医者
「ここがその診療所か……?」
銃器工に教えてもらった場所に向かうと、たしかに明かりの漏れる建物があり、中からは人の気配もしていた。
「案外、楽についたな」
最初の緊張を思えば、警戒は怠らなかったものの、ここに来るまでの道は拍子抜けするほどに気楽なものであった。戦いに慣れてきたのもあろうが、出会うのはこぶのように複数の顔を持ち蝙蝠に似た飛膜で跳ね回る猿に似た異形や、鋭い背びれをなびかせ二本足で歩く蛇とカエルの混合体に見えなくもないような化け物ばかりで、手こずるほどの大物に出くわすことがなかったのだ。
それどころか、漆黒の毛のお供のお陰でライオットの出番すらなかったこともしばしばであった。
また道中、石畳に広がったあちこちの黒い染み、明らかに水分を含んだなにかが叩き潰された壁の痕跡などから、この周辺ではすでにどこかの誰かによっていくつも戦闘がおこなわれたであろうことがうかがえた。たしかに銃器工の言うとおり、腕に覚えのある酔狂な人間たちが幾人もやってきているらしい。
「ここで待っていてくれ」
治療所ということで念のため犬は外で待機させておく。
両開きの扉を開ければ中はそこそこの広さで、医療施設らしく簡易的な診察台らしきものがいくつか向かい合わせにならべられている。とはいえ、台上は空で、今は治療中の患者も治療を必要とした順番待ちの人間もいないらしい。
建物内でも外と変わらず埃っぽく雑然とはしているものの、邪魔なものは壁際にひとまとめにするなど銃器工のところよりは片付けられており、清潔感もあった。路地のようにガラス片や腐った木切れが落ちていることもない。簡易ランプと蝋燭があちこちに掲げられ、思っていた以上に明るい。
部屋の隅には真っ白いシーツや布がいくつも折りたたまれ、診察台のそばの小テーブルでは外科手術に使うようなメスや鉗子、開創器、何に使うのかわからない片側だけが尖った編み棒みたいなものに腕の大きさほどもある手回しドリル(穿骨器)など、さまざまな医療器具が揃えて置かれている。
さらになにより部屋には現実世界の匂いが漂っていた。病院やああいった関連施設に足を踏み入れたときに感じる、消毒薬と除菌剤のにおい。あの特有のにおいを好んだことなど一度もないが、それでも嗅ぎ慣れた空気に抑えようのない懐かしさが込み上げてきた。
「あんたたちが医者か?」
奥でこちらに背を向け立っていた男ふたりが、ライオットの声に振り返る。
ひとりは若くまだ学生とも言えるような外見で、対してもうひとりは頭頂部がまだらに白く薄くなりかけていた。若い男は助手かなにかで、まず間違いなく怪訝な顔を見せた年嵩のほうが医者だろう。
その眼鏡をかけた医者らしき男は、突然のライオットの質問に不愉快さを隠しもせず言い放つ。
「人にものを尋ねるときはまず自分から、という基本的なマナーをきみは親から教わらなかったのかね?」
「……マナーがなってなくてすまなかった。親は幼いころに亡くなってるもんでね。俺はライオットだ。銃器工にあんたのことを聞いて会いに来た」
医者の声のトーンがやや落ちる。
「そうか、失礼。孤児というのなら、こちらこそ酷な言葉をかけてしまったと謝罪しよう。左様。きみの言う銃器工がヴォルケーノのことなら、わたしが彼の紹介した医師ということになる」
ヴォルケーノと言われて、初めてライオットは銃器工の名を知らずにいたことを自覚した。この混沌の世界をすこしでも理解しようと急くあまり、そんな基本的な情報すら訊くのを忘れていたのだ。
己の迂闊さに呆れているライオットを医者は眼鏡の奥から上から下まで眺め回したあと、
「それできみは何の用だね。見たところ、汚染されているようには思えないが」
「ここに来れば、漂白剤を都合してもらえると聞いてやってきた」
「もちろん、譲るのは構わない。……さぁ、これだ。持っていきたまえ」
医者が軽く手をひと振りすると、察しのよい助手が足元に置かれた大きな革鞄の中から、銃器工、つまりヴォルケーノのところで見たのと同じ懸濁液の入った瓶を取り出し、ライオットに向けて差し出す。
「代金は?」
「後払いでかまわんよ。おかしなものを見つけたり手に入れたりしたら、わたしのところに持ってきてほしい」
「たとえば肝とか?」
「それはヴォルケーノに譲っている。わたしはそれ以外のものでかまわない」
「具体的には?」
「わたしがもっとも好むのは――脳だ。脳の変質を調べていてね、ヴォルケーノはこの世界独自の生き物の肝を求めているそうだが、私は元人間であってもかまわない」
肝の次が脳とくるとは、どこもかしこも変態ばかりだな、とライオットは心の中でぼやいた。しかもそれを求めているのが医者というのだから呆れる。
しかし、彼らはあまりにも平然としていて、だからこそこれが普通でおかしいのは自分のほうではないのか。今ではそんな気すらしてきはじめていた。
