悪夢の始まり
脳の内側を爪でひっかくように、きいきいと囁く声がする。
それから小刻みな揺れと、一定の間隔でがたごとと響く音。声は鬱陶しいが、ゆりかごのように繰り返し続く振動は心地よく、いつまでもひたっていたい気持ちにさせられた。しかし、
「お客さん、着きましたよ」
肩を強く揺すられ、ライオットははっと目を覚ました。
振動を感じていたのは夢だったのだろうか。どうやら自分は、停車した汽車の客席で窓に頭をもたせかけ、とろとろとまどろんでいたらしい。
「……ここは?」
「終点です」
制帽に手をやり、ライオットに向かって声をかけてくるのは、顔色の悪い、ひとりの中年男性であった。
格好からして車掌だろう。
ずいぶんとみすぼらしい身なりだ。制服は埃っぽく、あちこち擦り切れてほつれ、あるいは虫食いの穴が開き、上着のボタンのひとつはとっくに消え失せ、もうひとつは垂れた糸の先にゆらゆらとぶら下がっている。洗濯も怠っているらしい。動作のたびに、どうにも黴臭いにおいがぷうんと漂ってくる。
「しう、てん……?」
呆けたままでまったく降車のそぶりを見せないライオットに、しびれを切らしたように車掌はもう一度駅についたと繰り返し、暗い窓の外を指さした。
「#####駅です」
まだ目が醒めきっていないのか、正しく聞き取れなかった。しかし、はっきりと音を捉えられずとも駅名に聞き覚えがなかったのはたしかだ。
「……そんなところに来た覚えはないんだが」
「ですが、お客さんがお持ちの切符はまぎれもなくこの駅までの片道切符ですよ。さきほどわたしが、検札で切りましたから」
視線の先をたどると、自分の手の中にはたしかに端が欠けた切符があった。握った側がよれてしわくちゃになってしまっている。乗車駅の記載はない。同様に、どこから乗ったかの記憶もなかった。
起き抜けのわけのわからぬ状況でそれでも促されるまま立ち上がり、薄明かりの中、せかされるように乗客のいない座席のあいだの通路を抜ける。
外はすっかり夜だった。見上げた夜空に星はなく、大きな月がひとつ浮かんでいるばかり。
それらを眺めながらライオットが暗いホームに足をおろしたとたん、電気が走ったかのように身がしびれ、不意の恐怖に全身が支配された。血が逆巻き、指先の隅々まで凍りついていくような感覚 。一瞬のことでそれはすぐに霧散したが、この街に降りるのを身体が拒んでいる――なぜだか強くそう感じた。
「そういえば、忘れておりました」
固まっていたライオットの背後からぼそぼそとした声がかかる。汽車の中に駆け戻りたくてたまらない気持ちをおさえ、平静を装い振り返れば、車掌がどうぞと懐からなにかを取り出していた。
「……こんなものを所持していた記憶はないんだが」
忘れ物かと思ったライオットは、しかし片手にのる程度の品に見覚えがなく眉をひそめた。紐で結ばれた蝋引き紙の包みで、開いた中にあったのは、萎びた干し肉である。脂が抜けきって固そうで、どこからどうみても口にしたい代物ではない。
「最近の車掌は車内販売もするのか? クリームぺストリーとは言わないが、せめてもう少しましな物を売ったらどうだ? これじゃあ、子どもでも欲しがらな――おい、どこに行った?」
突き返そうと顔をあげたところで、車掌がいなくなっていることに気がつく。それだけではない。汽車も忽然と姿を消していた。あたかも初めからなにも存在していなかったかのように乗降場はひっそりと静まり返っている。
いつの間に出ていったのだろうかとライオットは首をかしげる。終着駅だと言っていたのだから、これより先などないはずだ。音もしなかったが、はたして蒸気機関車というものはそれほどまでに静かに即座に移動できるものであっただろうか。
しかし、目の前にないものはないのだ。きっと己をおろした直後にすぐに車庫にでも折り返していったのだろうと考えに見切りをつけ、仕方なく押し付けられた干し肉を懐にしまい、これから先のことについて思考を切り替えた。
切符売り場も売店も閉まっている。あたりに人の気配もないことから、おそらく今のが最終便だったのだと思われた。
