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猟犬

逃げ切れていなかったのか、とライオットは首をすくめて固まった。


音だけではない。枝が葉を揺らすに等しい囁き声も一気に重みを増してくる。しかし、犬ならば背後から追ってくるはずであるし、明らかに獣とは様子が異なる。やがてぺた、ぺたとはっきりと歩いてくる足音にかわった。


その時点では、怪我をしているのか、子どもなのかと思った。足どりが、歩き始めのようにおぼつかなかったからだ。


「……いったい、今度は何なんだ!?」


ようやく人に会えたというのに、それは出会いを喜ぶにしては奇妙な人物であった。


まとっているのは脛までの真っ白の衣で、同じく白い包帯のような細い布をひきずった足下は素足だ。しかもそうとう歩いてきたのか、泥や濁った草の汁に染まっている。


くわえてどういう了見か、頭部がすっかり麻袋で覆われていた。空気や視界を確保するための穴も見当たらず、男か女かさえ判別がつかない。


そしてなによりもっとも奇異なのはその動きであった。


歩を進めるたびにこてり、こてり、と首をかしげているのだ。かしげるというより、逆さにした振り子のように頭部を左右に振っていると表現したほうが正しいのかもしれない。


また揺れるたびに体も左右に傾くから足どりも蹌踉としており、そのぎこちない動きはまるで出来の悪いねじ巻き人形のようであった。


「あんた、大丈夫か? どこから来たのか知らないが、帰ったほうがいいんじゃないか? このさきは野犬もいるようだし……」


どこかへ向かっているというよりふらふらと無目的に歩き回っている雰囲気は、夢遊病を思わせる。


思わず問いかけたライオットの声に、目の前を通り過ぎようとしていた人物が反応する。動きが止まったのだ。さびついたねじみたいにゆっくりと首が回る。


麻布は粗いが、中が透けて見えるほどではない。それでもなんとなく目が合ったようにライオットは感じた。さらにこちらからでは表情をうかがえないが、麻袋の中から激しい息づかいも感じる。


はたして視界の確保はどうなっているのか、袋をとりあえず取ってやったほうがいいのか。


次にかけるべき言葉を探していると、ふいにこてり、と目の前の人物がふたたび首を傾げた。無邪気な子どもさながらに。


さらに、逆側にこてり。またこてり、こてりこてり、こてりこてりこてりこてり――動きは段々と早くなり、あわせて振り幅も徐々に大きくなっていき、しまいに身体全体がぐらぐらと左右に大きくぶれはじめる。


ぐらぐらぐらぐら、こてりこてりこてり。



目の前を、頭部と体で持ち主が違うせいで筋肉と神経が制御を受け付けないみたいに、首だけがとんでもない角度とスピードで右と左をせわしなくいったり来たりしている。


いまや首は傾げるというよりねじ曲がると言ったほうが正しく、無理に曲げるせいで筋が浮かびあがっているのがここからでもわかった。いきおいのあまり、そのうちにがくんと肩から頭が滑り落ちてしまうのではないか。そうライオットが懸念したほどである。


首の振動はもはや恐怖を覚えるまでになり、それだけではなく、ちからなくだらりと両脇に垂れ下がっていた腕が震えだした。


「ど、どうし……」


ライオットが尋ねるよりも早く、麻袋の向こうから突如あがる、恐怖を呼び起こすおぞましい叫び。次の瞬間、思わず後退したライオットに謎の人物が飛びかかってきた。


「何っ……!?」


手がライオットの首をつかみ、華奢な、細い手足からは想像もつかないほど強いちからで、絞めあげてくる。喉元を鷲掴みにされ身体が持ち上げられる。足が浮き、全体重が首にかかった。指先が喉に食い込んでくる感触。気道を圧迫され声が出せない。


すそから見える細い布が包帯ではなく千切れた拘束ベルトの切れ端であったことに気がついたのは、そのときだった。


「……は、……なせっ!!」


このままでは窒息するか首の骨をへし折られてしまうと、もてるちからで相手の胴を蹴りつけた。二度、三度、何度も何度も。靴底の抵抗が失せ、踵の下で硬いもの――おそらく肋が折れた感触すらあったのに、相手は痛がる様子もちからがゆるまる気配もない。


酸欠で死ぬにしろ、頚骨を折られるにしろ、原因がどちらであってもライオットの死はすぐそこであった。


震えた手でいつも身に付けている腰元の護身用銃を探り当てたとき、視界はすでにかすみ始めていた。取り落とさないよう、しかし可能な限りの速さで安全装置を外し、麻袋に当て、引き金を引く。


