蟲魚
ひとまず目当てのものは手に入れ、目的は果たした。
あの刺激臭を思い出し、顔をしかめ、ライオットはふところに漂白剤をしまう。入手はしたが、できれば厄介にはなりたくない代物である。製作者も好ましからざる人物だった。どちらも正直、信用しがたい。
いったん銃器工の工房へ戻り今後の相談をしてみるかと考えつつ、犬を従え角を曲がったところで、すこし先の通りを何かを追いかけるようにひとつの影が走り抜けた。首元の赤いネッカチーフ――見間違いでなければペトロヴァである。
「急いでるみたいだったが、なにかあったのか……?」
一緒についていくことは拒否されたものの、会話自体が禁止されているわけではないはずだ。
事前に銃器工からも、基本的にはこの世界で人間同士は争わないよう定められていると聞いていた。戦っていいのは、派閥ごとに存在する禁忌を破られた場合と、最初にライオットが会った≪人を外れたもの≫のように脳をのっとられて変貌してしまった場合だけらしい。
“まぁ、狩人同士の対人戦はある意味バケモンを倒すより苦労するから、多少ムカついても互いに見て見ぬふりをしましょうってのが本音だろう。貴重な資源をくだらん争いに割く余裕はどこもないってことだな”
そう銃器工は締めくくっていた。
「どうするか……?」
無視してもかまわないだろう。彼女はこの世界に手慣れた様子であったし、対してライオットは人のことにかまけていられるくらい余裕があるわけでもない。万が一のための薬も手に入れた。あとはヴォルケーノのところに戻って門が開かれるのをおとなしく待つのが、もっとも賢明な判断だ。
それは重々理解しているが、彼女がずいぶんと焦っていたのが気にかかる。
「……銃器工の情報の礼もまだだし、とりあえず、あとを追ってみるか」
追いついたのは医者がいたところから数区画離れた、時計塔前の大通りだった。ヴォルケーノがいた近くの古い教会の尖塔と肩を並べられるほどの、巨樹のような時計塔で、月の光の一部を暗く切り取って道路に影を落としている
「ペトロヴァだな? 俺は――」
いくつもの染みが広がる道の段差に片足を掛け視線を周囲にとどめたまま彼女は片方の手のひらをこちらにむけて、もう一方の手の指を1本、口許に当てる。静かにしろという仕草だ。ライオットはすぐさま口を閉じ、同様に耳をすませた。
静寂の中に空気を漕ぐかすかな音がする。しかし、距離がある。かといって、そう遠くでもない。
ふいに月の光が翳り、背後で小石が転がった。風は吹いておらず、誰もそこにいないはずなのに。
と同時に、周囲を探るライオットの耳に届く、危険を知らせる焦燥にかられた犬の吠え声。おぼろげに意を理解したライオットはすぐさまペトロヴァに伏せろと叫ぶと、自らも腹ばいになった。
直後、砂塵を巻き上げ、すぐ上を大風が強く通り抜けていく。それとともに囁きが雨降るように耳に押し寄せ、遠ざかっていった。何かが、それもそうとう大きなものが頭上を過ぎていったのだとわかった。
ぺったりと腹を地面につけていた犬が身を起こしたのを確認し、ライオットも立ち上がる。
振り返り、風が抜けていった方向を急いで確認するが、何の姿も見当たらない。しかし、いないわけではないのはわかっていた。嫌な気配――何者かに見られている、狙われているという感覚は消えていない。
「見えないのは俺だけなのか?」
そう尋ねたのは、この世界ではそれぞれに見ているものが違うのかもしれないという医者の言葉が記憶の片隅に残っていたからだ。すぐさま冷静なペトロヴァの共感の声が返ってくる。
「きみの脳の問題ではないから、安心し給え。わたしの眼にも映ずるものはない」
刹那、犬が警告を促すようにふたたび強く吠えた。空に向かって。
「――上か!?」
