13 イーラスの部屋
「……ここが」
イーラス様の私室……という言葉は続かなかった。
その前に爽やかな風とともにシダーウッドの匂いに迎えられ、ティリアの胸がキュッと締まる。
足下には紺色の柔らかな絨毯が敷かれ、シックな家具で統一された部屋。
窓は小さく、絨毯と同じ紺色のカーテンがさがる。そこから少し離れたところにビシッとシーツが張られたベッドと、アンティーク調の応接セット。そして、窓から離れた壁一面には本棚があり、その前には重厚な机と立派な椅子が鎮座している。
派手さはないが無駄な物もなく、落ち着きが漂う。
「綺麗ですね」
掃除の必要がないほど汚れがなく、整理整頓もされている。むしろ、ここで生活をしているのか疑ってしまうほどの綺麗さ。
そんな微かな違和感が漂う室内を見回していると、紫の瞳が執務机の背後にある本棚で留まった。
「本……ではない?」
本棚と本棚の間にある柵で仕切られた空間。
本棚と同じ木で作られているため気づきにくいが、そこだけ明らかに作りが違う。本棚三段分の棚板がなく、本二十冊分ぐらいの横幅に柵がはまっている。
その中には太い枝と植物があり、一見すると小さな箱庭のようでもあるのだが、その中にはニョロリと動く物体があり……
ティリアは惹かれるように自然と室内へ足を踏み入れていた。
「これは……蛇?」
それは珍しい色の蛇だった。
本棚の一部を改造して作られた柵の中に置かれた枝。そこにダラリと絡みつく白銀の細長い体と、燃える炎のように浮かぶ鮮やかな赤い模様。
まるで宝石のような蛇がチロチロと舌をだしながら丸い琥珀の瞳でティリアを観察している。
「どうして、ここに蛇が……?」
そこに感情が見えない低い声が響いた。
「こんなところで、どうしたんだい?」
気配なく現れた声にティリアが反射的に腰を落としながら素早く振り返る。
(いつの間に!?)
敵国との戦争になったとき、国や民を守れるように幼少の頃より鍛えられ、その腕は並みの騎士を凌ぐほど。そのティリアが近づいてくる足音にも気配にも気づかなかった。
思わぬ失態に警戒心を強めて相手を見上げる。
すると、最初に紫の瞳に映ったのは適当に櫛を通しただけの赤茶の髪だった。首元のボタンは外して着崩した容姿はどこかだらしなさが漂うが、鍛えられた体躯が綺麗な立ち姿勢のままティリアを見下ろす。
その見知った姿にティリアはホッと警戒を緩めようとした瞬間――――――
「……っ!?」
無表情のままティリアの全身が固まった。
自分を見下ろす黄金の瞳。そこにはいつもの温かさはなく、冷徹さと冷酷さを合わせた感情のない無機質な闇が漂う。
普段とは全く違うイーラスの様相にティリアが息を呑みかけたところで、黄金の瞳がニコッと笑った。
「私に用かな?」
その表情で不穏な気配が霧散する。
声音も雰囲気もいつもと同じで、闇に染まっていた黄金の瞳も明るく穏やかな光を宿している。
(私の勘違い……だったのでしょうか?)
同一人物には思えない変わり身にティリアがポカンと見上げる。
その様子にイーラスが困ったように人差し指で顎をかきながら言った。
「私の顔に何か付いてる? もしかして朝、食べたパンくずとか? うわっ、またセバスチャンに鏡をちゃんと見なさいって怒られるよ」
どこかおどけたような口調に対して、ティリアは無表情のままワタワタと慌てたように雑巾とほうきを持ち上げて説明をした。
「い、いえ。何も付いていません。その、マギーさんが不在ですので、私が代わりにお部屋を掃除をしようと思いまして」
その答えに赤茶の髪が軽く動く。
「あぁ、そうか。マギーの代わりにね。でも、この部屋はしなくていいよ」
「ですが……」
(掃除もできることを証明できる好機なのに!)
