第2話:白粉の甘い毒
夜の底は、昼間の冷水よりもさらに深く骨の髄を凍えさせた。
アルトハイム伯爵邸の最下層、使用人区画のさらに奥にある地下室。窓と呼ぶにはあまりに小さく鉄格子の嵌まった通気口からは、晩秋の湿った夜風が容赦なく吹き込み、壁を伝う結露の雫が時折、床の石畳へポタリと音を立てて爆ぜていた。
四人部屋としてあてがわれたその狭隘な空間には、カビの生えた薄い藁布団が四つ並べられている。同室の洗濯女中や下働きたちは、日中の重労働で泥のように眠りこけ、豚のような重い鼾と歯ぎしりを冷え切った空気に響かせていた。
エルザは、その部屋の最も隅、湿気が最も濃く淀む寝床の上で、音もなく身を起こした。
十二歳の肉体は、想像以上に脆く、そして燃費が悪い。一日中冷水を扱い、重いシーツを絞り続けた腕の筋肉は乳酸が溜まって鉛のように重く、あかぎれの裂け目はジンジンと脈打つような熱痛を発している。だが、エルザの意識は澄み渡っていた。眠気など、処刑台の露と消えたあの一瞬の冷気と比べれば、微風にも満たなかった。
(身体が覚えているうちに、すべてを固定化しなければならない)
エルザは粗末な麻の寝間着の裾を静かにたくし上げ、藁布団の底に差し入れていた手を引き抜いた。
掌の中には、昼間のうちに厨房の竈の灰の中から密かに拾い集めておいた硬い木炭の燃えさしと、裏庭のゴミ捨て場から回収した羊皮紙の端切れがあった。本来なら帳簿の余白を切り落としただけの、親指の幅ほどしかない紙片が数枚。平民の侍女が文字を書くことすら「不遜」と咎められるこの屋敷で、紙と炭を所持していること自体が見つかれば、鞭打ちの口実にされる。
エルザは冷たい石壁に背を預け、膝の上に羊皮紙を広げた。
炭の尖った先端を走らせる。書くのは帝国の文字ではない。帝都の地下牢で、異端の解剖学者ユーグから叩き込まれた――古代の医術記号と、生化学の反応式を模した独自の暗号体系だった。
○の中に十字――心臓。
三日月と波線――胃と十二指腸。
そして、占星術の土星の記号(♄)――医学において『鉛』を示す悪魔の印。
(怪死事件のタイムライン。七年後の断頭台から逆算する)
記憶を一つずつ、冷徹に解剖台の上へ並べていく。
アルトハイム伯爵夫妻が「謎の病」を発症し、神殿から『悪魔の呪詛』と断定されたのは、七年後の春だった。
だが、病理学的に考えて、人間が毒や病原体によってある日突然、無から有を生じるように「怪死」することなどあり得ない。必ず前駆症状がある。毒物が組織に蓄積し、細胞を破壊し、不可逆的な器質的変化をもたらすまでの潜伏期間が。
前世の記憶をなぞる。
三年後、まず伯爵夫人が原因不明の微熱と周期的な頭痛を訴え始め、美しかった金髪が束になって抜け落ちた。
四年後、アルトハイム伯爵が激しい疝痛(腹痛)で夜ごとに叫び声を上げ、宮廷の軍務を退いた。
五年後、伯爵家の長男が極度の情緒不安定に陥り、幻覚を見て自室に引きこもった末、手足の激しい痙攣を起こして衰弱死した。
そして七年後――夫妻が内臓を焼き切られるような苦悶の中で相次いで息絶え、生き残った一人娘のクラリッサが、すべての罪をエルザになすりつけたのだ。
(種は、すでに撒かれている)
エルザは木炭を強く握りしめた。炭の粉が指のあかぎれに入り込み、鋭い痛みが走る。
七年後に花開く破滅の毒は、今まさにこの屋敷の日常の中に、当たり前の顔をして溶け込んでいる。壁の塗料か。毎日の食事か。それとも、貴族たちが誇らしげに使う豪奢な調度品か。
前世のエルザは、それらをただ「高貴な方々の触れる神聖なもの」として盲従し、疑問すら抱かなかった。その無知の代償が、あのギロチンの鉄刃だったのだ。
「……二度と、あんな真似はさせない」
エルザは書き終えた数枚の紙片を小さく折り畳み、藁布団の縫い目の奥深く、誰も触れない芯の部分へと押し戻した。
炭で汚れた指先を自らの唾液で擦り落とし、冷たい掛け布を首まで引き上げる。
目を閉じると、瞼の裏に浮かぶのは、自分を断頭台の上で見下ろしていたクラリッサの、あの嘲弄に満ちた冷酷な笑みだった。