ライオットの言葉と同時に、ペトロヴァが駆け、跳躍する。ゆうに3階ぶんの高さをとちゅう壁面に一度足を、それもつま先をかけただけでのぼりきってしまった。犬が示した先、空気がわずかに陽炎のように揺らいでいるその場所めがけて身を躍らせ、剣を突き出す。
キンッと硬いものが硬いものを弾く音がした。つづいてギチギチと錆びた歯車が噛み合うのに似た音が響き、景色がゆるむごとくに歪んで姿を現すものがある。
黒い夜を悠々と泳ぐその異形は、巨大な魚のようでもあり蛇のようでもあった。身体はセロファンのごとく輝いており、鋭く尖った三対の大きな鰭を――とはいえ六基の内、最後の一対は退化したように半ば尾と同化している――そなえている。
それでいて顔は蟲のものである。一瞬、魚が蟲の仮面を被っているのではないかと疑ったほどだが、きしんだ音はたしかに扁平な顔の口器についた顎から発せられていた。目は正面と左右に複数ついており、それぞれが独自の動きをして周囲を見張っている。
皮膚の表面のひびは割れているのではなく、鱗によるものらしい。ペトロヴァの剣が固く弾かれる音がしたのはそのせいなのだろう。
決して目をそらしたわけではないのに、まばたきをした数瞬ののち、浮かんでいた巨体の輪郭が崩れ、ふたたび消えた。
「どこに行った?」
気流の変化をいち早く感知した犬の鋭いひと鳴き。警告のままにライオットが身を返すすそばをなにかの圧が通り過ぎ、遅れて風が渦を巻く。
見えないと言っても存在そのものが消えたのではなく、周囲の景色に体色を溶け込ませているだけらしい。動けばやはりわずかににじみのようなものをとらえることができた。今度こそ、そのごく僅かな景色の揺らぎを見逃さないようにと目で追うが、そもそもが暗い夜である。識別するにも限界があった。
「どこだ……どこにいる」
また犬が吠える。
大気が震え、ぎりぎりで躱したライオットからおぼろな輪郭が遠のいていく。しかし、旋回してまたすぐに襲ってくることは考えずともわかりきっていた。
鉈の柄を強く握りしめ腰を落とし、身構える。位置を見定められぬのなら、ライオットにとって仕留める機会はあちらが近づいてきたときしかない。
頼りの犬の合図。
すぐ横を目に見えぬ塊が通り過ぎ、それに合わせて力強く両腕を振り、薙ぎ払う。その一振りは異形を完全にとらえ、横腹を切り裂くはずであった。しかし固い鱗は堅牢な鎧と化して刃を拒み、ただ互いをこすり合わせるだけとなってしまう。ぶつかりあった摩擦で火花が散り、不快な金属音の連続が耳を突く。固い抵抗にわなわなと腕が震える。
気配が離れていくのを感じ、ライオットは小さく舌打ちをした。
手応えからまったく傷をつけられなかったことだけは理解できた。厚みのある大角鉈のちからをもってしても、表皮を破ることはかなわなかったのだ。
「くそっ、体は無理か……」
一瞬の確認でしかなかったが、腹のほうまでびっしりと鱗に覆われていて、胴体のどこにも弱点となるような柔らかな箇所はなさそうだった。となると攻撃できる箇所は限られてくる。
「目か口ならなんとかいけるか?」
ただし、どうやってという問題は依然残ったままであった。ペトロヴァを振り返り、己の手元の無骨な鉈と彼女の貫けぬ細身の剣とを見比べる。
ライオットの武器は口にするまでもなく、突き込む用途に適していない。かといって運よくペロトヴァの剣で異形の口内を突けてもあちらにとっては小枝を呑むようなものであろうし、目玉も鱗まではいかずとも表面は硬い――子どものとき昆虫の脱皮を見て、目玉も外骨格で保護されていることを知った――はずである。
その渋面から、彼女も異形がすれ違うさい、鱗以外に有効な箇所はないかすでに試したらしきことが伺えた。犬が決して飛びかからないのも、己の牙と爪は通じないことを本能で理解しているからなのだろう。