接射。ライオットに人を撃った経験はなかった。しかし、ためらっている暇もなかった。躊躇は死であった。


はずしようがなく、銃口炎で焦げた麻袋から細く煙がたちのぼる。


衝撃に相手の首ががくんとのけぞり、皮膚を突き破らんとしていた手指のちからが一瞬にして緩む。


尻から地面に落ち、衝撃と肺に新鮮な空気が一気に入り込んだ両方で反射的にむせた。潰されかけた気道がひゅうひゅうと鳴っている。


ライオットは大いに咳き込みながら、倒れた相手からまろびつつ距離をとって、息を落ち着かせる。手足にはまだ軽いしびれが残っているし、一時的な酸素の供給不足によってめまいがやまない。


「い、いったい、何なんだ……」


しかし、突然の奇行に驚くのはまだ早かったらしい。撃たれたというのに、何事もなかったかのように相手がゆらりと立ち上がったのだから。


「嘘だろ!? 頭を撃ち抜いたんだぞ!!」


声は悲鳴のようになり、ろくに気息もととのわないまま、いそいで銃を構え直す。


自分の目が信じられなかった。


焦げた麻袋の穴の中は真っ暗で何も見えず、どこに命中したのか正確には不明だ。だが、どこだったとしても、頭の一部をふきとばされて再び立ちあがるなどあり得なかった。


「く、来るな!! 撃つぞ!!」


銃を向けられても怯む様子はまったくない。ふたたび、首を揺らしながらライオットに向かって歩いてくる。


連続する発砲音。手ごたえはあった。衣を貫き、水分を含んだ肉に弾が埋もれたのがわかった。


それなのに、止まらない。銃撃を受けたことなど意に介さず、ライオットに近寄ってくる。


胸への6発。最初の頭部への1発を含め全弾が急所となる箇所に命中したはずだが、衝撃や痛みに苦悶して立ちどまることさえなかった。


「頭と心臓を撃ったんだぞ、ありえない!!」


混乱の叫びに、ぐるる、と応答するような唸り声がする。


いやな予感にそろりと振り返ったライオットの目に映ったのは、あの歪んだ狂犬であった。


発泡音に引き寄せられたのか、追いかけてきたのか、すぐうしろにまでやってきていたのだ。さきほどよりも大きな唸り声をあげ、牙をむき出しにして身を低くし、いまにもこちらに襲いかからんとしている。


「くそっ、こんなときに!!」


ライオットは犬と死なず男とのあいだを塞ぐように立っていた。距離的にはふたり――正確にはひとりと一匹――とも同じくらいである。どちらからも挟まれており、逃げ道はない。しかも弾は尽きている。脱するためには、どちらを相手にすべきか。


迷うライオットより、犬のほうがもっと判断が早かった。大きく口を開けて、とびかかって来たのだ。


避ける暇もなかった。とっさに攻撃に備え腕を掲げるが、あの牙と爪ではとうてい防ぎきれるものではない。次にくる痛みと死をライオットは覚悟した。


「……っ!!」


しかし予想に反して、犬が襲いかかったのはライオットではなくあの不気味な振り子人間だった。もし自分が犬だったら、どう見てもライオットのほうが食いでがある肉に思えるのだが。


犬は相手の腕に噛みついて勢いのままに引きずり倒したかと思うと、容赦なくその喉笛に食らいつく。


肉がかみちぎられ、骨が噛み砕かれる音。金属を擦るような、耳をつんざく悲鳴。暴れる手足とおなじくらい、大量の蝿がぶんぶんと飛び回って突き破ろうとでもしているかのように頭部の麻袋のなかでなにかがうごめいている。


引き剥がそうと身悶え、四肢が激しくのたうつ。しかし、犬のちからのほうが勝(まさ)った。がっちりと食らいつき、牙を立て、喉を食い破る。盛大に血飛沫をあげ、首はあっさりと折れた。折れて、今度こそがくんと胴体から滑り落ちた。体が痙攣したのに遅れて、ヒクついた四肢が力なく地に横たわる。


動かなくなってからも本当に死んだのか確かめるみたいに、犬はすこしのあいだ噛み殺した相手を嗅ぎ回っていた。口の周りの血を舐めとり、そのまま食事をつづけるかと思いきや、やがて、闘争心が失せたのか急に興味をなくし、ライオットの近くまでやってくると地面に伏せて丸くなった。自分の出番は終わったとでも言うみたいに。


