第4話:銀器の死毒
夜が深まるにつれ、アルトハイム伯爵邸を支配していた動揺は、澱のような恐怖へと変わっていった。
本館一階の配膳室には、重苦しい沈黙と、ヒソヒソと交わされる怯えの声が満ちていた。テーブルの上には、夜食のために整えられた豪奢な銀のワゴンが置かれている。冷えた仔羊のロースト、焼き立ての白パン、そして美しく磨き上げられた重厚な銀製のデキャンタと二つの杯。
だが、そのワゴンを押して最上階の貴賓室へ向かおうとする者は、使用人頭から下働きに至るまで、誰一人としていなかった。
「冗談じゃないわよ! なんで私があんな部屋に行かなきゃいけないの!」
「そうよ、夕方のあのお姿を見たでしょう? 片膝をついて、獣みたいに呻いていらしたのよ……!」
「あの大公家の呪いは本物よ。触れただけで内臓が腐り落ちるんだわ。近寄るだけでも命が縮むに決まってる!」
上級侍女たちが互いに押し付け合い、顔を蒼白にして涙ぐんでいる。
夕刻、中庭でギルバート大公が見せた凄惨な発作は、館中の人間に「死神の影」をまざまざと見せつけていた。武名を恐れる以前に、人は目に見えない病と呪いを最も激しく忌避する。大公の不興を買って首を刎ねられる恐怖と、悪魔の呪いに冒される恐怖。二つの死の狭間で、普段は威張り散らしている侍女長すらも、眉間に深い皺を刻んだまま爪を噛んでいた。
「誰でもいいから持って行きなさいよ! 伯爵閣下から『大公閣下に粗相のないよう、極上の甘味ワインをお届けしろ』と厳命されているんだよ! お前たち、給金をもらっておきながら――」
「でしたら侍女長様が行かれればよろしいではありませんか!」
「な、なんですって!?」
醜い責任の擦り付け合い。
その罵声が飛び交う配膳室の片隅で、エルザは冷たい壁に寄りかかり、静かに銀のワゴンを見つめていた。
ワゴンの中央に鎮座する、鈍い銀白色のデキャンタ。
蓋を開けずとも、エルザの鋭敏な嗅覚には届いていた。濃厚な葡萄の饐えた芳香、舌が痺れるような甘ったるい香り、そして――その奥に潜む、冷たく金属質な刺激臭。
(ピューター製のデキャンタ……それも錫に極めて高い割合で鉛を混ぜた、最悪の合金。さらに中身は、伯爵家自慢の『煮詰めワイン』ね)
古代から貴族たちが愛飲してきた甘美なる毒。酸っぱくなった安ワインを甘く仕立て直すため、鉛の釜でじっくりと果汁を煮詰めて作られる濃縮甘味シロップ――『サパ』。
ワインに含まれる酢酸と、釜の鉛が化学反応を起こして生成されるのは、無色で極めて強い甘味を持つ化合物――酢酸鉛(鉛糖)だ。
砂糖が極めて貴重なこの時代、貴族たちはその暴力的な甘さと美しさに酔いしれ、神の恵みとして胃袋に流し込んでいる。
激痛に喘ぐ大公に、よりによってこの猛毒の塊を届けようというのだ。伯爵家に悪意はないのだろう。むしろ、最高のもてなしとして「とっておきの甘い美酒」を用意したつもりなのだ。その無知こそが、何よりも恐ろしい凶器だった。
「……私が、お持ちいたします」
低く、澄んだ声が配膳室の喧騒を切り裂いた。
言い争っていた侍女たちが一斉に言葉を失い、振り返る。
そこに立っていたのは、粗末なエプロンを身につけたエルザだった。足首には昼間に負った火傷の痕が生々しく残り、煤に汚れたエプロンのポケットに両手を突っ込んでいる。
「エルザ……? お前、正気かい?」