もっと対抗できそうな頑丈なものはないか。外殻を破れそうな、巨大な鉄串とまではいかずとも、折れた鉄柵とかそういった類のものが。
代替物を探して一歩退がったライオットの足に、ぐにゅとなにかを踏んだ感触があった。
「なんだ!?」
ぎょっと足元を見てみれば、ライオットの靴の下で白く細長い蠕虫がうぞうぞと退路を塞ぐように集っていた。一匹一匹は蛆のようでありながらはるかに大きく、生白くむくんだ太い指にも似ている。それらが複雑怪奇な知恵の輪のごとく絡まりあって、人の顔ほどもあるひとつの蠢く塊となっていた。
その大きなものがほぐれ、ライオットの靴の下にいまだある一部を離し、無事な部分だけが這うように逃げていく。残された側は足をどけてもライオットに向かってくることはなく、子どもが親に向かって必死に手を伸ばすかのごとくにしばらくはくねっていたが、やがてぴくりともしなくなった。
困惑するライオットにペトロヴァが落ち着いた様子で告げる。
「気にする必要はない、ただの≪漁り屋≫だ」
「なに?」
「臆病な死肉漁りだ。安心し給え。わたしたちが生きている限りは襲ってこない」
「それってつまり……」
その言葉のもうひとつの意味をただしく汲み取れたライオットに彼女はあたりを眼で指し示し、笑う。
「どうやらこやつらは、わたしたちが死ぬほうに賭けているらしい」
ペトロヴァにつられライオットも周囲に視線をずらすと、すこし離れた建物の影から、あるいは壁に張り付いて、こちらを取り囲んでいるいくつもの蠢く白い塊に気がついた。まるで試合の勝敗を見届けにきた観客のようにライオットたちの死を願い、でたらめに指を動かしながらご馳走にありつく瞬間をいまいかいまかと待ちかまえている。
応じるようにガチンガチンと銅鑼のごとく大顎が上空で打ち鳴らされる。大気を揺らし、それがふいに角度を変え、突風が吹きつける。
「……っく!!」
今度もなんとか躱すことはできた。
しかし犬が知らせてくれるとはいえ、やはり見えないのは不利だった。肌で感じる空気の流れや、漕ぐわずかな音を頼りにライオットもなんとか位置を読み取ろうとするのだが、むずかしい。気がつけば近くまで寄られている。躱しつづけるにも限界がある。
早くなにか手段を講じなくては。
ライオットの焦りを読み取ったのか、漁り屋が蝶のはためきに似た動きでじりじりと近づいてくる。いつでも飛びかかれるように身構えている。
やつらはライオットたちが回遊する異形に負け、力尽きたとたん群がって、その指で皮膚を引き裂き、肉に潜り込み、血を撒き散らし、内蔵を引きずり出して骨まで貪るのだろう。周囲の染みの意味をここにきて理解した。今までとおってきたすべての場所で死体のいっさいを見なかったわけも。
「気を散じるな!!」
ペトロヴァの叱責と切迫した鳴き声でライオットは我に返った。気配はすぐそこで、曲線を描き滑らかでつやつやと輝く大顎、洞のようにぽっかりと開いた口の内部が目の前に迫っていた。
とっさに鉈を横に寝かせつつ前に突き出し、噛ませることで喰われるのをかろうじて防ぐ。
威嚇するように鳴っている大顎は内側に入ってしまえば、ライオットを捕らえることはかなわない。かわりに額を預けられるほどに化け物の顔に近くなってしまったのだが。
熱い息が顔にかかる。
いまや口器のひと節ひと節、小顎のひとつひとつの牙、それが粘液の糸を引きながら鉈を噛んでいるのがはっきりと見える。カチカチと小音を鳴らし、蜈蚣の足さながらにライオットを獲ようと刃の上で蠢いている。
喰われてなるものかとライオットも柄と鉈の背に手をあてがい、なんとか踏ん張る。しかし、流されるように体ごとうしろに押しやられたかと思うと、ふいに前ではなく足もとの抵抗が失せた。
