第二話「旅人」
ミナが旅立ってから五日が過ぎた。
村は何も変わらなかった。
朝になれば煙突から煙が上がる。
畑では農夫が土を耕し、川辺では子供たちが魚を追いかける。
夕方になれば鐘が鳴り、人々は家へ帰る。
昨日と同じ今日。
今日と同じ明日。
世界は驚くほど静かに続いていた。
けれど、エリシアの中には小さな棘が残っていた。
あの日からずっと。
村の入口近くのベンチに座り、人の流れを眺める。
パン屋のおばあさんが通る。
籠の中には焼きたてのパン。
その後ろを鍛冶屋が歩いていく。
腕には煤がついている。
どちらもいつも通りだ。
だが最近のエリシアは、その「いつも通り」を見るようになっていた。
パン屋のおばあさんは、毎朝同じ時間に広場を横切る。
鍛冶屋は昼になると必ず井戸へ向かう。
村長は叱られる前に頭を掻く癖がある。
前からそうだったのだろう。
ただ、気づかなかっただけだ。
あるいは気づく必要がなかっただけかもしれない。
人は思ったより色々なことをしている。
意味の分からないことも多い。
それでも皆、当たり前のように生きている。
エリシアは目を細めた。
その時だった。
村の入口から誰かが歩いてくる。
見慣れない少女だった。
年は自分と同じくらい。
肩まで伸びた黒髪。
くたびれた灰色のマント。
背中には大きな荷物。
その足元を見て、エリシアは少し首を傾げた。
靴の底がかなり削れている。
泥も乾いたものと新しいものが混ざっている。
長く歩いてきたのだろう。
たぶん。
少女は広場の端で立ち止まった。
そして村を見回す。
家々。
井戸。
畑。
遠くの森。
順番に。
何かを探しているようにも見えた。
やがて少女の視線が花畑へ向く。
村外れに広がる白い花。
風に揺れている。
少女はしばらくそれを眺めていた。
エリシアは近づいた。
「花が好き?」
少女は少し驚いた顔をした。
それから花畑を見て、
「別に」
と言った。
エリシアは黙った。
会話が終わったと思った。
だが少女は続けた。
「でも、綺麗だとは思う」
「どうして?」
「どうしてって?」
「花は毎年咲く」
「うん」
「今日だけ特別じゃない」
少女は少しだけ笑った。
「そうかもね」
それから花畑を見つめたまま言う。
「でも、誰かが大切にした場所なんだろうなって」
エリシアは花を見る。
いつもの花だった。
毎年咲く花。
村にずっとある花。
「分かるの?」
そう尋ねると、
「全然」
と少女は即答した。
あまりに即答だったので、エリシアは少し驚いた。
「分からないのに?」
「うん」
少女は肩をすくめる。
「分からないから考えるんだよ」
風が吹いた。
花が揺れる。
エリシアはその言葉を頭の中で転がした。
分からないから考える。
今までそんな発想をしたことがなかった。
分からないものは分からない。
それだけだった。
「君は旅人?」
「そう」
「何をするの」
「色々」
曖昧な返事だった。
少女は近くの石に腰を下ろした。
「見たことない景色を見る」
「知らない人と話す」
「変な魔法を集める」
「変な魔法?」
「水を少し甘くする魔法とか」
「必要?」
「全然」
少女は笑った。
「でも面白い」
エリシアにはよく分からなかった。
少女は続ける。
「旅って、意味のないものを集めるのも楽しいんだよ」
しばらく沈黙が落ちた。
遠くで鳥が鳴く。
少女はふと尋ねた。
「君は?」
「私?」
「うん」
「何か探してる顔してる」
エリシアは答えに詰まった。
探している。
そうなのだろうか。
花が揺れる。
ミナの背中が頭をよぎる。
あの日の笑顔。
泣きそうな目。
掠れた声。
あの時からずっと。
胸の奥に残り続けているもの。
「知りたいことがある」
気づけば口にしていた。
少女は黙って聞いている。
「でも何を知りたいのか、うまく言えない」
少女は少しだけ笑った。
馬鹿にするような笑い方ではなかった。
「それも旅の理由になるよ」
エリシアは少女を見る。
少女は立ち上がっていた。
「じゃあ私は行くね」
「もう?」
「旅人だから」
当然のように言う。
その言葉に、エリシアの胸の奥が小さく引っかかった。
まただ。
ミナの時と少し似ている。
行ってしまう。
分からないまま。
少女は歩き出す。
村の出口へ向かって。
その背中を見つめる。
風が吹く。
白い花が揺れる。
気づけばエリシアは口を開いていた。
「待って」
少女が振り返る。
「ん?」
エリシアは自分でも驚いていた。
なぜ呼び止めたのか。
まだ分からない。
けれど。
分からないまま見送るのは嫌だった。
「私も行く」
少女が目を丸くする。
「どこへ?」
エリシアは考えた。
世界のどこか。
知らない場所。
知らない人。
知らない物語。
行き先は決まっていない。
理由もまだ曖昧だった。
それでも。
「まだ分からない」
少女は数秒黙った。
それから吹き出した。
「変な子」
そう言って笑う。
エリシアは少し考える。
それは悪い意味なのだろうか。
たぶん違う。
「私はノア」
少女は手を差し出した。
「ノア」
「君は?」
「エリシア」
差し出された手を見る。
少し迷ってから握る。
温かかった。
その理由は分からない。
ただ。
風の中で揺れる花を見ながら、エリシアは思った。
もしかすると。
知りたいものは、道の先にあるのかもしれない。
白い花が揺れる。
その向こうへ続く道もまた、静かに風に揺れていた。




