人を外れるということ
覚えているかぎりの母親のこと、死んだときのことを初めてライオットは他者に伝えた。
それは、ライオットがずっと距離をおいてきた記憶でもあった。誰かに語ることはもちろん、思い出そうとしたことさえなかった。
ライオットが話をするあいだ、医者はひとことも口を挟むことなくただ黙って熱心に耳を傾けつづけていた。神から与えられる預言をありがたく拝聴する神職者のごとくに。
聞き終えたあともずいぶんと長いこと何やら深く考え込んでいる様子で、そうしてのち、やがて何かに思いいたった顔を見せ、最初の帰還者、とぽつりとつぶやく。
「だとするなら、門は開いたのではなく、開かれたということなのか……」
誰に聞かせるでもなくつぶやかれる独り言はしだいに勢いを増し、早口になっていったかと思うと、ふいに黙り込む。そしてまた独り言が繰り返される。自分の考えに沈み、ついさっきまで話をしていたライオットの存在も頭から抜け落ちてしまったらしい。
「もしや、狩人という言葉自体……異なる……我々の……ではなく――」
医者の口からぽろぽろとこぼれ落ちる短い語句は、思考のふるいにかけられたようにまとまりがなく、ライオットにはさっぱり意味がわからなかった。それは彼の助手も同じらしく、ひたすら隣でぽかんと口をあけ、呆けた面をさらしているばかりだ。
「調べなくては……解体……誰もたどり着けなかった真理に……」
熱のある言葉はやがて落ち着き、口調が変わっていく。
「やはり、いかなる方法を用いようとも人であるかぎり結局は変わらねばならんのだ真実はつねに隠されているものなのだから裏がわえいかなくては」
ふと音に違和感を覚えて見つめれば、滔々とこの世界の在りようを語っていた口が奇妙にひんまがりはじめていた。
「……ドクター?」
「わたしはみるなければならない」
「なにを診るっていうんだ?」
「ひんりをまなばなくればならないすれがわたひの……」
「おい、どうした?」
「ああ、まずい」
助手が雷に打たれたように身体を硬直させ、次の瞬間慌てて医者にむかって叫ぶ。
「先生、いけません! お願いですから、囁きに耳を貸さないでください!」
医者の視線は宙をさまよい、口はますます歪んでいく。歯を剥き出しにして、唇が裏返るほどに口を大きくあけ、ちろちろとなまめかしく動く舌は黒ずみはじめていた。顔の半分が風船のように膨れ上がっていく一方で、もう半分は蝋のように溶け、境が混ざり始める。
「先生、戻ってきてください!!」
助手の懇願も虚しく、今や医者は意味をなさない、妙に間延びした、言葉ですらないものを吐き出しているだけであった。それはもはや話すというより鳴くに近い。
「まさか、嘘だろ……」
思えば、結果の化け物は目にしていても、脳を乗っ取られ、人から外れていく過程をライオットが眼にしたのは初めてであった。
肉体が、存在が、変化していく。空気がうねり、闇がはいりこみ、手足が捻じくれる。人が人でなくなる。人間という属性が侵食され、あちらの世界に属していくのを肌で感じる。
ライオットがかの神父であったならば、神に背を向けた瞬間、と形容しただろう。見えざる手によってカードがめくられ面と面が入れ替わるように、押しつぶすような空気の波濤ですべてが変わった。まさに医者が人を外れた瞬間であった。
「そんな……せ、先生が……」
助手の絶望のつぶやきがむなしく響く。
小広場で遭遇した者にはまだ人の名残があったのに、目の前の生物に人間らしさは欠片もない。これがもとは医者であったなどと気付けるものはいないだろう。
首も顔も胴に埋まり、ゆるく屈曲した硬質の外殻に覆われた身体と、縦に裂けた腹部からのびるいくつかの節くれだった手とも足とも、もしくはその両方を兼ねているかもしれない紐のような付属肢。眼球は膨れ上がって眼窩から飛び出しかけているためかろうじて判別できるが、鼻口といった人間だったときの残滓らしき器官と推測できるものは、いかんせん貼り付いたように平面的なため、木目のようにはっきりとしない。
頭胸部の外皮はいくつものこぶと気孔を伴い、よく鞣した皮のように光沢を放ちながら、乾いた古い樹皮のように細かくひびわれ、さらに背部分にぐんと延びた後頭の頂点は凸部が熟れたザクロのように裂け、透明の膜で覆われた脳――まさに人間が脳と言われて一般的に想像する大小の溝を伴ったあの薄紅色の柔塊――をさらけ出している。その内膜、肥大した脳に触れる部分は見るからに柔らかな線毛に覆われていて、繊細な宝飾品を包みこむビロードのようだ。