心の声は出さないままティリアが窓を指さす。
「あの、マギーさんだと外から窓を拭くのは難しいと思いますが、私ならできます。いつもはできないところの掃除もできますから、その……」
ティリアがホウキとバケツを手に無表情のままイーラスへ詰め寄る。
「このまま、この部屋の掃除をさせてくだ……え?」
なんとか掃除を遂行しようとするティリアの肩を大きな手が掴み、そのまま軽い力でクルッと体をドアの方へ向けられた。
「イーラス様?」
戸惑いながら振り返ろうとするティリアの背中を大きな手が軽く押して部屋の外へと誘導する。
「スカートのままで外から窓を拭くのは危ないからやめようね。あと、あまりオジサンの部屋を見ないでほしいな。恥ずかしいから」
まったく恥ずかしいと思っていない声音だがティリアの白い頬がほんのり赤くなる。
「そ、それは、その失礼いたしました。ですが、そんなに見てはおりませんので……」
「あと、この部屋と書斎の掃除はセバスチャンがするから大丈夫だよ。でも、それ以外の部屋の掃除は頼もうかな」
その言葉に白銀の髪がクルッと振り返り、紫の瞳が上目遣いでイーラスを見つめた。
「掃除を続けてもよろしいのですか?」
「あぁ。今日はマギーがいないから助かるよ」
目尻のシワを深くして柔らかく言われた言葉にティリアが無表情のまま目だけを輝かせる。
「はい、精一杯させていただきます」
「よかった。じゃあ、よろしくね」
そう言われた時にはティリアの体は廊下に出ており、そのままパタンとドアが閉まった。
「……あ」
ポツンと一人、廊下に立つティリア。
乾いた風が吹き抜け、白銀の髪が所在なさげに揺れる。
「あの……」
慌てて振り返るとドアノブに手を伸ばしかけたところでハッとする。
(もっといろんなことをイーラス様と話したいような……でも、話すことが浮かばない……それなのに、どうして私は話したいと……?)
これまで感じたことがない複雑な気持ちが溢れ、どう動いたらいいのかわからない。
ティリアは白い手をグッと握ってバケツへ視線を落とした。
「……次の部屋の掃除をしましょう」
せっかく他の部屋の掃除を任されたのだから、その期待に応えないといけない。
「よし、頑張ります」
無表情のまま気合いを入れ直したティリアはバケツとホウキを持ち直して隣の部屋へと廊下を歩いた。
カチャカチャとバケツが鳴る音を聞きながらふとイーラスの部屋を思い出す。
「……そういえば」
普通の主寝室は窓を大きくして日当たりがよくなる造りをしている。その方が自然光で部屋が明るくなり、風通しもよい。
だが、イーラスの寝室は窓が小さく部屋全体も薄暗かったうえに、家具の配置も窓とドアから離して置いてあり、まるで外からの襲撃に備えているような配置だった。
(王都は治安が良くて安全なはずなのに……それに、本棚の間にあった柵……あの中にいたのは、暗殺にも使われる毒を持つ稀少な毒蛇。そんな蛇がどうしてここに?)
そして、何よりも自分の背後をとられてしまった。
「王都に来てから感覚が鈍ってしまったのでしょうか……」
領地に住んでいる時はこんな失態をしたことはなかったが、学校の寮に入ってからは勉学に重点を置いたため、鍛錬する時間は減っていた。
それでも、そこまで武術の腕が鈍ったとは思っていなかったのだが。
「もしかして、イーラス様も剣術を嗜まれて……?」
ふと赤茶色の髪が脳裏に浮かぶ。
長い前髪の下にある、ふわりと緩んだ黄金の瞳。年齢を重ねた渋みを含んだ笑みと、服の上からでもわかる鍛えられた体躯。
実家はそこそこの権力を持っていると話していたし、若い頃は騎士として活躍していたのかもしれない。
「それなら背後をとられても納得ですね」
予想でしかないけれど、ストンと心の中に落ちる。
イーラスのことは何も知らないけど、こうして想像するだけでも楽しいような、嬉しいような、ふわふわとした初めての感覚になる。
『今日はマギーがいないから助かるよ』
ふいに脳裏に浮かんだ声。
落ち着きを含んだ渋い声は耳に触れるだけで心がほわんと温かくなると同時に、恥ずかしいようなくすぐったい気持ちがじわりと広がる。
そこにバケツがガチャと音をたてた。
「……ハッ! 今は掃除しなければ」
甘い感情に浸りかけていたティリアは意識を現実に戻し、掃除をするべく隣の部屋のドアを開けた。