周囲のあらゆるできごとが常軌を逸脱している状況では、常識的な考えをするほうがむしろ愚かであるのではないか。そもそも自分とて犯罪行為に手を染めたことはないが、胸をはれるほど立派な人間でもあるまい。こんな尋常ではない世界でいまさら道徳を説いて何になるというのか。
「……脳だな、わかった。もし手に入れたら、ここに持ってくるようにする」
すべての言葉を飲み込み、ライオットはただうなずいて受け取った。
「それから、今後俺が怪我をした場合、あんたに診てもらえるのか? そのときも後払いで?」
「無論、診ること自体はかまわないが、古い武器を提げているところをみるに、きみは狩人なのだろう? ならば大抵の怪我は自己治癒の範囲だ。ここには敗血症なども存在しない。設備の関係でできることはしれているし、わたしの腕の問題ではなく、この世界の怪我においては医師の出番はあまりないと思うがね」
「……じゃあ、なんのために医者がわざわざこんな世界に?」
「わたしは、謎を解くためにいるのだよ」
「謎とはどんな?」
「すべてだよ! この世界のすべてだ!」
医者の両の目が、突如として炯々とした光を放ち始める。まるで室内楽奏の指揮者のように両手を広げて周囲を指し示していた。
脳を求めた言葉以上に、ライオットはその姿にぞっとした。
金のためにやってきている銃器工もたいがいだが、目の前の人物はそれを超して一種の狂気だ。探求心のために、己の命すら顧みないなどと。しかもその裏には、この陰惨とした世界への賛美や崇拝にも似たにおいすら漂っている。
どこまでも賛同しかねる思考の持ち主である。しかし、ライオットは立ち去るのを踏みとどまった。
より説明できるであろうと言われた銃器工ですら、この世界について語る内容は要領を得ないものばかりであった。情報はあるに超したことはない。こんなわけのわからない世界ならなおさら。
この世界を解き明かしたいという思いをもつならば、独自の調査で判明したこともあるかもしれない。そう考え、すこしでもなにか得られるものはないかとライオットは尋ねた。
「じゃあ、あんたはこの世界が何なのか知っていると?」
「この世界を正しく知悉している者がいるというのなら、わたしが会いたいところだ。そもそもそうなったら正気でいられるのかは、はなはだ疑問ではあるがね」
医者は薄く笑ってライオットの期待を一蹴する。
その態度から会話は打ち切られたものと思ったが、意外にも彼は手近な椅子を引き寄せるとそれに腰掛け、ライオットにももうひとつを指し示し友好的態度にも似たものを見せた。
「だがまぁ、この世界を知りたいという欲求はわたしもおおいに理解できる。ちょうど来客もいないところではあるし、少々きみとの話に付き合っても構わんよ」
「きみは、この世界をどう感じているのかね?」
「悪夢だとしか思えない」
「たしかにきみのように、悪夢そのものであると主張する者はいる。あるいは、人の悪意が凝り固まり、やがて霊的なものが受肉してここが出来上がったと分析する者もね。あれは神に反する被造物、つまり悪魔だと言う者も。最後の知見は≪神の代理人≫派によるものだ。彼らが言うには神の徒たるわれらを試しておられるらしい」
「銃器工は次元が違うと言っていたが……」
「たしかにそういう提唱をする人物もいたな。ただし、完全に異なるともいえないと言っていたはずだ。引違いの窓のようなものだ、と。あるときふいにどちらか、あるいは両方の窓が開き、重なった部分にガラスとガラスのあいだの僅かな隙間ができる。我々は今そこにいるという考え方だ」
滔々と淀みなく語る口調は、ライオットの疑問に応じるというより、見識を披露する機会を待っていただけのように思えた。催促の必要もなく、医者は続ける。
「ああ、そう言えば儀式だと言っていた民俗学者もいたな。成人するための狩りの一環であり、我々は誘いこまれた獲物だと。食べる必要のない彼らが本来我々を要とするわけはなく、捕食ではないほかの目的のためでしかありえないそうだ。つまり、我々は互いに狩り合っているというわけだ。これならきみの良心もすくなくともうずく必要はないのではないかね」
「……なぜ、俺の良心を問題にする?」
「きみは登場して以降、私の目から視線を一度も逸らさなかったからだよ。悪夢に例えるほどこの世界に恐怖を覚えているのならば、ここにくれば普通は安全地帯だと無意識にでも安堵するものであるというのに」
「それとどういう関係が?」
「この場所は我々の世界と変わらぬにおいがすることに気づいたかね? わざとなのだよ。香りが記憶を呼び覚ます、というのを聞いたことがあるはずだ。嗅覚に関連する情報は記憶を司る大脳辺縁系をとおって伝達されるために、刺激による想起の連鎖反応が起こりやすい。であるにもかかわらず、きみはいっそ反抗的と思えるほどにかたくなに弛緩せず、眼をそらそうとしない。瞳孔もずっと開いたままだ。それでいて、過度に興奮した様子も好戦的な態度もない。非常に強い抑制が働いている。きみの深層は抑圧され、この世界で解放されたがっている。だが、理性がそれを許さない。そうではないのかね」