一方で、膨らんだ頭部にくらべ、腹部以下は臓器があるのか疑問に思うほどに薄っぺらく痩せさらばえている。
その不均衡なバランスは、人であることを放棄しながらも貪欲に知識を求めることだけは諦められなかった、医者の執念めいたものを反映しているように思えた。
「そ、そうだ、研究……!」
助手が我に返ったようにつぶやく。
「せめて研究結果を……!! 先生の代わりに僕が学会に……!!」
「おい、馬鹿な真似はやめろ!!」
彼らにとって知識欲というのは命にも勝るものなのか。それともあまりの目の前の異常性に思考が混乱、麻痺して危険性を認識できなくなってしまったのか。
ライオットがとめる暇もなく、足元に散った記録の紙束に駆け寄った助手の頭に、蛇の舌のようにしなり伸長した医者の手が突き刺さる。頭骨を破り、易々と肉に埋まる。そのまま持ち上げられたことで、身体は鉤爪状に尖った先端に自重でいっそう深くめり込んでいく。肉屋の店奥に懸吊された食肉さながらに。
最初はたんに刺し貫かれたのだと思った。先だけが返しのように緩やかに曲がっていたから、あの肢は攻撃用器官なのだと。しかし、節だった手が波うっているのを見て、どうやら中は管状になっており何かを吸い上げているらしいとわかった。
問題はその“何か”で、血かと逡巡し、しかし次の瞬間、白目をむいた助手のまぶたが激しく痙攣しているのに気が付き、そうではないことを察した。
頭蓋の中身が――脳髄がすすり上げられているのだ、と。
根が水を吸い上げるように。
「しぇんしぇ、ひる、う……ぃあな……」
助手は脳を言葉のとおり徐々に失いながらも最初こそ意味をなさない喃語のうめきを上げていたが、その声もすぐに静かになった。
ずぞぞ……、と残留物をもれなく吸い上げる音をたててから、最後に管が引き抜かれる。解放された助手は人形のように床に崩れ落ちた。重たい身体に比べ、頭部だけが床に当たって軽く何度か跳ねたのがいやでも中身を想像させる。
この常軌を逸した世界に徐々に慣れつつあったライオットもさすがに吐き気をもよおした。
知識への渇望からなし得た結果なのであろうか。だとしても、人間の倫理が通じない化け物ならまだしも、元は人であったものが人間の脳をすするなど。
それは人が人を食らうよりも数段忌まわしい行為に思えた。
今までずっと、外側から非人間的な悪意に近い強制的な干渉によって無理やり存在を変えられるのだと思っていた。ゼロから作り直されるのだと。子どもが、積み上げたおもちゃの積み木を崩し、また一から別のものを作り上げるように。
だが、違うのだと気がついた。
それは内側から、人を忘れた、たしかに己の中からやってくる。姿態が人間を外れようとも、その本質はまぎれもなく、かの医者であるのだ。あれはまちがいなくおぞましい人間性の現れなのだ。
かつて医者であったものが、ゆっくりと振り返る。ぐるりと虹彩のない目が動き、ライオットに狙いを定めている。おそらくは、ライオットの脳に。ライオットを次の対象と定めているのは明らかであった。逃げたところで追ってくるだけだろうとライオットにはわかった。
そしてペトロヴァも言っていた。こうなったらもう戻れないのだと。
「……上等だ。やってやる」
果たして先に人の道を外れたのは、存在かその精神か。
鞘を抜き、武器を構える。
戦いの合図のように、放射状に手足が伸びていっせいにライオットの脳髄を狙う。先端の爪はともかく、肢は柔軟で多少は伸縮性があるらしい。内旋しながら、身をかわしたライオットを追ってくるその柔らかな動きには関節がないことが見て取れた。おおかた筋肉のようなもので支えられているのだろう。骨を砕いて動きを止めることは無理そうだと判断し、目を凝らし、動きに予測をつけ躱すことに集中する。
やがてライオットの視線がある一本を捉えた。機を逃さず、叩きつけた刃を押し下げるようにして斬りつけるが、肢はぐねりと屈曲して力を逃がし、切っ先をくぐり抜けてしまう。
さらにそこへ別の肢が襲いかかる。
ライオットは舌打ちし、その場から飛び退った。いましがたまで立っていた場所にいくつもの爪が打ち込まれていく。