侍女長が目を丸くした。
「あそこにおわすのは、あの『帝国の黒狼』だよ。機嫌を損ねれば、手首一本どころか首ごと吹き飛ばされるんだよ!」
「存じております。ですが、どなたも行かれないのであれば、伯爵閣下の面目が潰れます。下働きの私でしたら、万が一手討ちにされたとしても、屋敷の損失にはなりますまい」
淡々とした、まるで他人の肉体の処分について語るかのような口調。
侍女たちは息を呑み、次いでその顔に露骨な安堵と嘲弄の色を浮かべた。
「ほ、本人がそう言っているんだから、行かせればいいじゃないの」
「そうよ、雑巾娘なら死んだって誰も困らないわ」
侍女長は咳払いを一つし、体裁を繕うように顎をしゃくった。
「……よ、よろしい。お前がそこまで言うなら任せてやるよ。ワゴンを運んだら、扉の前に置いてさっさと下がってくるんだよ。決して部屋の中を覗き込んだりするんじゃないよ!」
「かしこまりました」
エルザは深く一礼すると、重いワゴンの取っ手を握った。
車輪が石畳の上で、低く軋んだ音を立てる。
背中に浴びせられる「哀れな身代わり」を見る視線を、エルザは一片の感慨もなく置き去りにした。
手に入れたのだ。誰にも邪魔されず、合法的に大公の懐深くまで踏み込むための通行証を。
◇
本館の最上階。
普段は皇族や最高位の貴族を迎えるためだけに開かれる「月光の間」へと続く廊下は、まるで墓場のように静まり返っていた。
燭台の火はところどころ落とされ、冷たい大理石の床にエルザの足音とワゴンの車輪の音だけが反響する。
廊下の両脇には、本来なら護衛の騎士が何人も立ち並んでいるはずだった。だが、そこに人影はない。
ギルバート大公が、己の衰弱と苦悶の姿を部下に見せまいと、人を払ったのだ。最強を誇る軍団の長として、部下に弱みを見せることは死を意味する。その張り詰めた自尊心と孤独が、この無人の回廊に痛々しいほど漂っていた。
最奥の、重厚なオーク材の扉。
その前に立った瞬間、エルザの皮膚が粟立った。
扉の隙間から漏れ出てくる空気。
それは、閉め切られた部屋特有の鬱屈した熱気と、男の激しい呼気、そして――血と脂汗が混ざり合った、生々しい「肉体の悲鳴」の臭いだった。
コン、コン。
エルザは乾いた音を二度、響かせた。
「……アルトハイム伯爵家より、夜食とお酒をお持ちいたしました」
返答はない。
代わりに聞こえてきたのは、ギリ、と奥歯を噛み砕くような鈍い軋み音と、荒い呼気だった。
エルザは迷うことなく、真鍮の取っ手に手をかけ、ゆっくりと扉を押し開けた。
キィ、と蝶番が鳴り、室内の光景が視界に飛び込んでくる。
豪奢な天蓋付きベッドのカーテンは乱暴に引きちぎられ、床には上等の絨毯の上に、脱ぎ捨てられた黒鉄の胸当てと軍服の上着が散乱していた。
寝台の端に、巨躯を折り曲げるようにして座り込んでいる男。
ギルバート・フォン・ラングリール。
シャツの胸元は大きく引き裂かれ、鍛え上げられた分厚い胸板が、激しい呼吸に合わせて波打っている。その全身は尋常ではない量の脂汗に濡れ、褐色の肌がランプの火を浴びて不気味にテカっていた。彼は自らの両腕で腹部を抱え込み、まるで内臓を抉り出されるかのような苦痛に耐え、全身の筋肉を痙攣させていた。
だが、エルザがその病態を詳細に観察する暇は与えられなかった。
ヒュンッ――!
