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呪いではなく鉛中毒です〜死に戻り侍女は近代医学で冷酷大公を救い、宮廷の嘘を解剖する〜  作者: タカケンサンバ


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第3話:黒狼の膝

その凶報にも似た報せがアルトハイム伯爵邸を揺るがしたのは、クラリッサの部屋でスープ皿が砕け散った事件から、わずか三日後のことだった。

晩秋の冷たい朝霧が館を包み込む中、早馬の蹄の音が敷石を激しく叩き、血相を変えた使者が門番を突き飛ばすようにして本館へと駆け込んできた。

届いた書状を開いたアルトハイム伯爵は、朝食の席で持っていた銀のナイフを取り落とし、夫人は青ざめて胸元の十字架を握りしめたという。


――帝国北方国境警備軍総帥、黒狼騎士団を率いるギルバート・フォン・ラングリール大公が、帝都への凱旋途上、補給と一夜の休息のため、本邸へ逗留する。


その報せが地下の使用人区画へと降りてきた瞬間、洗濯場も厨房も、まるで悪魔の軍勢が押し寄せてきたかのようなパニックに陥った。

「馬鹿な……! なぜあんな死神が、こんな辺鄙な屋敷に立ち寄るんだ!」

「滅相もないことを言うんじゃないよ! 聞かれたら首が飛ぶよ!」

大鍋の前で料理人たちが喚き散らし、銀器磨きの下働きたちは震える手で布を落とした。

ギルバート・フォン・ラングリール。

当代皇帝フリードリヒの甥でありながら、宮廷の華やかな社交界には目もくれず、北方の凍土で異民族や反乱軍を容赦なく皆殺しにしてきた帝国最強の軍人。その苛烈無比な戦いぶりから、敵国からは『帝国の黒狼』、あるいは『首狩り公』と渾名され、恐れられていた。

だが、人々が彼を真に恐れていた理由は、その武名だけではなかった。


(……ラングリール大公家の、血の呪い)


エルザは、冷水で麻布を絞る手を止めず、周囲の狂乱を冷ややかに見つめていた。

帝国の貴族社会において、大公家は「呪われた家系」として忌み嫌われていた。

歴代の当主は例外なく武勇に優れ、絶大な魔力と体躯に恵まれながら、三十歳を超えることなく謎の奇病で命を落としていたのだ。ある者は内臓を掻きむしりながら血を吐いて死に、ある者は手足の自由を奪われて狂乱の中で衰弱死した。

そして当代のギルバート大公もまた、すでに二十三歳。

社交界の裏では、ここ一年ほどで急速に体調を崩し、すでに『骨を蝕む悪魔の呪い』が全身に回り、余命は半年にも満たないのではないかと囁かれていた。


「おい、エルザ! 何をぼさっとしてるんだい!」

洗濯頭のマルタが、埃叩きを振り回しながら怒鳴り込んできた。

「中庭の迎えの列に並びな! 一人でも頭数が足りなくて大公閣下の不興を買ったら、この屋敷ごと焼き払われちまうんだよ! ほら、さっさとその薄汚い顔を洗って行きな!」


◇


夕暮れ時の冷気は、肌を突き刺すように鋭かった。

アルトハイム邸の広大な中庭には、砂利が敷き詰められたアプローチを挟むようにして、数十人の使用人たちが凍えながら整列させられていた。

先頭には、豪奢な毛皮のマントを羽織ったアルトハイム伯爵と夫人。その隣には、これでもかと白粉を塗りたくったクラリッサが、寒さに身を震わせながら立っていた。クラリッサの顔は夕暮れの薄暗がりの中でも異様に白く浮き上がり、扇を握る指先が小刻みに痙攣している。エルザの忠告など意にも介さず、大公の目に留まろうと、さらに大量の毒白粉を叩き込んできたに違いなかった。


エルザは下働き侍女の最後列、影の濃い糸杉の根元に立ち、じっと館の正門を見つめていた。

足首の火傷と切り傷は、冷気配に晒されてズキズキと痛む。だが、その痛みすらエルザの集中力を削ぐことはできなかった。

前世のタイムライン。

あの日、十九歳のエルザが処刑台へと送られる七年前のこの日、ギルバート大公は確かにこの館に逗留した。

当時のエルザは、ただ地面に額を擦り付け、馬の蹄の音に怯えていただけだった。大公がどのような姿で現れ、何が起きたのか、仔細に見る余裕などなかった。

だが、今のエルザは違う。


ドォン、ドォン、と重苦しい地鳴りが大気を震わせ始めた。

正門の鉄柵の向こうから、砂煙とともに黒鉄の軍団が姿を現す。

黒狼騎士団。

隊列の乱れは一片もなく、馬の嘶きすら制圧された不気味な静寂。黒塗りの重装甲冑を纏った騎兵たちが中庭を埋め尽くしていく。鉄と馬油、そして乾いた砂塵と血の臭いが、冷たい夕暮れの空気を一瞬で塗り替えた。


