表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/3

第三話「懐かしい匂い」

旅に出て三日目のことだった。


昼過ぎ、二人は小さな街道を歩いていた。


道の両側には草原が広がっている。


風は穏やかで、空も高かった。


エリシアは前を歩くノアの背中を見ていた。


ノアはよく喋る。


昨日見た鳥の話。


昔立ち寄った街の話。


変な魔法の話。


内容は特に役に立たない。


けれど本人は楽しそうだった。


「ねえエリシア」


「なに」


「旅って楽しい?」


エリシアは少し考えた。


「まだ分からない」


「そっか」


ノアは笑った。


その返事を予想していたようだった。


しばらく歩く。


すると前方から甘い匂いが流れてきた。


街道沿いに小さな茶屋が見える。


木造の古い建物だった。


軒先ではパンを焼いている。


ノアが立ち止まった。


「どうしたの」


「いい匂い」


エリシアも鼻を鳴らす。


甘い匂いだった。


焼きたてのパンの匂い。


それ以上でも以下でもない。


「パン」


「うん」


「焼いてるから」


「そうだね」


ノアはなぜか笑った。


そして少しだけ黙る。


風が吹く。


パンの匂いが流れる。


「懐かしいな」


と、ノアが言った。


エリシアは首を傾げた。


「懐かしい?」


「うん」


「なにが」


ノアは少し考えた。


「昔いた街を思い出した」


「同じパン?」


「違うと思う」


「同じ店?」


「全然違う」


「じゃあ何が同じなの」


ノアは困ったように笑った。


「分かんない」


エリシアは黙った。


分からない。


それなのに懐かしい。


理屈がおかしい気がした。


茶屋に入り、二人はパンを買った。


窓際の席に座る。


外では風が草を揺らしている。


ノアはパンを一口食べた。


それから少しだけ遠くを見る。


何かを見ているようで。


何も見ていないようだった。


「昔ね」


ノアが言う。


「旅を始めたばかりの頃、この匂いがする店によく通ってたんだ」


「その街が好きだった?」


「どうだろう」


ノアは首を傾げた。


「街というより、人かな」


「誰」


「忘れた」


エリシアはパンを持ったまま止まった。


忘れた。


今、忘れたと言った。


「忘れたのに懐かしいの」


「うん」


「おかしくない?」


「おかしいね」


ノアは笑う。


少しだけ寂しそうに。


エリシアには見えた。


なぜそう見えたのかは分からない。


けれど、そう見えた。


窓の外で風が吹く。


白い雲が流れていく。


ノアはその雲を見上げていた。


「人ってさ」


ぽつりと言う。


「結構忘れるんだよ」


「そう」


「名前も」


「うん」


「顔も」


「うん」


「でも、残るものがある」


エリシアは黙って聞いていた。


ノアは笑う。


今度は本当に少しだけ。


「変だよね」


それ以上は何も言わなかった。


帰り道。


夕暮れが近づいていた。


街道を歩きながら、エリシアは考えていた。


忘れたのに残るもの。


顔も。


名前も。


場所も。


思い出せないのに。


残るもの。


それは何なのだろう。


風が吹く。


どこかからパンの匂いが流れてきた。


その瞬間。


ほんの少しだけ。


村の景色が頭をよぎった。


花畑。


坂道。


旅立つ日のミナ。


掠れた声。


振り返る背中。


ほんの一瞬だった。


けれど確かに浮かんだ。


エリシアは立ち止まる。


「どうしたの?」


前を歩いていたノアが振り返る。


エリシアは答えなかった。


胸の奥に、小さな違和感があった。


痛みではない。


苦しさでもない。


けれど。


どこか温かい。


名前の分からない感覚だった。


「……分からない」


小さく呟く。


ノアは少し笑った。


「そっか」


それだけ言う。


答えは教えなかった。


二人は再び歩き出す。


夕暮れの道を。


風の吹く方へ。


その先に何があるのか。


エリシアにはまだ分からなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