空気を裂く鋭利な風切り音。
次の瞬間、エルザの視界を銀の閃光が覆い尽くした。
冷たい鋼の切っ先が、エルザの喉仏の皮膚、わずか一ミリ手前でピタリと静止していた。
触れれば、皮が裂けて血が噴き出す間合い。
剣を構えていたのは、寝台の影から音もなく飛び出してきた副官のテオバルトだった。
その端正な顔は鬼気迫る殺気で歪み、軍刀を握る手には寸分の狂いもない。
「動くな」
低く、地這うような威圧の声。
「下働きが何の用だ。下がれ。……閣下は今宵、何人たりとも部屋に入れるなと仰せだ。これ以上一歩でも足を踏み入れれば、間者とみなしてその首を床に落とす」
研ぎ澄まされた軍人の殺気。並の娘であれば、腰を抜かして失禁し、泣き叫んで逃げ惑うところだろう。
だが、喉元に抜き身の切っ先を突きつけられたエルザの琥珀色の瞳は、微動だにしなかった。
瞬き一つせず、睫毛に触れそうな剣先を見つめ、それからテオバルトの目をまっすぐに見返す。
その心拍数は、驚くほど平常に保たれていた。
一度、冷たいギロチンの刃によって首を断たれたエルザにとって、眼前の鋼の刃など、もはや恐怖の対象ですらなかったのだ。
「冷たい夜食と、伯爵家秘伝の甘味酒をお持ちいたしました」
エルザの声には、震えの欠片もなかった。あまりにも平坦で、事務的ですらある声音。
「伯爵閣下より、長旅のお疲れを癒すよう、必ず大公閣下に手渡せと命じられております」
「……何?」
テオバルトの眉が不審そうに跳ね上がった。
眼前の少女の反応は、あまりにも異常だった。震えもせず、涙も流さず、死の刃を前にして呼吸の乱れすら見せない。
子供の皮を被った間者か? 暗殺者か?
テオバルトがさらに踏み込み、剣先を喉へ押し当てようとした、その時だった。
「……構わん、テオバルト」
寝台の奥から、掠れきった、だが鋼のように硬い低音が響いた。
ギルバートが大公としての威厳を振り絞るようにして、ゆっくりと顔を上げた。
その氷灰色の瞳は、血走り、苦痛の熱に浮かされている。
「……ただの……下働きだ。殺気立つな。喉が……焼けるようだ。そのデキャンタの酒を……注げ」
「しかし、閣下……!」
「注げと言っている……! 早くしろ……!」
ギルバートの呻き声に、テオバルトは唇を噛みしめ、やむなくエルザの喉元から剣を引いた。
切っ先を下ろしながらも、エルザへの警戒を一切解かない鋭い視線を向けたまま、テオバルトはワゴンの上の銀のデキャンタに手を伸ばす。
重厚な蓋を開けると、室内に立ち込める甘美な葡萄の香りと、鉛の微かな金属臭。
テオバルトがデキャンタを傾け、銀の杯に漆黒に近い濃赤色の酒を注ぎ込もうとした――その刹那。
「その酒を飲むのは、おやめください」
鈴を転がすような、だが氷のように硬く張り詰めた声が、静寂の貴賓室に凛と響き渡った。
テオバルトの手がピタリと止まる。
寝台の上のギルバートが、射抜くような眼光をエルザへと向けた。
エルザは一歩、踏み出した。
ワゴンの横を通り過ぎ、寝台に横たわる怪物の前へと進み出る。
その視線は、テオバルトが持っている銀の杯に注がれかけた液体へと向けられていた。
「大公閣下。その酒を一口でも喉に流し込めば、今夜中に胃壁と腸管が激しく引き攣り、激痛は今の倍に跳ね上がります。そして明朝には――ご自身の足で立ち上がることすら敵わなくなりますよ」
「……無礼者ッ!!」
テオバルトの怒号が爆発した。
デキャンタをワゴンに叩きつけ、テオバルトは再び軍刀を抜き放ち、エルザの肩口を掴んで床にねじ伏せようと手を伸ばした。