自在に動く複数の肢というのはなかなかに厄介であった。さらに触手のような柔軟性が剣の威力を逃がし、霧散させてしまう。
ではこちらはどうだと絡み合い、もつれ合うのを期待して複数の診察台のわきを縫うように駆けてみたりもしたが、やはり元人間、相手もそこまで愚かではなかったらしい。
一本、せめて二本ならまだしも、それ以上となると複数人を相手にしているのとさほど変わりはなく、常に周囲に目を走らせ、位置と場所を確認しておかねばならなかった。斬ろうとしてはその柔軟性に手こずり、そしてすこしでも手間取っていれば、別の方向から別の肢が突っ込んでくる。不規則な動きで翻弄し、執拗にこちらの頭部のみを狙ってくる。まったく余裕がない。
一進一退の攻防が続いた。
やがてライオットの脳がなかなか手に入らないことに焦れたのか、奇声をあげ、苛立たしげに大きく振られた肢が診察台やそのそばにあったものを根こそぎなぎ倒していく。
輸液支台が倒れて転がり、机の上の硝石やいくつもの薬瓶、坩堝に蒸留器、フラスコやらが弾かれ、次々に床に落下し砕け散った。さらに距離を取っているライオットの周囲に、巻き取った薬品瓶が雑に投げつけられる。
それらが避けられぬほどライオットは軟弱ではない。
しかし、ぶつかって割れた瓶の中身が壁面を伝い落ち、床に広がった薬品と混ざりあったとたん、きつい化学臭とともに辺りに白い気体が舞い上がり、足がとまった。息を止めるのが間に合わず、わずかに吸ってしまった鼻腔がかっと熱くなり、灼けた気管がひりひりと痛む。やまない咳と強烈な刺激に目がうるみ、涙がこぼれ、白い視界がさらに滲んだ。
「これが狙いだったのか!?」
革鞭のようにしなった鉤爪がライオットを捉えようと煙を割って飛び込んできた。
一本、二本、と紙一重で躱したところに別の爪が弧を描きふたたび襲いかかる。それをさらにつづけざまに剣で弾いたところに、もうひとつの肢が下から待ち構えていた。今までとは異なり頭ではなく、腹に向かって。
「しまった……っ!!」
避けきれるか――いや、間に合わない。
思考だけが途方もない速さで回って、一瞬の内に疑問と答えをはじきだしていく。
あれに腹を貫かれたら――それほどの太さはないため、体を捻って位置さえずらせば致命傷はさけられる。
しかし、やつは微塵の興味もないであろうハラワタを啜るだろうか――やるだろう。
それでライオットが倒れるのならば。そのあとでじっくり余すことなく脳髄を吸い上げればいいだけのことなのだから。
刹那の思考の答えが、今まさに現実と重なろうとしていた。
とっさに歯を食いしばり、柄を強く握り、腹に力を込める。そのていどで防げるはずがないとわかっているのに。
「……っ!!」
ひび割れた鐘に似た医者の歓喜の笑声とともに衝撃がライオットの腹をとらえようとしたまさにその瞬間、貫くはずだった鈎爪が消失した。
同時にライオットの白い視界を横切った、漆黒の塊。つづいて響く、ぐるる、と聞きなれた唸り声。姿を確かめずともわかった。
飛び込んできた扉から空気が入れ替わり徐々に視界が晴れていく。
医者は確実にライオットを捉えたと思い、脳をすすることにしか考えが及ばなかったのだろう。虚を突いた犬の一撃は完全にその爪を捉えていた。
鋭い牙でもってちからを逃がす隙すら与えられず噛み切られた肢の先が、びくびくと波打ち、体液を撒き散らしながら床に転がっている。
もはや用をなさないその切れ端には目もくれず、犬は身を低くして近すぎず遠すぎずの距離で前後左右と無尽に位置を入れ替え、隙を見ては爪を食い込ませ、あるいは脛骨を噛み砕いたときのように大きな牙で食らいつく。じつに獣らしい軽い身のこなしで翻弄していく。
対して相手も、犬にしては大きいとは言え人間であるライオットよりは小柄な分、狙いをつけづらいからか犬の脳髄には毛ほどの興味もないからか、はたまたあとすこしでライオットの脳をすすれたものを邪魔をされ苛立たしさが募るのか、動きが雑になってきていた。
犬を狙う一本をライオットが手にかけるのは容易かった。逃げられぬようはっしと掴み、今度こそ斬り落とす。医者は動くたびに傷口から血を撒き散らしているが、痛覚がないのか、痛がる素振りも声を上げる様子も見られない。
ならばとライオットはそのいきおいのまま弱点であろうと狙いをつけた本体へと迫った。
金属の刃が張り出した頭胸の一部を突き破る。蜘蛛の巣めいたヒビののち、一部が砕け落ちた。
