第三話「懐かしい匂い」
旅に出て三日目のことだった。
昼過ぎ、二人は小さな街道を歩いていた。
道の両側には草原が広がっている。
風は穏やかで、空も高かった。
エリシアは前を歩くノアの背中を見ていた。
ノアはよく喋る。
昨日見た鳥の話。
昔立ち寄った街の話。
変な魔法の話。
内容は特に役に立たない。
けれど本人は楽しそうだった。
「ねえエリシア」
「なに」
「旅って楽しい?」
エリシアは少し考えた。
「まだ分からない」
「そっか」
ノアは笑った。
その返事を予想していたようだった。
しばらく歩く。
すると前方から甘い匂いが流れてきた。
街道沿いに小さな茶屋が見える。
木造の古い建物だった。
軒先ではパンを焼いている。
ノアが立ち止まった。
「どうしたの」
「いい匂い」
エリシアも鼻を鳴らす。
甘い匂いだった。
焼きたてのパンの匂い。
それ以上でも以下でもない。
「パン」
「うん」
「焼いてるから」
「そうだね」
ノアはなぜか笑った。
そして少しだけ黙る。
風が吹く。
パンの匂いが流れる。
「懐かしいな」
と、ノアが言った。
エリシアは首を傾げた。
「懐かしい?」
「うん」
「なにが」
ノアは少し考えた。
「昔いた街を思い出した」
「同じパン?」
「違うと思う」
「同じ店?」
「全然違う」
「じゃあ何が同じなの」
ノアは困ったように笑った。
「分かんない」
エリシアは黙った。
分からない。
それなのに懐かしい。
理屈がおかしい気がした。
茶屋に入り、二人はパンを買った。
窓際の席に座る。
外では風が草を揺らしている。
ノアはパンを一口食べた。
それから少しだけ遠くを見る。
何かを見ているようで。
何も見ていないようだった。
「昔ね」
ノアが言う。
「旅を始めたばかりの頃、この匂いがする店によく通ってたんだ」
「その街が好きだった?」
「どうだろう」
ノアは首を傾げた。
「街というより、人かな」
「誰」
「忘れた」
エリシアはパンを持ったまま止まった。
忘れた。
今、忘れたと言った。
「忘れたのに懐かしいの」
「うん」
「おかしくない?」
「おかしいね」
ノアは笑う。
少しだけ寂しそうに。
エリシアには見えた。
なぜそう見えたのかは分からない。
けれど、そう見えた。
窓の外で風が吹く。
白い雲が流れていく。
ノアはその雲を見上げていた。
「人ってさ」
ぽつりと言う。
「結構忘れるんだよ」
「そう」
「名前も」
「うん」
「顔も」
「うん」
「でも、残るものがある」
エリシアは黙って聞いていた。
ノアは笑う。
今度は本当に少しだけ。
「変だよね」
それ以上は何も言わなかった。
帰り道。
夕暮れが近づいていた。
街道を歩きながら、エリシアは考えていた。
忘れたのに残るもの。
顔も。
名前も。
場所も。
思い出せないのに。
残るもの。
それは何なのだろう。
風が吹く。
どこかからパンの匂いが流れてきた。
その瞬間。
ほんの少しだけ。
村の景色が頭をよぎった。
花畑。
坂道。
旅立つ日のミナ。
掠れた声。
振り返る背中。
ほんの一瞬だった。
けれど確かに浮かんだ。
エリシアは立ち止まる。
「どうしたの?」
前を歩いていたノアが振り返る。
エリシアは答えなかった。
胸の奥に、小さな違和感があった。
痛みではない。
苦しさでもない。
けれど。
どこか温かい。
名前の分からない感覚だった。
「……分からない」
小さく呟く。
ノアは少し笑った。
「そっか」
それだけ言う。
答えは教えなかった。
二人は再び歩き出す。
夕暮れの道を。
風の吹く方へ。
その先に何があるのか。
エリシアにはまだ分からなかった。