異形が鉈をくわえたまま、ライオットごと上昇しだしたのだ。
「連れて行かれるぞ、手を離せ!!」
ペトロヴァの警告と犬の心配の吠え声が重なるが、いま手を離せばかくじつに武器を失ってしまう。それは畢竟、死ぬことを意味する。ぐんぐんと地上が遠ざかり、心配げにこちらを見つめる彼女と犬の姿も視認できないほどになっても、ライオットはせめて落ちないようにしっかりと鉈を握る手にちからをこめるほかなかった。
風が頬をなぶり、体を揺らし流れていく。もはやどこかの建物に飛び降りることも叶わぬ高さ。あの時計塔ですら水底の水草に思えるほどだった。
スピードがあまり出ていないことだけが唯一の救いで、しかし、このままぶら下がり続けていてもいつかライオットの体力が尽きて終わるだけである。
手立てのないライオットの耳に、さらに風を切るのとは異なる嫌な音が届いた。
それは鉈から発せられていて、のみならずライオットが見ている前で刃に毛細血管のように筋が走ったかと思うと、無骨な姿からは想像できぬほど繊細な音をたて、砕け散った。
「おい、冗談じゃないぞ!?」
刃がくだけ、支えを失い落下していくライオットを大顎がすくい損ねる。ライオットの頭上をかすめるように超えていったかと思うと、空で身を捩りふたたび滑空してくる。一対の巨大な顎が餌を歓迎するかのように開かれ、その先の舌のない内側ではさらに小さく連なった関節肢が揃って、今度こそ逃してなるものかと蠢いていた。
「……っ!!」
喰らおうと迫る口器を咬合に屈した鉈で突きかえし、身をひねり、気がつけばライオットはその背に乗り上げていた。
鱗は注意しなければ滑り落ちてしまいそうなほどにつるつるとしており、硬質でひんやりとしていた。淡く輝いていると思ったのは、わずかに光を反射しただけであり、いまはそこに立つライオットの姿を重油のような表面におぼろに映し出しているのみ。
ひとまず喰われることは免れたが、状況が好転したわけではない。今もライオットを振り落とそうとする筋肉のうねりが鱗の下に感じられる。
「くそっ、どうしたらいい」
鉈を拾い上げたライオットの目に鈍い光がちらつく。
「……何だ?」
あの頼もしかった鉈の刀身は細かなヒビに沿ってはらはらと欠け、身幅は約半分ほど、砕けた部分が山の稜線のようになってしまっている。その刃先に何かがついていた。黒々とした輝きを放っているそれは、どうやら鱗の欠片であるらしい。
さらに足元を確かめると、鉈が落ちた箇所にはたしかに鱗の表面に引っ掻いたような傷跡がついていた。
「まさか……」
ためしに鱗の隙間から突き出ている鰭の根本にあてて、強く手前に引いてみた。返ってくる、今までとは異なる手応え。
極小の刃が目にはわからないほどの細かな傷をつけ、そこをとっかかりに引き裂いていく。さらに力を込めて押し引くと、硬い表面をゴリゴリと削り、ぶちぶちと中の繊維状の筋が切れていく音がした。
雑な鋸歯は意外にも外殻を削りとることに適した姿に変形したのだ。
「……やってみるしかないか」
頭部に回り込み、蟲の頭と鱗の身体の境に刃を当て大きく動かしてみる。響く金属の不協和音。
ぎざぎざの小さな刃たちが硬い甲皮に溝を刻んでいく。削られ、ひび割れ、粉となって散っていく破片の中で、ライオットは安売りの肉を扱っているような雑な手付きで鋸歯をひたすらに前後に動かしつづけた。
徐々に沈んでいく刃はやがて厚い甲殻を破り、内部に達して肉を食み、頭と体を繋いでいる筋を断つ。ようやく何をされているか気づいたらしい異形が逃れようと荒々しく身を捩らせるが、今更であった。