指摘され、ライオットは初めて意識的に医者から目をそらせた。誤魔化すために顔を洗う仕草で目元を擦ったあと、周囲に視線を散らしつつ答える。
「……いや、違う。すまない。癖なんだ、相手の目を凝視してしまうのが。後遺症というか、子どものころにすこしあって……気にさせたなら、申し訳ない」
触れられたくない話題に対し言葉を濁すライオットに、医者はそうかねと受け流してそれ以上深く踏み込んでこようとはしなかった。ただし気を遣ったというよりは、たんにライオットに興味がないだけのことなのだとその表情から察せられた。
「では、話を戻そう。きみも狩人ならばこの世界独特の異生物体に出会ったはずだ。どう感じた?」
「化け物、としか」
「我々とは異なる高等生物種、と言い換えることもできるだろうね」
まるで分類学上、地球の生物とはほんのすこし異なるだけである、と言いたげだった。進化の過程で分かたれた兄弟、狼と犬の違いていどなのだと。
「やつらに知性がある、と言いたいのか?」
「哲学的な考えをみせないからといって、彼らに知能がないとは言えまい。その手がかりとなるのが、この世界独自の現象、囁きだ。知性なしに言語は存在しえない。他のものは囁きに侵されるだとか言うかもしれないが、わたしは違うと思っている。凡百なるものでは、たんに彼らの言葉を正しく理解できないだけなのだ」
目の奥に情熱の火を灯らせ、問わず語りに医者は続ける。
「おそらくではあるが、生存・繁殖へのサイクルの途中に我々人類の存在が必要不可欠であるのだとわたし自身はにらんでいる。知っているかね。ある種の線虫は雌が卵を内に抱き、自らの身を包嚢とすることで我が子を生存させるのだよ。われわれはその子どもに与えられた餌のようなものだと、わたしは思っている。聖域は巣とも被嚢とも言える。言葉は違っても示すことは同じ、なにものかの領域だね。生物防御学を主としている者ならばわたしの意見にうなずいてくれるだろう。まぁ、餌と言っても実際には我々が自分たちで乗り込んでやってきているのだが」
そう言ったところでライオットの懸念の表情を見て取ったのだろう。すかさず言葉をついで、
「実際のところはわからんよ。なにせわたしは管理者に会ったことがないし、おそらく言葉も通じんだろうから、意思疎通のはかりようがないだろう」
「なぜ、行かないんだ? その管理者とやらに直接会えば、研究もいっそうはかどるはずでは?」
「おかしなことを言うね、きみ。死んだら研究も何もないだろう。わたしは戦うすべを持っていない」
そう言って肩をすくめる。
たしかに医者の言うとおり、門は入口ではなく顎門だとするなら、管理者を倒せば門が開かれるというシステムには一応の説明がつく。しかし、それはそれでまた別の疑問が浮かび上がってくることにもつながるのだが。
「だったら、ここが化け物そのものだとしたら、なぜ、こんな街みたいな形になっている? これって人が作ったものじゃないのか?」
ライオットは、外の景色を指さす。
古く、みすぼらしくはあったが、建物も看板も、置き去りにされた荷車も、すべてが元の世界と変わらないものだった。だから最初はただ田舎にやってきたのだと勘違いしたのだ。あれらを異形どもが作ったとは、どうしても思えない。
ライオットの反論にも医者は落ち着き払い、そんなことはとっくに考慮済みだというように人差し指をゆっくりと振ってみせた。よい環境に恵まれなかった、マナーのなってない、理解力に乏しい憐れな生徒に教えるように。
「視覚とは視野の情報が脳で組み立てられた結果である、というのは知っているかね。人とそれ以外では見られる表象が違う。たとえば我々とは異なり紫外線をとらえることができる虫がいる。それだけで、もはやまったく違う世界が構築されるというわけだ。我々は我々が脳で解釈できるものしか見ることはできない。もしかすると、これは我々の脳が正気を保つために見せている虚像かもしれない。あるいは、我々を誘い込むための幻覚かもしれん。いや、そもそもわたしときみの見ている世界が同じだと、なぜ言い切れる? だが最大の問題は、それを確かめるためのすべが今の我々にはないということなのだよ」
そして最後にこう締めくくった。
「だから、わたしは研究し続けるのだ」
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参考文献
『あなたの脳のはなし 神経科学者が解き明かす意識の謎』デイヴィッド・イーグルマン著 大田直子訳 早川書房。