どうやら、腹が減って噛みついたわけではなかったらしい。


「お、おい……あんた……」


もはや返事がないのは承知のうえで、ライオットは恐る恐る死体に近づいた。そこへ、


「ああ、介錯してくれたのだな」


ふいに涼やかな声が差しこまれる。とつぜんの背後の声にビクッと肩を震わせ、ライオットは振り返った。


ついさっきまで気配はなかったはずである。


「すまない。手間をとらせた」


身構えたライオットを気にすることなく声の主は優雅に会釈する。


古びた幅広の帽子に首元の赤いスカーフ、肩の一方に留められたマントとズボンの裾をたくし込んだ乗馬ブーツ。いささか時代がかった格好という以外、外見に怪しさはなく、動作におかしなところも見うけられない。この街にきて、初めてのまっとうな人――女だった。


返事ができずにいると、女は倒れている人物を目線で指し示し、


「うちの者だ。漂白する暇もなかった。一応修練は受けていたはずだが、まったく役に立たなかったようだ」


「……し、死んでいると思う。まだ確かめてはないが」


「協定のことを心配しているのだな。安心したまえ」


彼女は微笑すると、こともなげに死を肯定して遺体のそばにかがみ込み、亡骸の顔から乱雑にずた袋を剥ぎ取った。


「――もう人を外れている」


ライオットの口から今度こそ完全な悲鳴があがる。


それはどう形容したらいいのか。あらゆる生物の形態上の法則に反旗を翻した、とでも言うしかない容貌であった。筋張った首にはまだかろうじて人の名残りが残っているが、その上は見る影もない。


布に覆われた、本来人の頭部があるはずの部分にあったのは、粗く挽いた、不器用な人間に仕立てられたいびつな球形の肉団子を思わせるものだった。そのぼこぼことした肉のあいまあいまから、思い出したようにときおり人間の髪の毛のようなものがはえているのがさらにおぞましい。筋張って撚り合わさった軸に支えられた眼球が突き出ているのはわかるが、口鼻は削り取られたかのように存在しない。


かわりに、頭頂にあたる部分が開かれていた。そこから覗く内壁は縁が白く膨れ上がった潰瘍で覆われていて、さらに黄色く濁った両生類の卵に似たなにかが岸壁に張り付くフジツボのようにびっしりとしがみついている。しかも今や泡が弾けるようにその卵殻のひとつひとつに孔があき、中から濁り膿んだどろりとした膿漿がこぼれおちて地面に汚いしみを作りはじめている。


醜悪な趣味を持つ者によってつくられた醜怪な人形、としか思えなかった。もしそうだったなら、製作者とは絶対にお友達になれないだろう。


おぞましいものであれば過去にも目にしたことがあったが、そういったものとはかけ離れた、理性が処理できない光景は現実のものだとは到底信じられない。これは夢の残滓で本当の自分はまだ汽車の窓にもたれて眠っているのではないか。しかし、もしそうではないのだとしたら、


「……俺はおかしくなったのかもしれない」


「何を言っている?」


棒立ちになっているライオットを女はしばし見つめ、ややあってから納得したように告げる。


「……ああ、呑まれたのを見たのは初めてか。それとも、己の行くすえを憂いているのか? どちらにしろ、いまさら後悔しようとも無駄なことだ。これは現実なのだよ。きみの脳が奇態な遊びに目覚めたわけでもない。いまは帰ってすべてを記憶の彼方にやれたらどれほどいいかと思っているのかもしれないが、もう戻れないのはわかっているはずだ。それに……いずれ慣れる」


彼女は目の前の異様な光景の一切を気にした様子も見せず一笑に付し、言い放つ。


「覚悟を決め給え。犬を連れているのならば、きみもカリビトなのだろう?」


「カリビト?」


「≪狩人≫だ。あえて、ここではそう呼ぶのだよ。独特の習俗のようなものだ。いや、まじないと言ったほうが正しいのかもしれぬな。我らは人(ひと)であることを、忘れぬために」