◇
翌朝の訪れは、荒々しい足音と怒声によって告げられた。
夜明け前の薄青い光が地下通路を満たす頃、エルザが冷水で顔を洗い、麻のエプロンを身につけた直後のことだった。重い足音を響かせて現れたのは、伯爵邸の全侍女を束ねる侍女長だった。
仕立ての良い黒の更紗のドレスを着た侍女長は、エルザの顔を見るなり、汚物を目にしたかのように眉根を寄せた。
「おい、エルザ。そこにいたかい」
「はい、侍女長様」
「さっさと手を拭いて、本館の二階へ上がりなさい。クラリッサお嬢様の今朝の給仕係が、急な熱で倒れたんだよ。代わりにお前が朝食のワゴンを運び、お身の回りの手伝いをしなさい」
周囲にいた他の下働き侍女たちが、哀れみと安堵の混ざった視線をエルザに向けた。
アルトハイム伯爵邸において、令嬢クラリッサの居室への給仕は、侍女たちにとって最も恐れられる役目の一つだった。些細なことで癇癪を起こし、熱い茶を浴びせかけられたり、平手打ちを食らったりするのは日常茶飯事。誰もが貧乏くじを引きたがらない中、身寄りのない最下級のエルザが身代わりに選ばれたのは必然だった。
「承知いたしました」
エルザは表情を一切変えず、静かに頭を下げた。
侍女長はその従順さを「怯え」と受け取ったのか、満足げに鼻を鳴らして踵を返した。
「粗相のないようにしなさいよ。お嬢様のお召し物を一枚でも汚したら、お前のその薄汚い皮膚を剥いでも弁償できないんだからね」
エルザは厨房へ向かい、銀のクロッシュで覆われた朝食の盆をワゴンに載せた。
温かいコンソメスープのポット、焼きたての白いパン、そして濃厚な蜂蜜の壺。
地下の使用人区画から本館へと続く階段を上がるにつれ、空気の質が目に見えて変わっていく。冷たい灰汁と湿気の臭いは消え去り、代わりに蜜蝋のワックスで磨かれたオーク材の床の匂い、そして壁を飾る豪奢なタペストリーの重厚な埃の匂いが立ち込めてくる。
本館二階、陽当たりの良い南東の角部屋。
重厚な白木に金箔の縁取りが施された扉の前で、エルザは深く息を整え、ノックの音を三度響かせた。
「……失礼いたします。朝食をお持ちいたしました」
返事を待たずに扉を開けると、その瞬間に押し寄せてきた空気の重さに、エルザの鼻腔の奥がツンと痛んだ。
甘い。あまりにも甘く、そして不快な臭気。
部屋には、最高級の薔薇の香油と白檀の香煙がこれでもかと焚き込められていた。だが、エルザの研ぎ澄まされた嗅覚は、その華やかな芳香の底に沈む、もう一つの異質な匂いを逃さなかった。
金属質の、どこか冷たく、微かに酢を思わせるような、甘ったるい重金属の気配。
(……この匂いだ)
部屋の中央、大きな三面鏡の前に、一人の少女が座っていた。
クラリッサ・フォン・アルトハイム。十三歳。
絹のネグリジェの上にレースのガウンを羽織り、背中には波打つ亜麻色の髪を垂らしている。
前世でエルザを処刑台へ送ったあの女が、まだあどけなさを残した少女の姿でそこにいた。
だが、その手元で行われている作業は、およそ十三歳の子供のそれとは思えない、狂気を孕んだ執着に満ちていた。
クラリッサは、白鳥の羽毛で作られた大きなパフを手に持ち、鏡台の上に置かれた磁器の壺から、真っ白な粉をすくい取っていた。
それを、狂ったように自らの顔面、首筋、そしてガウンから覗くデコルテへと叩き込んでいる。
ポン、ポン、と粉が舞うたび、室内の光を浴びてキラキラと不自然な光沢が散る。
「……遅いわよ、のろまな雑巾娘」
鏡越しにエルザを睨みつけたクラリッサの顔は、異様な白さで塗り固められていた。
貴族社会で「至高の美」とされる、抜けるような陶器の肌。日光を浴びず、労働を知らない高貴な血筋の証明。
だが、エルザの観察眼は、その白粉の仮面の下にある「生身の組織」を瞬時に暴き出していた。
(皮膚の角質層が極度に乾燥し、部分的に落屑を起こしている。そして――あの色)
白粉が塗り残された耳の裏や生え際の肌は、瑞々しい少女の血色など微塵もなかった。
毛細血管が極端に収縮し、酸素を失った組織が帯びる、土気色の灰色――医学用語で言うところの『鉛灰色』。