その先頭に立つ一頭の巨大な黒馬。

跨がっていたのは、息を呑むほどの威容を誇る大男だった。

漆黒の髪を後ろに撫で付け、夜の深淵を切り取ったかのような氷灰色の双眸。彫りの深い精悍な顔立ちは、彫刻神殿の軍神を思わせるほど整っている。だが、その肌には生気がなく、黄昏の残光を受けて土気色の光を放っていた。

ギルバート・フォン・ラングリール大公。


「お、お待ち申し上げておりました、大公閣下……! 我がアルトハイム邸へようこそ――」

伯爵が腰を折り、揉み手をしながら擦り寄ろうとした、その時だった。


ギルバートが手綱を放し、馬から降りようと鐙(あぶみ)から長い右脚を外した。

だが、その巨躯が大地を踏みしめた瞬間――。


グラリと、まるで巨木が根元から断ち切られたかのように、大公の身体が不自然に傾いだ。

「がっ……!?」

低く、獣の呻きのような呼気が漏れる。

次の瞬間、ドシンという鈍く重い衝突音が石畳に響き渡った。

ギルバート大公の右膝が、自重を支えきれずに砕けるようにして地面へ打ち付けられたのだ。

敷石が小さく悲鳴を上げ、砂利が跳ね飛ぶ。


「閣下ッ!!」

黒馬の脇から弾かれたように飛び出してきたのは、副官のテオバルトだった。端正な顔を青ざめさせ、即座に大公の肩を抱き留めようと腕を伸ばす。

だが、出迎えた伯爵夫妻とクラリッサ、そして居並ぶ貴族たちの反応は、救助とは程遠いものだった。


「ひっ……!?」

伯爵夫人が短い悲鳴を上げて飛び退き、クラリッサは恐怖に目を見開いてドレスの裾を掻きむしった。

「出た……! 呪いだ! 大公家の悪魔が暴れ出したんだわ!」

「触れるな! 呪いが伝染るぞ!」

「神官をお呼びしろ! 早く、大聖堂の聖水を持ってまいれ!!」

中庭は一瞬にして阿鼻叫喚の狂乱に包まれた。誰もがギルバートを助けようとはせず、まるで疫病神か穢らわしい汚物を見るような目を向け、蜘蛛の子を散らすように後退る。これが、帝国のために血を流し続けてきた最強の軍人に対する、宮廷貴族たちの偽らざる本音だった。


その混乱の渦中、中庭の片隅、糸杉の影から――。

エルザの琥珀色の瞳だけが、獲物を狙う鷹のように細められていた。


(見なさい、エルザ。騒音を遮断しろ。恐怖を捨てろ。現象だけを網膜に焼き付けるのよ)


エルザの意識は、極限まで研ぎ澄まされた解剖室の静寂へと沈み込んでいた。

片膝をつき、荒い息を吐く大公の肉体。

その一挙手一投足、筋肉の緊張、皮膚の色、呼気の乱れを、エルザの脳内にある病理のデータベースが網羅的にスキャンしていく。


まず、姿勢。

ギルバートは左手をテオバルトの肩にかけながら、自らの右手で腹部を――正確には、肋骨の下ではなく、臍(へそ)の周囲を圧迫するように強く抱え込んでいる。

呼吸数は毎分三十回を超えている。異常な頻呼吸。だがそれは肺の疾患によるものではない。腹膜の激痛を逃すために、腹壁を動かさない浅い胸式呼吸を強いられているのだ。額からは滝のような脂汗が流れ落ち、冷たい夕風に湯気を立てている。


(激しい腹痛発作。周期的な激痛、腹壁の硬直。……鉛疝痛(えんせんつう))


だが、決定的な証拠はそれだけではなかった。

大公が自力で立ち上がろうと、地面に突き立てた大剣の柄を右手で握ろうとした瞬間だった。

エルザの視線が、その右腕に釘付けになった。


ギルバートの逞しい右腕の筋肉が隆起している。にもかかわらず、手首から先が――まるで操り糸を切られた人形のように、重力に逆らうことなく、だらりと下を向いたまま脱力していた。

指先を反らせようとしても、ピクピクと微かに震えるだけで、手首が持ち上がらない。剣の柄を握ることすらできず、指が空しく滑り落ちる。

下垂手(かすいしゅ)。

鉛が運動神経の髄鞘(ずいしょう)を脱落させ、橈骨(とうこつ)神経の伝達を物理的に遮断した時に現れる、最も特徴的な末梢神経麻痺の極期症状。


「くそっ……動け……! 腕が……なぜ力が入らん……!」

ギルバートが歯ぎしりをし、苦悶に満ちた声を漏らした。

激痛に耐えるため、彼の上唇が大きく吊り上がり、剥き出しになった歯列。

傾いた夕陽の赤い残光が、その口元を鮮烈に照らし出した。


(――あった)


エルザの心臓が、冷たい歓喜に跳ねた。

下顎の犬歯から第一大臼歯にかけて。

ピンク色であるはずの歯肉と、白い歯の境界線に沿って――まるで濃紺のインクを細い筆で引き絞ったかのような、明瞭で禍々しい青黒色の線が沈着していた。

バートン線(鉛縁)。

体内に過剰に蓄積された鉛が、口腔内の嫌気性細菌が産生する硫化水素と結合し、不溶性の硫化鉛として歯肉の毛細血管壁に沈殿した、動かぬ重金属中毒の刻印。


(呪いなんかじゃない……!)


