12 初めての感情
その夜。
ティリアはイーラスの客室にあるベッドの中で今日のことを思い返していた。
街を歩く中で触れた腕の逞しさ。ふわりと鼻をくすぐるシダーウッドの香り。触れたところから伝わる温もり。そして、知識と教養の深さ。穏やかで渋みのある声で宝石の説明をしていた時の凛とした姿。
それだけでなく、カフェでは山の話から他国の珍しい話まで尽きることなく様々な雑談をしてくれた。その表情が脳裏から離れない。
他にもさりげなく自分を気遣ってくれて……
「どうして……」
思い出すだけで胸がキュッと苦しいような嬉しいような複雑な気持ちになる。
初めての感覚に戸惑いながらティリアはシーツを握りしめた。
実家にいる頃から国のため、領民のため、と自分を律してきた。その結果、我慢することが当然となり、感情を抑えて生活しても何も感じなくなっていた。
その結果、学園では氷の令嬢と呼ばれることになったのだが。
それがイーラスはティリアの内心を見透かしたように声をかけ、頼るように誘導してくる。
普段なら他の人に同じことを言われても遠慮するし、頼ることはない。だが、イーラスに対してだけは嫌ではない自分がいて……
初めての感覚に心が追い付かない。
「とにかく寝ないと。寝不足な顔なんて見せられません」
これまで人からどう見られようと外見を整えようと思ったことはなかったのに、イーラスの視線は気になる。赤茶色の長い前髪から覗く黄金の瞳。柔らかく優しい中にある深く底の見えない色。
触れてはいけないような、触れたら戻れなくなるような、危うさと不穏さがあるのにどうしても気になる。
「……ここにいられるように頑張らないと」
それはずっと命じられるまま動いてきたティリアにとって初めて抱いた感情。
(ここに居たい……できれば、もっとイーラス様のそばに……)
ティリアはこれまでに感じたことがない気持ちを抱えたまま眠りについた。
~~
「おはようございます」
翌朝。朝食前に庭へ出たティリアを大きな犬たちが迎えた。
「わふっ! わふっ!」
「わん!」
「バウッ!」
軽い鳴き声とともにボールのように跳ねながらふわふわと毛を揺らす。季節の変わり目のせいかボワボワな毛が顔を覗かせており、煩わしそうにも見える。
その姿を眺めながらティリアは無表情のまま持っていたブラシに視線を落とした。
「今日はブラッシングをするように頼まれたのですが……それより、シャンプーをしましょうか? 今日は天気が良いのですぐに乾くと思いますし、スッキリしますよ?」
「キャン!」
「くぅーん……」
シャンプーという単語に悲痛な泣き声とともに犬たちが一斉に尻尾をまるめて下がる。
ふさふさの尻尾を股の間にピタリと収めてプルプルと小刻みに震えるほど。
「……そんなにシャンプーがお嫌いですか?」
不思議そうに首を傾げるティリアに犬たちがアゥーンと甘えるような声で訴える。
その姿に白銀の髪が仕方ないと揺れた。
「では、今日はブラッシングだけにしましょう」
「わふっ!」
ペタリと下がっていた尻尾がピンッと立て、左右に盛大に振りながら犬たちが駆け寄る。
「まるで私の言葉がわかっているみたいですね」
その言葉に犬たちがピクリと跳ねて動きを止めて顔を見合わせる。
だが、ティリアはそのことに気づかず芝生のに布を広げた。
「では、ここでブラッシングをしますので寝てください」
先程の言葉を気にしているのか犬たちがおずおずと戸惑うように動かない。
その様子にティリアが首を傾げた。
「どうかしました? 布の上はお嫌いですか?」
そう呟きながら芝生に敷いた布の感触を確認するようにポンポンと叩く。
その顔は無表情ながらも犬たちが言うことを聞くと疑っておらず。
「わんっ!」
狼に似たグレーの大きな犬が布の上に転がった。
「では、ブラッシングしますね」
軽くグレーの手を撫でたティリアは迷うことなく首元から背中でブラシを滑らせた。
普通なら首周りは皮がたるんでおりブラッシングしにくいのだが、ティリアは左手で首元の皮を固定して、慣れた手つきで背中へとブラシを動かした。
それによって固い毛の下にある柔らかな毛までごっそりとブラシに絡まり抜けていく。そもそも、ここの犬たちは警戒心が強いため普段はこんなにおとなしくブラッシングをさせることがないため余計に毛が溜まっていた。