さらに、クラリッサがパフを持ち上げようとした瞬間、エルザの視線はその手首に固定された。
ピク、ピク、と不規則に震える親指と示指。
手根管の筋肉が意図せぬ攣縮を起こしている。本人はそれに気づいていないのか、苛立たしげにもう片方の手で手首を強く押さえつけ、パフを鏡台へと叩きつけた。
「いつまで突っ立っているの! さっさとスープを配膳しなさい! 腹が減って頭が割れそうに痛いんだから!」
「かしこまりました」
エルザは無表情のままワゴンを寄せ、銀の盆からスープ皿をテーブルへと移し始めた。
澄んだ飴色のコンソメスープから、湯気とともにブイヨンの芳醇な香りが立ち上る。
クラリッサは長椅子へ移動し、乱暴にスプーンを握りしめた。だが、その指先がスープを掬おうとした時、微かな振戦のせいでスプーンが陶器の縁に当たり、甲高いカチャリという音を立てた。
その瞬間、クラリッサの顔が屈辱と癇癪で歪んだ。
「……っ、熱いじゃないのよ、この無能!」
「え――」
エルザが声を上げる暇すら与えられなかった。
クラリッサはスプーンを投げ捨てると、まだなみなみと注がれていたスープ皿を、平手でエルザの足元へ向けて乱暴に薙ぎ払ったのだ。
ガシャンッ!
硬質な磁器が床の敷石に激突し、鋭利な破片を撒き散らしながら砕け散った。
煮え立つような熱いスープが、エルザの薄い麻の靴と足首へと容赦なく降りかかる。
「熱っ……!」
皮膚が焼けるような痛みが走り、飛び散った破片の一つがエルザの右の足首の皮膚を浅く切り裂いた。じんわりと、赤い血がストッキングの繊維に染み出していく。
「お嬢様! 何事ですか!?」
物音を聞きつけ、廊下で待機していた侍女長が血相を変えて飛び込んできた。
クラリッサは長椅子の上で胸元を押さえ、まるで自分が被害者であるかのように声を上ずらせて叫んだ。
「侍女長! この小娘、わざと熱湯のようなスープを私に浴びせようとしたのよ! なんて無作法なの! 手が滑っただなんて言い訳、聞きたくもないわ!」
「まあ……! なんてことでしょう!」
侍女長は青ざめ、すぐさまクラリッサの足元に駆け寄って平謝りを始めた。
「申し訳ございません、クラリッサお嬢様! お怪我はございませんか!? おい、エルザ! 何をしているんだい、早くお嬢様に土下座してお詫びを申し上げないか!」
エルザは、スープの海と破片が散らばる床の上に、静かに膝をついた。
足首の火傷と切り傷がズキズキと痛む。
だが、その胸の内に湧き上がっていたのは、怒りでも屈辱でもなかった。
冷え切った、底知れぬ観察の眼差し。
(怒る価値すらない)
エルザは床に手をつきながら、クラリッサの顔を、その手元を、じっと見つめていた。
クラリッサは激昂して肩で息をしている。その呼吸は浅く、胸郭の動きが異常に硬い。
そして、怒声を発するために大きく開かれた彼女の口元――。
唇がめくれ上がったその瞬間、朝日がクラリッサの上顎の歯列を照らし出した。
(見えた)
犬歯から臼歯にかけての歯頸部、歯と歯肉の境目に、極めて初期の、だが確実な病変が存在していた。
うっすらとした、鉛色を帯びた青黒い色素の沈着。
体内に吸収された鉛が、唾液中の硫化水素と反応して硫化鉛の微粒子となり、毛細血管の周囲に沈着する現象――『バートン線』。
まだ大公ギルバートのように明瞭な帯にはなっていない。だが、毒はすでに消化管と皮膚から血流に乗り、確実にこの少女の骨髄と中枢神経を蝕み始めている。
(炭酸鉛――神殿公認の高級美白粉『白仙の雫』。成分は鉛の粉末そのものだ)
貴族の女性たちは、陶器のような肌を手に入れるために、この猛毒を毎日顔や首に塗りたくっている。皮膚の毛穴から徐々に吸収された鉛は、ヘモグロビンの合成を阻害して重度の貧血を引き起こす。肌が白くなるのは美しくなっているからではない。血液が酸素を運ぶ能力を失い、細胞が窒息死しかけているからだ。
さらに鉛は末梢神経を麻痺させ、脳の血管を収縮させて激しい頭痛と情緒不安定、精神錯乱を引き起こす。