「……すくなくとも、今夜はこの街に一泊する羽目になりそうだ」
記憶をなくすほど酔った覚えもないのに己が何を目的としてこの街に来たのかさっぱり思い出せないのは腑に落ちないが、いまさら焦ったところでどうにもならない。さしあたりまず宿を探すことが先決だった。財布にもとりあえず一晩をしのげるくらいは入っている。観光するにしろ、すぐに帰るにしろ、明日の予定はそれから決めればいい。
そう考えて、くしゃくしゃの切符を回収箱にいれ、駅の玄関口をとおり抜ける。
抜けた先、駅前の広場にはうっすらともやが広がっていた。不快な空気だ。じめついていて、息を吸うたび冷たく濡れた指に肺の中を探られる錯覚を起こす。
おまけに街灯がところどころ切れているせいで、よけいに薄暗く、視程はひどく悪い。広場からのびる大通りはまだましだが、一本路地を入ればさらに真っ暗で延ばした腕の先すら視認できず、灯りなしには踏み込めそうにない。
くわえて路面は敷石があちこちすりきれ、浮き上がり、放射状に割れ、欠けている。これでは車は相当乗り心地が悪いであろうし、歩いていてもいつなんどきひび割れにつま先を引っ掻けて足を捻るかわかったものではない。
灯りといい、この街は金が足りないのか人が足りないのか、長いあいだ、整備も滞っているらしい。
「いったい、ここはどこなんだ?」
やはり全く見覚えのない場所である。
せめて標識から通りや街の名を知ろうと試みるも、ところころどころ退色していて読めそうにない。おまけに矢印が指し示しているその方向はどう見ても行き止まりで役に立たなかった。
「田舎の観光地……か?」
すくなくとも大きな都市ではない。新しい建築物は一切なく、あるのはどっしりとした古風な石造りやレンガの建物ばかり。よく見れば街灯も電気ではなくガス燈であり、さらには路上に放置してあるのも、自動車ではなく輓獣が牽引するような車両ばかりである。
当世風の言い回しをするならば“歴史が今なお残る”、そういった売り文句がパンフレットについていそうな――ライオットがつけるならば“取り残された”にするであろうが――往古の街であった。
「仕方ない。歩きまわって宿を探すか」
とりあえず大通りを選んで進む。
歩いているだけで気がふさいでくるような家並みだ。駅前から伸びる大通りならもっとも栄えていそうなものなのに、どこまでいってもひなびており、すべてなにかしらくたびれている。くわえて漂う、不潔なものを想像させる臭気。
あまりにも陰気なので街全体がそれひとつの枯れた大樹を思わせた。生命の抜けきった殻とか、そういった類のものを。
宿を求め、方角も定かではないまま進んでいくうちに、ようやく煙るような白は薄れてきた。闇が濃くなったと換言すべきかもしれない。
どのくらい眠っていたのかはわからないが、思っていたよりもそうとう時刻が遅いのかもしれないとライオットは考えをあらためた。
路地はどこまでいっても無人で、生活音もなく、どの通りにも人の気配がない。
いや、正確に言うのならば気配だけはあった。つねに、そこかしこに。それから、葉擦れにも似たかすかな囁き声も。ただ、どうにも姿だけが見えないのだ。
「誰かいないのか?」
気配を頼りに、ためしに細い路地を覗き込んではみるものの、どうにも暗い。だが、囁くような声はたしかに聞こえていて、やはり何者かの気配もあった。
そうだ、とライオットはふと思い出し、懐からオイルライターを取り出した。自身は煙草を吸わないが、これは母親の形見ということもあってなんとなくつねに持ち歩いているものだった。彼女はライオットが幼いころに亡くなったのだ。貧しかった彼女の唯一の遺品と言っていいだろう。
オイルがまだ残っているのはわかっている。ただし20年以上経過していた。
「頼むから点いてくれよ」
願いつつ、着火用の回転ドラムを回した。
カチカチッという音のあと、赤い小さな炎が灯る。
心もとない灯りではあるが、これほどの暗闇ではこのていどでもありがたい。ライオットはそれを前に突き出し、細い通りに一歩踏み込んだ。
途端、ざざっと闇が後退した。灯りで照らされて薄れたのではない、たしかに闇が後ろに退がったように感じたのだ。まるで生きているかのように。
