母
それを見たときにまず思ったのは、ああ、たしかにこれは入室をとめられるはずだ、だった。
悲しくはなかった。
あとから思えば悲しんでしかるべきだったのだが、そういう感情は不思議とわいてこなかった。あまりにも一瞬にしてすべてが完全に壊されてしまっていたからかもしれないが。
狭い家の狭いキッチンは一面血だらけで赤いペンキをまいたよう。ガラスが割れ、蜂の巣さながら壁に小さな穴がいくつもあき、もとから散らかっていたけれど今や家具が引き倒され、あらゆる物が散乱し、さらにそれらが踏みつぶされたりして粉々になり、血と混ざりあっている。
人を解体した経験などなくとも、それでもひとりの人間の血量としては多すぎるのは子どもの頭でもわかった。死んだのは母さんひとりだけじゃないはずだと。
でありながら、水垢と錆で汚れたシンクの下棚にもたれかかって四肢を投げ出している母親しか見えず、単純に疑問に思った。ほかの人間はどうしたのだろう。
「やめなさい! 見てはいけない!」
背後から焦った神父の声がきこえる。ボロ屋ではあるものの、金もなく流れ着いた親子にこころよく住む場所を提供してくれた気のいい大家だ。
強く腕を引っ張り、それでも眼をそらそうとしないライオットの肩をつかんで、むりやり体を反転させる。
「忘れなさい! あんなもの、見てはいけない!」
ライオットを強く抱き締め、耳元で呪文みたいに何度も繰り返して言い聞かせる。繰り返せば、母親のむごい死体を目の当たりにした少年の頭の中を洗い流せると信じているかのように。
その無駄な行為を耳にしながら、もう息をしていないとはいえ、いちおう母親だったのを“あんなもの”と言うのは失礼じゃないだろうか、とライオットはぼんやり思った。神父はいつもくちをすっぱくして、隣人への愛と礼節を説いていたというのに。
でも、あんなものとしか言いようがないのかもしれないとも思った。もはや振り返らなくとも彼女の最期の姿は眺めているように頭に思い浮かべることができた。
強いちからで殴られたのか、顔の半分はうっ血して黒ずみ、陥没し、唇が裂け、下顎は頬の肉をひっぱりながら斜めに腫れ上がっている。
身体のあちこちを撃ちぬかれているさまは、ここからでは全身に赤い花が咲いているようにも見え、また洒落た模様の服を着ているようでもあった。まるで今から母親が立ち上がって、じゃあ、踊りにいって来るわ、とでも言ってくれるかのように。踊った瞬間、たぶん全身にあいた穴のせいで四肢のどれかがちぎれるだろうけれど。
その力なく投げ出された脚の腿のあたりに同じくちからなく手がのっている。脚のあいだ、股のあたりにあるのは、銃であった。位置からいって彼女の手から滑り落ちたのだと思われる。
母親が銃を持っていたというのをライオットは初めて知った。難なくつかいこなせたのだろうか。どこで習ったのだろうか。
そもそも彼女について家族や過去のこと、自身にまつわる一切をきかせてもらったことはなかった。彼女はどこで生まれたのか、どんな家庭だったのか、彼女の両親の職業は、兄弟姉妹の有無は。自分たちが転々と住処を変えているのもそれらに関係するのか。それから――ライオットの父親は。
ただ、語りたがらない雰囲気から、普段の会話の端々から、ろくな家庭ではなかったであろうことは何となく察しがついていた。教養もなく、学校にいっている子どものライオットのほうがものを知っているくらいだ。
言葉は乱暴で態度も粗野だったから、いい仕事にはつけず、掃除や給仕のいくつかを掛け持ちしていた。不器用で、料理も下手だった。オムレツにはたいてい卵の殻がはいっていたし、炒め物はかならずどこか焦げていた。味付けも適当だから、同じものでも毎回味が違う。洗濯は伸ばして干さないから、まず着る前にあちこち引っ張らねばならなかった。靴下のほころびを繕うのはいつだってライオットのほうが上手だった。
それなのに、妙なところで几帳面な人でもあった。つねに布巾を手に持ち、座るとき、手をつくとき、かなずそれで表面をぬぐってから触れる。食べるときもそうだった。パンだろうと澄んだスープだろうと、いつも母親の食べ物の中にはなにかがはいっているらしく、ライオットの目には見えない糸くずをよくつまみあげていたものだ。
「強盗がまた戻ってくるかもしれないから、しばらくはここを離れたほうがいいでしょう。あとのことはわたしに任せなさい」
神父の声が意識を現実へと引き戻す。
急かされ、通学につかっていたぼろぼろの鞄に最低限の荷物だけ詰めさせられた。そうして手を取られ、車を走らせ走らせ、日を何度もまたぐほどに長い時間をかけてようやくたどり着いた、粗末さは元の家と大差ないどこかの見知らぬ男の家。煙草と酒の匂いをぷんぷんさせた、いかにも粗暴な男の。
そのあとの生活は惨めなものだった。自分の面倒を見るだけでなく、男の世話までしなければならなくなったからだ。男は傷病により退役した軍人で、怪我の後遺症で痛みから逃れるために酒浸りであった。働いておらず、わずかな手当てだけがたよりでそれすらも酒と煙草に消えていく。素面のときはライオットに銃の扱いと戦い方を教え、それ以外は寝ているか飲んでいるかだった。暴力こそないものの恫喝は日常茶飯事だった。
今まで以上に世間との繋がりが断たれた生活。学校などとうてい行ける状態ではない。そもそも学校がどのあたりにあるのかすら不明だった。
あとの荷物はおくりますから。神父にそう言われたが、母親のライターなどわずかな物が一度届いたきりでそのあとはなかった。一時的な避難措置だと思っていたのが年を何度もまたぎ、あたかもライオットとのつながりはすべて消したかったかのように神父からの連絡も一切が絶え、迎えが来ることはないのだと諦めるのにそう時間はかからなかった。
強盗――そもそもが不思議だった。家の屋根は雨漏りがひどく、扉はどこも歪んでいて開閉のたびに金切り声を響かせていた。すきま風のせいで冬でも家の中で吐く息は白い。汚いぼろ屋はひと目で金目のものなどないとわかりそうであるのに、いったい何を盗みにきたというのか。
そして、何もとれるようなものがなかったから代わりに――母の眼球を盗んだのだろうか。眠っているかのように頭を垂れた、血の気のない白い顔の黒い穴。ぽっかりとあいた、両の眼窩。
あれ以来、思い出そうとしても、いつもライオットはあの黒い眼窩をさらした母の顔しか頭に浮かべられなくなった。生きていたころの母親の顔は塗りつぶされてしまった。
人の目を執拗に見つめてしまう癖もついた。
あたかも、あの日失くなった母親の眼球を探すかのように。




