第1話:鉄の刃と灰色の空
晩秋の冷たい雨は、容赦なく人間の体温を奪い去っていく。
ずぶ濡れになった薄い麻布の囚人服は、冷たい皮膚にぬらぬらと張り付き、まるで死蝋の膜のようだった。
首枷の丸く刳り抜かれた木枠は、何十人もの罪人の脂と血を吸って黒ずみ、角がささくれている。そこへ顎を押し付けられるたび、濡れた鉄の鋲が鎖骨を圧迫し、鈍い痛みが背骨へと突き抜けた。首筋を伝い落ちる水滴が、首枷の隙間を通って胸元へと滑り落ちていく。その冷たさに、すでに感覚の麻痺しかけた皮膚が小さく痙攣した。
「魔女を殺せ!」
「伯爵様方を呪い殺した毒婦め!」
「悪魔の手先を引き裂け!」
処刑台を取り囲む群衆の怒号が、叩きつける雨音をかき消すほどの地鳴りとなって足元を揺らす。
飛来した腐った泥の塊が、エルザの右の側頭部にべちゃりと音を立てて命中した。悪臭を放つ泥水が目に入り、視界が濁った黄色に染まる。だが、それを拭う手は背後で頑丈な革バンドによって固く縛り上げられていた。
弁明の言葉など、もはや一片も残っていなかった。
三日三晩にわたる水断ちと、地下牢での執拗な拷問。喉の粘膜は完全に干からびて張り付き、呼吸をするたびに肺の奥が火で炙られたように熱い。声帯は引き裂かれ、掠れた呼気が唇の端から漏れるだけだった。
(……誰も、真実など求めていない)
濁った視界の先、壇上の天幕の下に設えられた特別席を、エルザは見据えた。
雨に濡れることのない天幕の下、豪奢な漆黒の喪服に身を包んだ少女が立っている。
クラリッサ・フォン・アルトハイム。
エルザが十四の時から五年間仕え続けた、アルトハイム伯爵家の令嬢だった。
クラリッサは、繊細なレースのハンカチを目元に当て、悲劇の孤児となった可憐な淑女の顔を作って小さく肩を震わせていた。周囲の貴族たちが同情の眼差しを注ぎ、若い騎士が甲斐甲斐しく彼女の背を支えている。
だが、エルザは見逃さなかった。
ハンカチの陰から覗くクラリッサの双眸。そこに浮かんでいるのは、悲しみなどではない。自らの罪をすべて他人に擦り付け終えた安堵と、底知れない冷酷な嘲笑だった。
そして――クラリッサの白い首元で揺れている、濡れたような深い青の輝き。
サファイアのペンダント。
没落したエルザの実家、ヴァルデック男爵家が唯一残した財産であり、エルザが病床の母から託された最後の形見だった。
『これ、素敵ね。下品な小娘が身につけておくには勿体ないわ。私が預かってあげる』
そう言って、クラリッサが笑いながらエルザの首から力任せに引きちぎっていった宝物。主家の絶対的な命令に逆らえず、奪われるがまま涙を呑んだあの日から、あの宝石は悪女の胸元を飾る道具へと成り下がっていた。
アルトハイム伯爵夫妻が原因不明の激しい腹痛と嘔吐、狂乱の末に衰弱死した「呪いの怪死事件」。
神殿の司祭はそれを「悪魔の呪詛」と断定し、屋敷のすべての調度品や食事を管理していたエルザにすべての濡れ衣が着せられた。クラリッサは涙ながらに証言したのだ。『エルザが夜な夜な悪魔の祈祷を捧げ、両親のスープに呪いの灰を混ぜていた』と。
下級貴族の没落令嬢、身寄りのない下働き侍女。
伯爵家の不祥事を闇に葬り、宮廷の恐怖を鎮めるための生贄として、エルザほど都合のいい存在はいなかった。
(無知だった……。生き延びるための術を持たず、ただ言われるがままに頭を下げていたから、こんな場所へ引きずり出されたのだ)
冷たい雨の中、意識が遠のきかけるエルザの脳裏に、鮮烈に蘇る光景があった。
処刑前夜まで放り込まれていた、帝都の中央地下牢。
ネズミが走り回り、汚水と糞尿が染み出す暗黒の底で、厚い石壁の通気孔越しに言葉を交わした一人の男。
ユーグ。
かつて帝国医学校で解剖学を講じながら、「神の創りたもうた肉体を切り裂く悪魔崇拝者」として教会に追われ、投獄されていた異端の学者。
処刑を前に震えていたエルザに対し、壁の向こうの男は、皮肉に満ちた、だが酷く透き通った声で語りかけてきたのだ。
『泣くな、小娘。神に祈る暇があるなら、自分の肉体を構成する物質の理を考えろ。この世に悪魔の呪詛などという曖昧なものは存在せん。人間が死ぬのには、例外なく物理的な理由がある』
『……り、ゆう……?』
『そうだ。心臓が止まるのは血液を押し出す圧力が失われたからだ。内臓が腐るのは毒物が細胞の代謝を破壊したからだ。熱が出るのも、吐血するのも、すべては物質の反応に過ぎん。神の罰などという都合のいい言葉で思考を止めた瞬間、人間は豚になる』