「ほんとうに誰もいないのか……?」
ライオットは気配のするほうに声をかけた。やはり返事がわりの囁きがきこえた。ただし、漆黒の中にいる誰かというよりは暗がりの中の暗がり、壁の擦り傷の陰、狭く汚れた路地に潜む闇そのものから、息差しを感じる。
体をぶるりと震えが走る。
ただ暗いだけで恐怖を感じるほど繊細な神経は持ち合わせていなかったが、このときばかりはこれ以上進んではいけないとライオットの何かが――人間が原始よりもつ内なる本能のようなものが訴えていた。
踵を返し、気味の悪い裏路地から、這い寄る闇から逃れるようにできるだけ通りの真ん中を歩くことを心がける。
「ここはどうもおかしい。普通じゃない……」
今まで街の状況を把握するのに必死で気がつかなかったが、ここからでは暗すぎて確かめようのないものが、水路をぴちゃぴちゃと這い進む音もしている。鼠ではない、もっと大きなべつの何かが。
いくつもの辻を過ぎ、ライオットは道路の真ん中を歩きつつ何度目かの後方確認をした。気配を感じて振り向くたびに映るのは闇ばかりだったから、なんの期待もせず、ただの作業のように。
だが予想に反して、ひたひたと足音を忍ばせ、それは暗闇から姿を現した。
「おい、嘘だろ? 冗談じゃない……」
存在を否定したい思いで首を振り、信じたくなくて乾いた笑いが漏れた。
そこにいたのは、腰の高さほどもある大きな犬であった。ただし、普通の犬ではない。
車に一度轢かれ、念のためにと戻ってきた後輪にもう一度巻き込まれでもしたかのように、顔が奇妙に歪んでいる。
眼球は飛び出し、今にも眼窩から零れ落ちそうだ。顎が完全にずれていて、上下の咬合が悪く、歯がだらしなく垂れた舌を傷つけており、粘度の高いよだれが赤い雫を溶かしつつ顎の先よりしたたり落ちていた。
犬はライオットを認めると不吉にぐるぐると唸りながら、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。体もやはりいびつに折れ曲がっていて、動いていられるのが不思議なほどだ。艶のない毛は逆立ち、体躯に比べて四肢は華奢な乙女さながらに頼りない。その中で雄牛の角の如くに剥き出しの牙だけが鈍く輝いている。
言うまでもないことだが、あれに噛まれ、あるいは引っかかれでもしたらとんでもないことになるにちがいない。生きていられたとしても、何がしかの感染症にかかってもがき苦しみながら死んでいく己のさまが想像できた。
どうにかして奴の興味をそらさなくては。
そう考えあちこちをまさぐって、ふと、さきほど車掌から押し付けられた荷のことを思いだした。
「ほ、ほら、どうだ? しなびちゃいるが、まだ食えそうだ。そうだろ?」
いそいで懐から取り出し、犬の目の前で興味をひかせるように干し肉を掲げて揺らす。それから、
「良かったら……お前に全部やるよ!」
ふりかぶって犬の後方へと大きく投げた。犬の眼球がぐるりとまわり――目玉が落ちないのが不思議なくらいだった――、行方を追う。
干し肉が地面に叩きつけられる乾いた音がし、犬が反応して駆けていく。
今の内とばかりにライオットも犬の姿が闇に消えたのを確認した瞬間、逆の方向へといっきに走り出した。
表を歩いている人間がいないのはあの野犬のせいなのだろう。人の気配がないことにようやく合点がいった。
「あんなのを野放しにしているなんて、ここの役人は何をしているんだ!?」
行先にあてがあるわけでもなく、とにかく犬から距離をとろうと辻をなんども折れ、やみくもに走って、気がつけばひらけた場所に出ていた。一瞬駅前に戻ってきたのかと焦ったが、別の小広場である。
ただし憩いの空間と言うにはこちらも同様に手入れされた様子がなく、鉄柵は錆び、年古りた棘蔦におおわれ、広さをもてあましたようにどことなく陰鬱で、中央の噴水は水が尽きひび割れた底面を惜しげもなくさらしているありさまだった。
とりあえず後方を確かめ、追ってくる気配がないことにようやく安堵の息を吐く。
前方からかすかな音がしたのは、そのときであった。




