、石畳の上に乾いた音を立てて倒れる。
そして――帝国最強の武将であり、皇帝の甥である孤高の大公が。
雪の残る冷たい石畳の上へ、静かに、右の片膝をついた。
エルザを見上げる位置まで、視線を落とす。
十二歳の少女の前に、巨躯の怪物が傅く異様な光景。
ギルバートは、自らの左手にはめていた黒革の軍用手袋を、歯で噛んでゆっくりと引き抜いた。
剥き出しになった無骨な、戦傷の刻まれた大きな掌。
その両手で、ギルバートはエルザの小さく、洗濯と薬品で荒れた右手を、まるで壊れやすい至宝を扱うかのように、包み込むようにして包持した。
「……エルザ」
低く、地底のマグマのような熱を帯びた声が、静寂のテラスに響く。
かつて死の淵で虚無を宿していた大公の氷灰色の瞳には、今やエルザに対する狂信的なまでの畏敬と、それを遥かに超えた暗い炎のような執着が、爛々と燃え盛っていた。
「俺の命は、お前に救われた」
ギルバートの指先が、エルザの荒れた手の甲を確かめるように撫でる。
「父が死に、祖父が狂い、俺自身もまた内側から腐り果てて死ぬのだと信じ込まされていた二十三年間の呪縛から――お前のその小さな手と、冷徹な知性が、俺の魂を引きずり戻してくれた」
大公の胸郭が大きく波打ち、力強い心臓の鼓動が、重なり合う皮膚を通じてエルザの指先へとダイレクトに伝わってくる。
「この肉体、この筋肉、この骨。そして、この脈打つ血の最後の一滴に至るまで――すべては、お前が救い出し、お前が繋ぎ止めたものだ。……俺のすべては、お前のものだ、エルザ」
吐き出された言葉の重みに、並の令嬢であれば気絶するか、恐怖に震え上がるところだろう。
一国の主が、己の全存在を一個人に捧げるという、重すぎる忠誠と愛の告白。
だが、エルザの琥珀色の瞳は、満月の光を浴びて静まり返ったまま、微動だにしなかった。
彼女は眉一つ動かさず、冷ややかな声音で言葉を返した。
「大公閣下。私は主治医として、引き受けた契約の職務を全うしただけです。恩義に感じる必要も、ご自身を捧げる必要もありません。私は奇跡を起こしたのではなく、生化学の必然に従って治療を施したに過ぎないのですから」
あまりにもドライな、情緒の欠片もない職人の拒絶。
だが、ギルバートはその冷淡さに傷つくどころか、喉の奥からクツクツと愉悦の笑いを漏らした。
「……いいや、足りん。職務だと切り捨てるには、お前の瞳の奥にある炎はあまりに昏く、深い」
ギルバートの視線が、エルザの網膜の奥を射抜くように鋭さを増した。
「お前が何を狙っているのか、俺には最初から分かっていたぞ、エルザ。お前はただ安全に生き延びたいだけの小娘ではない。……お前はその刃のような頭脳で、この帝国を何百年も牛耳り、民を騙し、病を『悪魔の呪い』と偽って私腹を肥やし続けてきた神殿の偽善を――宮廷の腐敗を、骨の髄まで解剖台の上に晒し上げようとしているのだろう」
ピシリ、と冷たい夜気が張り詰めた。
テラスの雪が、風に吹かれてサラサラと音を立てて流れていく。
エルザの瞳が、月光の下でスッと細められた。
隠す必要など、最初からなかったのだ。
この男は、戦場を支配する本物の獣だ。エルザの内に秘められた「復讐」と「変革」の飢えを、とっくに見抜いていた。
「……ええ。その通りです、大公閣下」
エルザの声から、取り繕ったような敬語の膜が剥がれ落ち、処刑台の露と消えたあの日から抱き続けてきた、剥き出しの意志が露わになった。
「私は二度と、理不尽に命を奪われない場所へ行きます。神殿が『神罰』と呼び、貴族が『呪い』と恐れるものの正体を、科学と医学のメスで白日の下に解剖する。……皇帝すら首を垂れ、何人たりとも手出しのできない、絶対不可侵の『医療の権力』を、この手で帝国の頂点に打ち立てる」
前世で無知ゆえに首を差し出した少女の、世界に対する宣戦布告。
その傲岸不遜極まりない野望を聞いた瞬間――。
ギルバートの口元に、獰猛で、狂おしいほどに美しい笑みが咲き誇った。
「素晴らしいな」
大公は満足げに息を吐き、エルザの手をさらに強く握りしめた。
「帝国の頂点に立つ魔女か。……いいだろう。お前が世界を切り裂くというのなら、俺がお前の絶対の盾となろう。お前がその小さな指でメスを振るうなら、俺はお前の振るう刃そのものになろう。お前が切り裂くべき敵を、俺と黒狼騎士団の爪がすべて薙ぎ倒し、踏み潰してやる」
ギルバートはエルザの手を自らの唇へと引き寄せた。
そして――荒れた小さな手の甲に、熱く、痛いほどの誓いの口づけを落とした。
月光の下、鋼の軍神が、ひとりの少女に絶対の服従を誓った瞬間。
「お前の野望のために、俺のすべてを使え、エルザ。……誰一人として、お前の歩みを邪魔させはせん」
手の甲に触れる男の熱い呼気と、唇の感触。
エルザの心臓の奥底で、計算高く冷え切っていたはずの血液が、トクンと予期せぬ熱を帯びて跳ねた。
利用するだけの関係。生き残るための盾。
そう割り切っていたはずの男から注ぎ込まれる、あまりにも重く、純粋で、狂気的なまでの絶対の庇護。
エルザは小さく息を吸い込み、その手を引き抜くことなく、冷徹に頷いた。
「……解雇する予定はありません、大公閣下。存分に働いていただきます」
「ああ、望むところだ」
立ち上がったギルバートの影が、エルザの全身を包み込む。
二人の視線の先、南の地平線の彼方には、この世界の富と腐敗、そして迷信の元凶が眠る帝国の心臓部――帝都サンクト・オーガスタの方角が広がっていた。
大公領という絶対の地盤を手に入れ、不治と恐れられた重金属中毒を解剖し尽くしたエルザ。
第一幕の幕が下り、次なる舞台はいよいよ、前世で自分を断頭台へと追いやった帝国の闇そのものへと移っていく。
冷たい満月の光の下、世界を塗り替える医療革命のメスが、静かに、だが確実にその切っ先を研ぎ澄ましていた。