肢を斬られたときと同じく、痛みの反応は見せなかった。ところが、欠けた頭からパイの中身がこぼれるように脳の一部が転げ落ちたとたん、弦がこすれるように空気を震わせて、医者が反応した。それは悲鳴だった。眼をつむって聞いたら、木をこすり合わせた音と答えていただろう。非人間的生物なりの、悲哀の震えを帯びた、悲しみと苦悶の声であった。
戦いのさなかだと言うのに突如こちらに背を向け、ライオットも犬もそっちのけで残った腕を使い、脳の破片を拾い集めはじめる。すすり泣きにも似た声を上げて。
懸命に己の一部をかき集めているその様子は、壊れてしまった大切なおもちゃを小さな子どもが泣きながら拾い集めるようないじましさがあった。
もはやライオットたちは相手の意識から完全に締め出され、存在していないようである。剣を構え直した音にも反応を見せない。
とどめをさすのに、さほどの苦労も要さなかった。
かつて医者だったものは絶命した。
くわえて助手が動き出すこともなかった。さすがに脳がなくては囁きも潜り込めず、生き返ることもできなかったらしい。
「……くそっ、何なんだこの世界は!!」
勝利の高揚感も生き残れた安堵もない。ただ虚しさだけが残る。
疲れ果てたライオットは、カリカリという音で我に返った。隣へと続く扉をしきりに犬が前脚で掻いている。
「どうした? そこになにかあるのか?」
重い足を動かす。鍵はかかっておらず、扉は簡単に開いた。
どうやら隣室は荷置きとして使っていたらしい。
ライオットが蝋燭を持ってきて照らすと、遺体袋にまじっていくつもの箱や瓶が積んであるのが見えた。
最初は、まず目についたのが遺体袋だったから、さきほどの妊婦のように残念ながら助からなかった人の亡骸を保管している部屋なのだと思った。
そのために見るのはためらわれたが、それでも奥の箱から響くどんどんと叩く音にもしや息を吹き返した人がいるのかもしれないとライオットはのぞき込んだ。
その飼育ケースの中では狂ったようにネズミが走り回っていた。腹いっぱいに裂けた第2の口から粘液のよだれをしたたらせ、互いを貪り合っている。
となりのケースにいるのははもはや元の形がわからない生き物であった。普通に考えればあり得ないことなのだが、脊椎が剥き出しで、それなのに元気に跳ね回って――手足がないためそう動くしかないのであろう――いるのだ。
次を覗けば頭を割られ、おそらく医者にまたは助手によって昆虫の標本のようにはりつけにされた、人を外れたものたちがいた。防腐剤なのだろうか。薄紫の錠剤をありとあらゆる穴に詰め込まれている死体もある。
まだ死んでいないとおぼしき、ピンク色の中身をさらけ出しぴくぴくと痙攣しつづけている肉塊もあった。保存液の中を泳ぐ赤黒くつやつやとなめらかな臓器、寄生されて幾重にも折りたたまれ重ねられた腸、筋張って脈打つ紫色のなにかに浸潤されつつある器官。
言葉にするまでもなく、まともなものはひとつもない。すべてが口にするのも憚られる、酸鼻を極めたものばかりだ。
ひとつひとつに丁寧にラベルまで貼ってあるところからみるに、ここにあるのはおそらく持ち込んだ実験用サンプルと、元の世界にもちだして実験するためにつくりあげられたおぞましい標本たちなのだろう。
胸が悪くなる光景でしかないが、厳重に保存されているようすから彼らにとっては宝にも等しかったことが見てとれる。
全けき人でなければこの世界を出ることはかなわないときいていたが、肝は持ち出せるのだから、実際には一律的ではなくなにか細かな条件が付随するのだろう。知りたいとも思わないが。
「……医者が聞いて呆れるな」
におい以上の不快さにライオットは顔をしかめ、言葉をはきだす。
なんという冒涜的な罪深い行為。ここでおこなわれていたのは診察でも治療でもなかった。非人間的としか言いようがないのに、間違いなく人間の手でおこなわれたのが、あまりにも忌まわしい。
吐き気をもよおす光景に医者への僅かに残った同情も消え失せた。
犬はひとつひとつをじっくりと嗅ぎ、いくつかの前で吠え、それから拳を握ったまま立ち尽くすライオットのもとまで戻って指示を待つように顔を見上げた。銃器工に持って帰るのはどれにしますか、といった具合に。
ライオットは歪で無邪気なその顔を見つめ、拳をゆっくりと解き、ただ首を横に振った。