ライオットを振り落とそうと異形は激しい水流にもまれたように縦に横にとでたらめに泳ぎ回る。その暴れまわる姿に確信を得て、ライオットはいっそうの力を込めて手を動かし続けた。やがて伝わる重い手応え。鱗よりは軟で肉よりは密度の濃い、なにか。
異形が顎をすり合わせ、今までにない音を出す。それは悲鳴にも似ていた。
確信を得、引き抜き、今度はちからの限りそこをめがけて突き込む。細い刃が錐刀となって肉に深く深く突き刺さっていく。
「これで、どうだ!」
仕上げとばかりに柄頭を足で蹴りつけ、刀身のすべてをめり込ませた。
わずかな痙攣のあと、弛緩しぐらりと巨体が傾ぐ。
「やったか……?」
勝利に安堵したのもつかの間、身体がふわりと浮いて、ようやくライオットは己がどこにいたのかを自覚した。
とっさに深く刺さった柄の端を掴み、時計塔よりもはるかに上の高みから異形と共に落下していく。どこかに飛び移る隙もない。あっというまに巨体ごと激しく地に叩きつけられ、着地の瞬間、衝撃が体を貫き、ぐっと苦悶のうめきがもれる。さらに反動で身体が横に吹き飛ばされた。
異形の身体からも落下の衝撃で血やら腱やら臓器やらがはじけ、四方に散る。
壁に打ち付けられ転がったライオットにペトロヴァと犬が駆け寄ってくる。犬はライオットの顔を心配そうに覗き込んで鼻を鳴らしたが、一方のペトロヴァはそうとうの高さから落ちてきたライオットを目にしても焦った様子は微塵もなく、まず破裂した箇所から剣で異形を刺し貫いて死亡を確認したのちに向き直った。
「愚問であろうが、無事か?」
「……ああ、なんとか……い、生きてる」
壁に手をつき、震える足で立ち上がりながらライオットは答えた。太ももは痺れているし膝も笑っているが、化け物と異なり、ライオットの身体のどこからも骨や内蔵などは飛び出していない。
「俺は、どうして生きてるんだ……?」
ライオットは先程まで自分が立っていたと思しき、位置を見上げた。
巨体が多少は衝撃を吸収してくれたのだとしても、空から落ちたと言い換えても過言ではないほどの、本来なら、骨を折っただけでもまだ運がよかったであろう高さだ。
その衝突がすさまじかった証拠に、ライオットの墜落を待っていて逃げそこねた漁り屋たちが、直撃したわけでもないのに衝撃に押しつぶされて放射状にいくつも死んでいる。
「……新来を装っているのではなく、どうやらほんとうに知らぬようだな」
彼女は呆れとも感心ともとれる息をひとつ吐き、
「狩人は奴らに殺されるか脳をやられない限り、ここでは死なぬ……いや、死ねぬのだ」
ライオットの前に手をかざし、適当に拾った尖った石で真一文字に傷をつける。真っ赤な血が滲み、あっという間に手首を伝わって落ちていく。
その手を、濡れた指先の雫を払うように何度か振り、そうしてもう一度手のひらをこちらに掲げた。すでに傷は跡形もなく消えている。
「くそっ、手品を見せられた気分だ」
「奇遇だな、こちらもおなじだ。≪迷い子≫が狩人になるなど前代未聞だ。だが……」
言いながら血のついた石を粗雑に投げ捨て、
「前例がないからと言って存在しない理由にはならぬか」
そうつぶやくとペトロヴァは警戒を解いた様子を見せる。
そのうしろでは地面に落ちた骸から、犬がなにかを引っ張り出そうとしていた。てっきり使えそうな臓器でも見つけたのかと思いきや、そうではなかった。何やらライオットにはわからぬ塊を咥えたまま、犬はずるずると後退していく。
「今度は何を見つけたんだ?」
声をかけたライオットに向かって犬は誇らしげに尾を振る。
持ってきたのは、一振りの鞘付きの剣であった。どうやらあの異形の腹の中に納められていたものらしい。ペトロヴァもやってきて剣を目にするなり、手に取ることなくライオットに告げた。
「それはきみのものだ。受け取るといい」
「俺に?」