クラリッサのこの異常な癇癪も、手の震えも、激しい頭痛も――すべては、自らが買い求めた毒によって脳が冒され始めている証拠だった。
(愚かな女)
エルザの口元に、床の破片を拾うふりをして、微かな笑みが浮かんだ。
前世の自分は、この女の理不尽な暴力に涙を流し、ただ怯えて許しを乞うていた。
だが、今のエルザには見える。
この傲慢な令嬢が、自らの虚栄心という名の毒を毎日身体に擦り込み、自爆へと向かって着実にカウントダウンを刻んでいる姿が。
復讐のためにこの女を殺す必要など、最初からどこにもないのだ。
ただ放置しておけばいい。望むがままに毒を塗らせ、吸わせ、飲ませておけば、数年後には自らの手で自らの肉体を腐敗させ、正気を失って破滅していくのだから。
「おい、エルザ! 聞こえないのかい! 早くお詫びを――」
侍女長が金切り声を上げようとした、その時だった。
「クラリッサ様」
エルザは床から顔を上げた。
その声は、驚くほど静かで、平坦で、室内の怒号を一瞬で吸い込むような冷たさを孕んでいた。
クラリッサが眉をひそめ、見下ろしてくる。
「……何よ」
エルザは割れたスープ皿の破片を指先でつまみ上げながら、クラリッサの白粉で固められた顔面を、まっすぐに見つめ返した。
その瞳の奥には、恐怖の欠片もなかった。あるのは、病理標本を観察する解剖学者の、絶対的な冷徹さだけ。
「お肌が、一段と白くあられますね」
「は……?」
「神殿の白粉が、実によく馴染んでいらっしゃいます。血の気配が一切なく、冷たく透き通るようで――まるで、棺の中に横たわる方の死化粧のように、息を呑むほどお美しいです」
室内の空気が、ピシリと音を立てて凍りついた。
死化粧。
その不吉極まりない言葉の響きに、侍女長が息を呑んで硬直する。
クラリッサの顔面から、白粉の下にあるはずの僅かな赤みが完全に引いた。
褒め言葉の形を取りながら、自らの死を宣告されたような、生理的な悪寒。
エルザの琥珀色の瞳の奥に宿る、底知れない暗闇を見たクラリッサは、背筋を氷で撫でられたように身震いした。
「な……な、何を言っているのよ、この気狂い娘が……!」
クラリッサの声が微かに上ずり、震える手で自らの首筋を抱きしめた。
「不気味よ! 目障りよ! 侍女長、この娘を今すぐ私の視界から消しなさい! 二度と私の部屋に入れるんじゃないわよ!」
「申し訳ございません! ほら、エルザ、さっさと破片を拾って出て行きなさい!」
侍女長がエルザの背中を小突き、追い立てるように指示を飛ばす。
「失礼いたしました」
エルザは深く一礼した。
血の滲む足首を引きずりながら、割れた磁器の破片をトレイに載せ、静かに部屋の扉を閉める。
カチャリ、と真鍮の鍵が閉まる音が背後で響いた。
薄暗い本館の廊下に出たエルザは、壁に背を預け、小さく息を吐き出した。
足首の火傷がジンジンと痛むが、頭脳は氷のように冴え渡っていた。
(クラリッサの鉛中毒は、確実に進行している。あと三年もすれば、神経症状は隠しきれなくなるはずだ)
だが、問題はそこではない。
クラリッサの自滅を待つだけでは、七年後の断頭台は回避できないのだ。
伯爵夫妻の怪死事件の全貌を暴き、自分を陥れる構造そのものを叩き潰すためには、この屋敷の底辺で使用人としてこき使われている時間などない。
圧倒的な力が必要だった。
神殿の権威をもねじ伏せ、伯爵家ごときが一言の異議も申し立てられないほどの、絶対的な庇護者。
そして――エルザの医学の知識を最も必要とし、それを対価としてエルザをこの泥沼から引き上げてくれる、生きた『鍵』。
(もうすぐだ)
エルザは廊下の高窓から、伯爵邸の中庭を見下ろした。
前世の記憶が正しければ、数日後――。
北方の国境警備を終えた帝国最強の武将、ギルバート・フォン・ラングリール大公が、補給のためにこの館を訪れる。
『骨を蝕む悪魔の呪い』に侵され、余命幾ばくもないと囁かれる、孤独な怪物。
「待っていますよ、大公閣下」
エルザは傷口から流れる血を指先で拭い、冷たい廊下を地下へと歩み出した。
解剖のメスを振るうべき最初の獲物は、もうすぐ目の前に現れる。