エルザの胸の内で、確信が冷たい炎となって燃え上がった。

骨を蝕む悪魔の呪い?

代々の短命の血統?

笑わせるな、とエルザは心の中で吐き捨てた。

この男を苦しめているのは、神の罰でも悪魔の呪詛でもない。

鉛だ。

ラングリール大公家が誇りとしてきた豪奢なピューターの食器、酸味を消すために鉛の釜で煮詰められた甘美な濃縮ワイン、そして戦場で傷口に塗り込まれてきた鉛入りの軟膏。

何代にもわたって「高貴なる証」として日常的に摂取され、蓄積され、骨と血液と神経を内側から破壊し尽くしてきた、ただの無機質な重金属の毒。

大公家を呪っていたのは悪魔などではない。自分たちの富と伝統に対する、あまりにも無邪気で致命的な『無知』そのものだったのだ。


「テオバルト……運べ。部屋へ……客室へ連れて行け……」

ギルバートが呻くように命じる。

「はっ! どけ、貴様ら! 閣下のお通りだ!」

テオバルトが抜刀せんばかりの気迫で怒鳴り散らし、怯えるアルトハイム伯爵の衛兵たちを押しのけて、大公の巨躯を肩で支えながら本館へと引きずっていく。

大公の足はもつれ、引きずられたブーツが石畳に虚しい音を立てていた。


中庭に残された貴族たちは、互いに顔を見合わせ、気味悪そうに身を清める祈りの仕草を繰り返していた。

「見たか……あれがラングリール家の呪いだ」

「恐ろしい……あんな死神を屋敷に泊めるなんて、厄災が降りかかるぞ」

「今夜は部屋に鍵をかけて、神官に祈祷を捧げてもらわねば……」


クラリッサもまた、軽蔑と恐怖に満ちた目を大公の背中に向けていた。

「気味が悪いわ……あんな怪物が大公だなんて。近寄るだけで穢らわしい病が伝染りそうだわ」

そう吐き捨てながら、彼女は自らの白粉を塗った首筋を扇で隠し、そそくさと本館の安全な居室へと戻っていった。自らの身体にも、まったく同じ毒が着実に回っていることなど、露ほども知らずに。


愚者たちが去り、冷え切った中庭に、エルザは一人取り残されていた。

吹き抜ける風が、糸杉の葉をカサカサと鳴らす。

エルザは、大公が膝をついた石畳の場所へと静かに歩み寄った。

そこには、大公の額から滴り落ちた、まだ温かい脂汗の跡が黒く染みを作っていた。


(あの男は、死にかけている)


エルザはしゃがみ込み、その黒い染みを見つめた。

下垂手が出ているということは、末梢神経の脱髄が相当に進んでいる。このまま放置すれば、次は痙攣発作、鉛脳症、そして不可逆的な腎不全へと移行し、数ヶ月以内に確実に命を落とす。

神官たちが聖水を飲ませ、祈祷を捧げれば捧げるほど、聖水に含まれる重金属が拍車をかけ、死期を早めるだけだ。

帝国最強の武将。皇帝の甥。誰もが恐れ、誰もが遠巻きにする孤独な怪物。


(だが――私なら、治せる)


エルザの唇の端が、微かに吊り上がった。

ユーグから叩き込まれた病理学と薬理学の知識。

体内に沈着した重金属を遊離させ、吸着し、尿と便から強制的に排泄させるキレート療法の理屈。

食事の管理、毒性食器の全廃、そして適切な補液と有機酸の投与。

現代医学の光を当てれば、あの『悪魔の呪い』は、単なる生化学的な中毒反応に過ぎない。


そして何より――。

あの男は、生きることを諦めていない。

膝を砕かれ、手首を麻痺させられ、激痛に内臓を絞られながらも、ギルバートの氷灰色の瞳の奥には、病魔に対する凄まじい怒りと執念の炎が燃え盛っていた。

死に瀕した最強の軍人。

その命を救い上げることができる者が、この帝国広しといえども、自分ただ一人しかいないとしたら。


「見つけたわ」


エルザは立ち上がり、冷たい夕闇の中にそびえ立つ本館最上階の貴賓室を見上げた。

あの部屋に、今夜、死神が横たわっている。

自らを断頭台の運命から引きずり出し、アルトハイム伯爵家を踏み潰し、神殿の欺瞞を切り裂くための、絶対的な力を持つ『生きた盾』。


「私の命を救うための、最初の患者になっていただきます、ギルバート大公閣下」


エルザはエプロンのポケットの中で、痛む指先を強く握りしめた。

夜の帳が下りるのを待つ。

誰もが怯えて近づこうとしない死の部屋へ、自らメスを携えて踏み込むために。

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