「武器が壊れてしまったのだろう? きみには新しいものが必要で、そして前の持ち主にはおそらくもう無用のものだ。置いていても、聖域が閉じれば消えてしまう。“勝者よ、汝、遺産を相続せよ”、われら狩人の決まりだ。今回の場合は、きみに」
言われるままに受け取れば剣は鉈と同じく手に馴染む。どれほどの期間腹の中にあったのかはわからないが、鞘を抜いても輝きはまったく失われていなかった。
刃にはなにかが刻んであった。見たこともない文字だ。もしかしたら文字ですらないのかも知れないが。
謎の表記について尋ねようとして振り返ったライオットは、戦闘は終わったというのに何かに気を引かれたようにあたりを見回しているペトロヴァに気がついた。
「……どうした?」
「このあたりで迷い子を見たと連絡があった。門は派閥が見つけ次第、封鎖して誰も入りこまぬようにしているが、すべてを網羅できるわけではない。おそらく、見逃したどこかの穴からきみのように紛れ込んでしまったのだろう。もし、真にすべてに無関係であるのならば、門が開くまで保護する必要がある」
言いながら、通りのすみにある半開きの古びた物置きに目星をつけたのかまっすぐそちらに向かっていく。慌ててライオットもあとを追った。
中にいたのは腹の膨れた妊婦だった。
詳しいことはわからないが、その大きさ具合からするともう臨月なのではないのだろうか。一見して大きな怪我は見当たらないものの、女は前に立つライオットたちの姿も目に入らなぬ様子で床にうずくまり、うわごとのようになにやら呟いている。
「あ、……あたしが……悪かったの……」
「おい、あんた、大丈夫か?」
「でも……お金が必要だったのよ……あの男は呑んだくれてばかりで稼いで来ようとしないから……ああ、なんてことなの……信じられない……悲鳴が聞こえるわ。痛い痛いって叫んでる……!!」
女の肌は脂汗でじっとりと湿っていた。
突き出た腹を抱えるように身体を丸くし、我が身に起こりつつある変化に――それが何なのかライオットには理解できなかったが――恐怖しているようだった。頭を激しく左右に振り、ひたすらに現実を拒否している。
「どこか痛むのか? 大丈夫だ、すぐに医――」
「すまないが」
ぞっとするほどに冷たい声が背後から発せられる。
「彼女には手を貸せない。我々派閥のものは掟と協定に縛られる。秘密に触れてはならないのだ。忠告しておくが、きみも見なかったことにしたほうがいい」
「は? 何を言ってるんだ!?」
ライオットは振り返り、ぎょっとした。
先ほどまでのライオットへの態度とは異なり、女に注がれるペトロヴァの視線は声よりもさらに冷ややかで侮蔑をおびていたからだ。
「きみはすべてを理解してここに来ているはずだ。相応の対価が支払われているのだろう?」
ペトロヴァは女に向かってそう吐き捨て、踵を返そうとする。
「まさか、放置するつもりか!? 彼女は苦しんでるんだぞ。しかも、妊婦だ!」
「ああ、そうだ。腹が膨らんでいる。忌々しいことにな!!」
肩を掴み引き止めるライオットの手を振り払い、ペトロヴァは怒りの目で女を見据え、あろうことかさらに腹立たしげに舌を打ち鳴らした。
「わたしからのせめてもの情けだ。彼らがきみを見つけることを祈っておこう」
捨て置くと言ったのは本気のようだ。今度こそほんとうにここから去ろうとしている。
「……俺が医者のところにつれていく」
ライオットの言葉に、ペトロヴァが立ち止まる。
邪魔をされるかと思ったが、そうではなかった。彼女は振り返り、明々白々の事実を前にしてもなお察することのできない愚かな人間に対して向けるような憐憫の微笑を見せる。
「ああ、そうするといい。きみが納得するのならば。……たぶん、無駄だろうが」