そのため、あっという間に毛玉が山のように積み上がっていくのだが、まだまだ毛が抜けて行く。
終わりの見えない作業だが無表情のまま黙々と手を動かすティリア。
その下では、ティリアのブラッシングの気持ちよさにうっとりと昇天しそうな顔をしたグレーの犬。
その表情に他の犬たちが威嚇をするように頭を低くしてグレーの犬を囲む。
「バウバウ!」
「ヴゥー!」
「ガウ!」
グレーの犬を囲んだ他の犬たちが交代しろと言わんばかりに吠える。
だが、グレーの犬にはまったく効果がなく悠然とブラッシングをされたまま。むしろ、いいだろ? と言わんばかりに目を細めて優越感を漂わす。
その様子に嫉妬した他の犬たちがますます苛立ち鼻先にシワを寄せて吠える。
威嚇する大型犬に囲まれて恐怖を感じてもおかしくない状況だが、ティリアはブラシについた大量の毛をゴミ袋に入れながら穏やかに犬たちへ声をかけた。
「みんなブラッシングがお好きなんですね。順番にしていきますからお待ちください」
「わふ!」
その一声で犬たちがお座りをしておとなしくなる。
自分の前を囲むように座った犬たちに紫の瞳が瞬き、それから無表情だった口元が少しだけ緩んだ。
「みなさん偉いですね」
「わん!」
褒められた犬たちが得意げな顔になり、おとなしく順番を待つ。
こうして次々と手際よく犬たちのブラッシングをしていくティリアはふと故郷を思い出した。
「そういえば、そろそろ羊の毛刈りの時期ですね」
貴族教育の合間にしていた家畜の世話。
しなくてもいいと言われたが動物たちと触れ合う時間は癒しにもなっていた。そもそも辺境のため人手は常に不足しており、掃除や料理など使用人の仕事も自然と手伝っていたし、それが気分転換にもなっていた。
だが、王都に来てからは蔑みの声と視線のみ。そこから逃げるようにひたすら勉学に励んでいた。
「久しぶりにお掃除もしたいですね」
溜まった埃や汚れが自分の手で綺麗になっていくのは気持ちがいい。だが、この屋敷で掃除をしようとしたらメイド長のマギーが「私がやりますので」と毎回、やんわりと止められていた。
「飼育小屋の掃除はさせてもらえていますが、もっとできることをしたいですし……」
世話になっている恩を少しでも返したいティリアが悩んでいると、セバスチャンがやってきた。
「失礼いたします。本日はマギーが不在ですので御用がありましたら私にお申し付けください」
「マギーさんに何かありましたか?」
慌てたようにあげた顔は相変わらずの無表情。
だが、声音に心配の感情が含まれていることを感じたセバスチャンは安心させるように微笑んだ。
「いえ、隣街まで買い物へ出かけているだけで、夕方には戻ります」
「そうですか。わかりました、ありがとうございます」
ホッと胸を撫でおろしながら、ティリアはふと考えた。
(マギーさんが不在ということは……屋敷の掃除をする人がいないということでは? なら、私が代わりにお掃除をしても良いということですよね!)
良いわけではないが、その指摘をできる人がいない。
セバスチャンが去ったあと、ティリアはグッと握りこぶしを作った。
「本日のやることが決まりました」
「わふぅ?」
どこか嬉しそうに宣言した声に対して、犬たちは不思議そうに首を傾げた。
~~
朝食を食べ終えたティリアはさっそく雑巾とバケツとほうきを片手に動き出した。
最初は他の使用人に止められたが、手伝わせてほしいと懇願すれば、マギーほど強く言えない上に人手不足なため使用人たちは折れるしかない。ティリアの暴走を止めることができるのはセバスチャンや屋敷の主であるイーラスぐらいだが、二人は書斎で仕事中。
その結果、ティリアは屋敷の端から順に窓拭きから室内の掃き掃除まで手際よくこなしていった。
「次はイーラス様のお部屋ですね。この時間なら書斎でお仕事をされていますし、ササッと終わらせましょう」
そう言いながら屋敷の中で一番立派なドアノブに手をかける。
このまま他の部屋と同じようにドアを開けて掃除をするだけ……なのだが。
「……」
なぜか手が動かない。それどころか、胸がドキドキと駆け始めた。
しかも、何もしていないのに恥ずかしいような、いけないことをしているような気持ちになってきて……
「い、いえ。掃除をするだけですから」
ティリアはそう自分に言い聞かせてグッと手に力を入れてドアを開けた。