暗闇の中で、ユーグはエルザに語り続けた。
骨の構造、動脈の走行、内臓の配置。植物から抽出されるアルカロイドの毒性、金属が血液を侵食していくメカニズム。
死を目前にした極限状態の中で、エルザの渇いた頭脳は、ユーグの語る禁忌の知識をまるで乾いた海綿のように吸い込んでいった。
そして、エルザが語った伯爵夫妻の最期の症状――周期的な激痛、手足の痺れ、錯乱――を聞いた時、ユーグは鉄格子を叩いて吐き捨てたのだ。
『それは呪いなどではない! 明確な毒物の反復摂取による中毒症状だ! そんな初歩的な病理すら見抜けず、祈祷師の戯言に怯えて首を括る愚民どもめ! ……いいか、小娘。よく覚えておけ。この世界で最も重い罪とは、悪意ではない。――無知であることだ。無知であることは、それだけで他人に自らの首を差し出す罪なのだ』
無知であることは、首を差し出す罪。
その言葉が、今、冷たい刃となってエルザの胸を抉っていた。
知っていれば。
毒の正体を知り、病態を証明する術を持ち、神殿の欺瞞を粉砕する知識という武器を握りしめていれば、自分はこんな泥水の中で首枷を嵌められることなどなかったのだ。
「――罪人エルザ・ヴァルデック! 悪魔と契約し、尊きアルトハイム伯爵夫妻を呪殺せし大罪により、その首を神の正義のもとに切り落とす!」
神官の甲高い宣告が響き渡る。
濡れた革の手袋をした大男が、ギロチンの支柱の根元にある真鍮のレバーに手をかけた。
エルザは泥にまみれた顔を精一杯持ち上げ、天幕の下のクラリッサを睨みつけた。
悪女はハンカチを下ろし、満足げに微笑んでいた。その口元が、声を出さずに動く。
『さようなら、可哀想なエルザ』
「……忘れない」
声にならない呪詛が、エルザのひび割れた唇から零れた。
「絶対に……忘れない……!」
ガコン、という重い金属の爪が外れる音が頭上で鳴り響いた。
見上げた灰色の空から、巨大な斜刃の鉄塊が、垂直のレールを滑り落ちてくる。
空気を切り裂く、ヒュッという鋭利な風切り音。
首筋に、氷のような冷気と、焼けるような圧力が同時に触れた――。
視界が、信じられない速度で回転した。
灰色の空、処刑台の木組み、血を流して倒れる首のない自分の胴体、そして狂喜乱舞する民衆の歪んだ顔。
それらが万華鏡のように激しく渦を巻き、やがて底のない漆黒の闇へと沈んでいった。
――思考が、途絶えた。
◇
「ごほっ……! げほっ、おえっ……!」
突然、激しい吐気と咳き込みが気管を襲った。
肺の奥に溜まっていた冷たい液体が逆流し、鼻腔と口腔から噴熱とともに吐き出される。
むせ返り、涙が溢れ、荒い呼吸を繰り返す。
気道を満たしたのは、処刑場の生臭い血の臭いでも、降りしきる雨の匂いでもなかった。
(……くさい?)
鼻孔を暴力的に刺したのは、強烈な刺激臭だった。
鼻を突く灰汁のアルカリ臭。酸化して古くなった動物性脂肪の饐えた油の臭い。そして、冷水に長時間浸されてふやけた、湿った羊毛の重苦しい蒸れ臭。
膝の皿に、ゴツゴツとした硬い石の感触がめり込んでいる。
皮膚に突き刺さるような鋭い冷たさ。エルザは震える瞼を押し上げた。
「……え?」
目の前に広がっていたのは、薄暗い地下の石造りの空間だった。
天井からは湿った水滴がポタポタと滴り落ち、細いスリット状の高窓から、鈍い灰色の夕光が一条だけ差し込んでいる。
エルザの両腕は、目の前に置かれた巨大な木樽の中に突っ込まれていた。
樽の中を満たしているのは、白く濁った冷水。その底には、汚れの染み付いた分厚い亜麻布のシーツが何枚も沈んでいる。
エルザは、水の中から自らの両手を引き上げた。
引き上げられた手を見て、息が止まった。
小さい。
あまりにも短く、肉付きが薄く、頼りない手。
十九歳の時に持っていたはずの手のひらの厚みはなく、関節は細く、爪には泥と洗濯灰汁の黒い垢がぎっしりと詰まっている。皮膚は寒さと冷水のために赤紫色に腫れ上がり、指節のあちこちが痛々しくあかぎれを起こして血が滲んでいた。
着ている服を見下ろす。
泥に汚れた囚人服ではない。粗末で擦り切れた、灰色の下働き用の麻ワンピース。丈は短く、細い足首が剥き出しになっている。
「おい、エルザ! 何を突っ立ってんだい!」
鼓膜を破かんばかりの怒声が、頭上から叩きつけられた。