「人を忘れない?」


「そうだ。人を外れたものどもとは違うのだと、な」


「ひとをはず……すまないが、さっきから言っている意味がまったくわからない」


ライオットがみせた困惑に、謎の女は甲高い笑い声をあげ、


「これは驚いた。新入りとはな。だが、それにしては腕もいいし、武器の扱いも手慣れている」


急所――人で言うならばだが、眉間と心臓に正確に撃ち込まれている銃痕をながめ、意味ありげに視線をよこす。


「……知り合いに元軍人がいて、銃の手ほどきを」


「ああ、なるほど。師は従軍経験者か。納得だ。これほど優秀なら、さぞかし師も誇らしいだろう」


「そんな、ことは……」


嬉しくない言葉だ。銃を扱えるようになるに至った経緯を思い返せば、射撃の腕を褒められても決して誇れるものではない。


言葉を濁すライオットに女は続きを促すように片眉をあげた。しかし、思いだしたくもない過去だ。首を振って拒絶を見せたライオットに女は静かに微笑む。


「まぁ、いい。誰にだって暗い過去はあるものさ。この場所で重要なのは、人を外れたものどもや異形を殺せるかどうかだ」


「その、さっきから言っている“人を外れたもの”とは?」


「かつて人であり、今は人を捨てたもののなれのはて。あるいは常識の外に落ちた生き物」


人外、と女は宙に文字を書く。独特な読みはおそらくこれもまたまじないの意味を持つのだろう。


「こ、これが人だと? 冗談だろ? こいつは、もともと人間だったっていうのか?」


「ああ、そうだ。汚染されるまでは、な」


「汚染とは、化学物質や寄生虫とか、そういったものに?」


幼い頃に生物の授業で見せられた写真――口から摂取物と共に体内に入り、胃壁を食い破り、内臓や眼球の中を泳ぎまわっていた回虫を思いだし、ライオットは気分が悪くなった。


「まぁ、そのようなものだ」


女は壁に寄り掛かったまま足だけを組み替え、人差し指でこめかみの辺りをとんとんと叩いた。


「脳を乗っ取られるのよ」


「元に戻れるのか?」


「戻れぬ。かつて、そのようなことは一度もなく、これからもないであろう」


だから殺しても問題ない、女はそう言いたいのだろうか。


己の身に起こっているすべてが受け入れがたく、ライオットは考えをまとめることもなかなか言葉を発することもできなかった。


そこにおごそかな鐘の音がどこからか響いてくる。


目の前の事実から目をそらしたい一心でとっさに音の発信源を求めて周囲を見回すライオットに対し、彼女は呆れたように言った。


「……さすがに聖域に乗り込んでからの時間が早すぎる。門が開いた合図ではないであろう」


「聖域? 門を開く?」


尋ねるライオットの言葉に女はここにきて不快そうに顔をしかめ、


「質問ばかりだな。どこの一派だ? なぜ教わってこなかった?」


「一派?」


さきほどから女の言葉はなにひとつ意味が理解できない。ただ繰り返すことしかできないライオットの様子に、このわけのわからない世界でも堂々としていた彼女が初めてかすかに動揺を見せた。


「……もしや、狩人ではないというのか? ならば、なぜ猟犬を?」


猟犬とは、自分の横にいてだらしない口元からだらしなく舌をたらして眠っている、この轢かれた犬もどきのことを言っているのだろうか。


だとしたら、勝手についてきただけで自分が飼っているのではない。そう説明しようと口を開いたところで、さきほどの鐘とは別の音が響く。


犬笛のような鋭い音だった。なにかを示唆するように長短を織り交ぜている。嫋々たる音がまだ耳に残るうちに女は発信源と思しき方向に目をやり、身を起こす。


「集合の合図だ」


「待ってくれ。こんなところにひとりで取り残されたくない。俺もつれていってくれ」


女はその言葉に静かに剣を抜いた。シミターに似た細身の剣だ。月の光を受けて、剣先が光っている。


「派閥でないものに秘密を明かすわけにはいかぬ。すまないが、きみを連れてはいけない」


「こ、ここにひとりでいろって言うのか!?」


ライオットの必死の態度に女はしばし考え込む様子を見せ、ある方向を指差す。


「……銃器工に会うといい。あの黒煙が立ち上っているのが見えるか?」


「尖塔があるあたりの?」


「ああ、そうだ。たいていはああいった目立つ場所に店を出す。此度もそこにいるだろう。掟に縛られぬ彼なら私より話せるであろうし、この世界で通用する武器に改良してくれるはずだ」


そう言うとあとは帽子に手をやって軽く頭をさげると、マントをひるがえし、振り返りもせずに駆けていった。


一瞬、こっそり後を追いかけようかとも迷ったが、先ほどの剣を抜いた彼女の目は本気だった。間違いなく、今度こそ喉を一突きにされることだろう。


「まぁ、いい。すくなくとも俺以外にもいろいろな人がいることはわかったんだ。彼女の言っていた、その銃器工とやらに会いに行ってみよう」

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