第1話「旅立ちの日」
村の外れには白い花が咲いていた。
風が吹くたび、小さな花々は同じ方向へ揺れる。
エリシアはしゃがみ込み、その様子を眺めていた。
なぜ揺れるのかは知っている。
風が吹いているからだ。
では、なぜ咲くのか。
それは知らなかった。
別に困らないので、考えたこともなかった。
「エリシア!」
遠くから声が飛んでくる。
振り返ると、坂道の上でミナが大きく手を振っていた。
その隣には旅支度を整えた荷車がある。
村の人たちも集まっていた。
今日はミナが旅立つ日だった。
エリシアは立ち上がり、花びらを払う。
「行かないの?」
ミナが笑った。
「行く」
「もうみんな集まってるよ」
「そう」
「そう、じゃないでしょ」
ミナは呆れたように肩を落とした。
それから少し考え、
「私、今日から旅人なんだよ?」
と言った。
「知ってる」
「反応薄くない?」
「何て言えばいいの」
「うーん……」
ミナは首を傾げた。
「私も分かんない」
そう言って笑う。
エリシアはその笑顔を見た。
楽しそうだった。
少なくとも、そう見えた。
だから問題はないのだろうと思った。
二人は並んで広場へ向かった。
村はいつもより少しだけ賑やかだった。
荷車の周りに人が集まり、果物や保存食を押しつけている。
旅立ちは珍しいことではない。
それでも、送り出す日はいつもこうなる。
「元気でな」
「たまには手紙を書けよ」
「変な男に騙されるなよ」
「まず旅に出る前に、その忠告を村長に言った方がいいと思うぞ」
誰かが言うと笑い声が起きた。
村長が顔を赤くしている。
エリシアには何がおかしいのか分からなかった。
だが、みんな楽しそうだった。
だから良い冗談なのだろう。
たぶん。
ミナは一人ひとりに返事をしていた。
何度も。
何度も。
同じような言葉を。
エリシアはそれを少し不思議に思った。
一度言えば十分ではないのだろうか。
旅に出る。
また会う。
それだけだ。
なのに村人たちは何度も話しかける。
ミナも何度も答える。
まるで、その時間を引き延ばすように。
「エリシア」
気づけばミナが目の前にいた。
「ん」
「最後くらい何か言ってよ」
「最後?」
「旅立ちの挨拶」
エリシアは考えた。
旅立つ。
また会う。
ならば。
「気をつけて」
「うん」
「帰ってくるなら大丈夫」
ミナの笑顔が少しだけ止まった。
本当に少しだけ。
風で花が揺れるくらいの時間。
「……そうだね」
そう言った。
けれど。
なぜか。
その声は少し掠れて聞こえた。
荷車が動き出した。
村人たちが手を振る。
ミナも振り返す。
何度も。
何度も。
坂道を上りながら。
エリシアはその姿を見送った。
不思議だった。
ミナは笑っている。
なのに。
今にも泣きそうに見える。
なぜだろう。
旅に出ることは望んでいたはずだ。
嫌なら行かなければいい。
帰ってくることもできる。
ならば問題はない。
問題はないのに。
なぜ。
ミナはあんな顔をしているのだろう。
「寂しいんだよ」
隣で誰かが呟いた。
パン屋のおばあさんだった。
「さびしい?」
「うん」
「また会えるのに?」
おばあさんは少しだけ笑った。
それはいつもの笑顔とは違った。
「そうだねぇ」
そして、それ以上は何も言わなかった。
荷車は小さくなっていく。
やがて見えなくなった。
それで終わりだった。
旅立ちは終わった。
村人たちは帰っていく。
広場も静かになる。
いつも通りの一日が始まる。
それなのに。
エリシアはその場に立っていた。
足が動かなかった。
動かない理由は分からない。
悲しいわけではない。
たぶん。
苦しいわけでもない。
たぶん。
ただ。
胸の奥に小さな棘のようなものが残っていた。
言葉にすると違う気がした。
だから言葉にはしなかった。
「ミナは、何であんな顔だったんだろう」
誰もいない広場で呟く。
答える人はいない。
風だけが吹いていた。
村の外れの花畑が揺れている。
エリシアはしばらくそれを眺めていた。
花は何も語らない。
けれど。
なぜだか目を離せなかった。
ミナのことを考えていたのか。
花を見ていたのか。
それとも別の何かだったのか。
エリシアには分からない。
分からないことがある。
それが少しだけ気になった。
生まれて初めてだった。
分からないままで終わらせたくないと思ったのは。
風が吹く。
白い花が揺れる。
エリシアはその向こうを見た。
ミナが消えていった道は、まだ続いていた。