ビチャリ、と顔面に重く濡れたものが叩きつけられる。
冷たい絞り粕の雑巾だった。鼻先を泥水が伝い落ちる。
驚愕して見上げると、そこには腰に手を当て、二の腕を丸出しにした丸々と太った中年女が仁王立ちしていた。
赤ら顔に、眉間の深い皺。油でテカテカと光る豚のような頬。
アルトハイム伯爵邸の地下洗濯場を牛耳っていた、洗濯頭のマルタだった。
「あんた、またぼんやりして手を止めてたんじゃないだろうね! 今日の分のシーツと厨房の布巾、全部洗い終わるまで夕飯抜きだって言ったのが聞こえなかったのかい!」
「マ……ルタ……?」
「マルタ様ってお呼び、こののろま! 口答えする暇があったら手を動かしな! 今日中に片付かなかったら、外の豚小屋に放り出して凍え死にさせてやるからね!」
マルタは汚れた木靴の先でエルザの背中を乱暴に蹴りつけると、鼻を鳴らしながら洗濯場の奥へと去っていった。
蹴られた背中に、ジーンと鈍い痛みが走る。
痛み。
幻覚ではない。夢でもない。
神経が受容した圧迫の信号が、脊髄を通り、確実に脳の感覚野へと伝達されている。
心臓が、肋骨の裏で早鐘のように力強く拍動している。肺が、灰汁と湿気の混ざった冷気をしっかりと取り込んでいる。
(私の首は……刎ねられたはずだ)
エルザは震える両手を首筋へと伸ばした。
冷えた指先が触れたのは、滑らかで傷一つない、細い首の皮膚だった。
血は流れていない。肉も裂けていない。
ギロチンの鉄刃が断ち切ったはずの頸動脈も、気管も、頸椎も、すべてが完璧に繋がっている。
エルザは木樽の水面へ顔を近づけた。
揺れる濁った水鏡の中に、映し出された影。
煤と泥に汚れ、寒さで唇を青ざめさせた、まだ少女の面影を残す顔。
大きな琥珀色の瞳は、恐怖と飢えで痩せこけている。
背丈も、手足の長さも、明らかに縮んでいた。
これは――十二歳の時の自分だ。
没落した父が借金を遺して病死し、生きるために伯爵邸へ売られるようにして送り込まれた、見習い侍女時代の自分。
(七年……前?)
伯爵夫妻の怪死事件が起きる、ちょうど七年前。
エルザが処刑台に送られるまで、まだ七年もの歳月がある「過去」だった。
「は……あ……」
喉から掠れた呼気が漏れた。
神の奇跡か?
それとも悪魔の気まぐれか?
どちらでもいい。そんな宗教的な戯言に感謝する気など毛頭なかった。
エルザは水から引き上げた両手を、ぎゅっと、痛むあかぎれから血が滲み出すほど強く握りしめた。
脳裏に、鮮明に焼き付いているものがあった。
あの日、地下牢の暗闇でユーグから叩き込まれた、人体の精緻なる地図。
骨格、筋肉、血管、神経、内臓の配置と機能。
薬草に含まれる成分の薬理作用、毒物が引き起こす生化学反応のメカニズム。
そして――これからこのアルトハイム伯爵邸で誰が病に倒れ、誰が死に、どのようにして自分が陥れられていくのかという、未来の出来事の完全な記憶。
知識がある。
前世では持っていなかった、世界を解剖するための「真理のメス」が、今のエルザの頭脳の中には確かに存在していた。
「もう二度と……」
エルザは冷水の中に再び手を沈めた。
痛む指先で分厚い麻シーツを掴み、力を込めて水中で揉み洗いする。
冷たさに感覚が麻痺していくが、胸の奥底には、前世の処刑台で燃え尽きたはずの炎が、かつてないほどの熱量を持って宿っていた。
「もう二度と、無知ゆえに首を差し出しはしない」
クラリッサ。アルトハイム伯爵夫妻。
そして、病を悪魔の呪詛と偽り、民衆を恐怖で縛り上げて巨利を貪る神殿の司教ども。
自分を虫けらのように踏みにじり、断頭台の上で嘲笑ったすべての者たちの顔が、暗闇の奥に浮かび上がっては消える。
(待っていなさい)
エルザは唇の端を吊り上げ、冷徹な、酷薄な笑みを水面に落とした。
復讐のために刃を振るう必要などない。
彼らが縋り付いている「迷信」と「偽善」の仮面を、自らの医学の知識で一枚ずつ剥ぎ取り、その醜悪な病理を白日の下に晒し上げてやればいい。
自分を殺したこの理不尽な世界そのものを、骨の髄まで解剖してやる。
そのためには、まず生き残らなければならない。
誰も手出しのできない、皇帝すら頭を垂れるほどの絶対的な医療権力を、この小さな手で一から築き上げるのだ。
冷たい地下洗濯場の中、少女の瞳に宿った黄金の光は、暗闇を切り裂くメスの切っ先のように鋭く、静かに輝いていた。