「貴様、何のつもりだ! 大公閣下の御前で不吉な呪詛を吐くか! やはり伯爵家の間者か、それとも神殿から送り込まれた刺客か!」
だが、エルザはテオバルトの掴みかかろうとする腕を身を屈めて躱すと、床に膝をつくことなく、寝台の上のギルバートをまっすぐに見据えた。
その視線の強さに、掴みかかろうとしたテオバルトの動きが一瞬、躊躇した。
「無礼を働いているのは、私ではありません」
エルザは淀みなく、冷徹な声で言葉を紡いだ。
「閣下にその毒液を『もてなしの美酒』と称して差し出している、この屋敷の人間たちこそが無礼なのです。……愚弄などしておりません。私はただ、閣下の肉体が発している明瞭な事実を述べているだけです」
「事実だと……?」
ギルバートが荒い息を吐きながら、低く呟いた。
その瞳の奥に、激痛を上回る冷酷な光が宿る。戦場で無数の命を奪ってきた男の、本物の殺気。
「小娘。戯言を吐くな。俺の何が分かる」
「すべて分かります」
エルザはギルバートの右腕を指差した。
ベッドのシーツの上に投げ出された、逞しい腕。
「閣下。あなたのその右腕――先ほどから、指先を上へ反らせることができないはずです。手首を持ち上げようとしても、だらりと下を向き、力が入らない。違うでしょうか」
ピシリ、と部屋の空気が裂けた。
テオバルトが目を見開き、息を呑む音が聞こえた。
ギルバートの表情が、驚愕によって凍りついた。
「さらに」エルザは休むことなく、解剖のメスを進めるように淡々と続けた。「日没とともに激化するその腹痛。みぞおちの痛みではありませんね。臍の周囲を、まるで冷たい鉄の万力で内側から締め上げられるような、鈍く重い激痛のはずです。押さえつけると僅かに痛みが和らぐため、先ほどからご自身の両手で強く腹を抱え込んでいらっしゃる」
「な……」
テオバルトの声が震えた。
軍刀を持つ手が、今度こそ微かに揺らいだ。
知っているはずがないのだ。
大公の手首の麻痺――下垂手。
そして、夜ごとに大公を苛む腹痛の正確な部位と性状。
それらは、軍の士気に関わる最高軍事機密として、主治医のいない戦場で、副官であるテオバルトただ一人しか知らされていない極秘事項だった。大公自身、日中は痛みに顔色一つ変えず、軍馬の上で完璧な指揮官を演じ切っていたのだ。
それを、今日この屋敷に来たばかりの、会ったこともない下働きの小娘が――なぜ、一目見ただけで完璧に言い当てられるのか。
「……貴様」
ギルバートの声から、苦痛の響きが消え失せていた。
代わりに満ちたのは、深淵の底から湧き上がるような、底知れぬ警戒と戦慄。
大公は麻痺していない左手をゆっくりと動かし、枕元に置かれていた短剣の柄に指をかけた。
「……誰の差し金だ。皇帝か? 教皇庁か? それとも、俺の首を狙う北方の残党か。なぜそれを知っている」
部屋中の殺気がエルザ一人の小さな身体へと収束する。
だが、エルザはその殺気の奔流を、涼風を受けるように受け流した。
彼女はワゴンの中央に置かれた銀のデキャンタを一瞥し、それからギルバートの氷灰色の瞳を、怜悧な光を宿した琥珀色の双眸で真っ向から射抜いた。
「誰の差し金でもありません。先ほども申し上げました。あなたの肉体が、私にそう語りかけているのです」
「肉体だと……?」
「ええ。悪魔の呪いなどではありません」
エルザは冷ややかに、だが絶対的な真理として宣告した。
「大公閣下。あなたはその豪奢な銀器と甘い酒で――代々、自らの胃袋へ毒を注ぎ込んできたのですよ」
迷信に支配された帝国の闇に、初めて近代医学のメスが突き立てられた瞬間だった。




