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お前の番

 その日、雨が降っていた。

 放課後になっても、窓の外は暗いままだった。

 俺は教室に残っていた。

 勉強をするつもりだった。

 実際、机の上には参考書を広げていた。

 けれど、さっきから同じ問題を見つめている。

 解き方は分かる。

 答えも出せる。

 それなのに、手が動かなかった。

「玲」

 声がした。

 顔を上げる。

 あいつが、教室の入り口に立っていた。

「……何?」

「帰ろう」

「悪い。まだ勉強する」

「うん。だから、終わるまで待つ」

「待たなくていいよ」

「俺が待ちたいんだよ」

 あいつは、そう言って笑った。

 俺は、参考書に視線を落とした。

「……好きにしろ」

「そうする」

 あいつは近くの席に座った。

 鞄からノートを取り出す。

 小説の続きを書くつもりなのだろう。

 しばらく、雨の音だけが聞こえていた。

 俺は問題を解こうとした。

 式を書く。

 途中で止まる。

 消しゴムで消す。

 もう一度書く。

 また止まる。

 何をしているんだろう。

 俺は、ペンを置いた。

「……お前さ」

「ん?」

「何で、そんなに普通なんだよ」

 あいつが顔を上げた。

「普通って?」

「いや……」

 自分でも、何を聞きたいのか分からなかった。

 あいつは少し考えてから、答えた。

「普通にしてるつもりだけど」

「そうじゃなくて」

 俺は、言葉を探した。

「もっと、焦らないのかよ」

「何に?」

「……何でも」

 あいつは、すぐには答えなかった。

 その沈黙に耐えられず、俺は続けた。

「勉強だって、部活だって、小説だって。お前、やりたいことがいっぱいあるだろ」

「うん」

「全部できるわけじゃない」

「そうだな」

「時間だって限られてる。何かをしてる間に、他の誰かはもっと先に進んでるかもしれない」

「うん」

「それなのに、お前は……」

 言葉が途切れた。

 あいつは、俺を見ていた。

「……玲」

「何だよ」

「それ、今のお前の話?」

 胸の奥が、強く揺れた。

「違う」

 すぐに答えた。

 けれど、声が少しだけ裏返った。

 あいつは、何も言わなかった。

 俺は、目をそらした。

「俺は、別に……」

「うん」

「次は一位を取る。それだけだ」

「うん」

「やることは分かってる。間違えた問題も分析した。勉強の計画も立ててる」

「うん」

「だから、問題ない」

 俺は、あいつを見た。

「……何か言えよ」

 あいつは、少し困ったような顔をした。

「何を?」

「何でもいいから」

 声が大きくなった。

 教室に、俺の声が響く。

 雨の音が、一瞬だけ遠くなったような気がした。

 あいつは、静かに言った。

「無理に大丈夫だって言わなくてもいいんじゃないか」

 俺は、何も言えなかった。

「俺だって、まだ全然できてないよ」

 あいつは、自分のノートを見た。

「小説も、思ったほど進まないし。勉強だって、もっとやれたなって思う日がある」

「……」

「今でも、誰かと比べて落ち込むことはある」

 あいつは、少しだけ笑った。

「前よりは減ったけどな」

 俺は、その言葉を聞いていた。

「でも、前みたいに、できなかったことだけで一日全部を駄目にしなくてもいいかなって。最近は、少しだけ思えるようになった」

「……どうして」

「え?」

「どうして、そんなふうに思えるんだよ」

 自分でも驚くほど、弱い声だった。

 あいつは、しばらく考えていた。

「……分かんない」

「は?」

「いや、本当に。まだ、うまく説明できない」

 あいつは頭をかいた。

「でも、前に玲が言ってくれたこととか、いろいろ考えて。少しずつ、そう思えるようになったんだと思う」

「俺が?」

「うん」

 俺は、顔を伏せた。

 あいつは、俺のことを信頼してくれている。

 以前、俺があいつに言った言葉を覚えている。

 俺が、何気なく言ったことを。

 それなのに。

 俺自身は、その言葉を自分に向けられなかった。

「……俺は、駄目だな」

 気づけば、そう口にしていた。

 あいつは、すぐには何も言わなかった。

 俺は、膝の上で手を握った。

「お前は変わったのに」

 声が、少し震えた。

「自分の歩幅で進めるようになったのに。俺は、何も変わってない」

「そんなことないだろ」

「あるよ」

 俺は、顔を上げた。

「俺は、ずっと一位だったんだ」

 言葉が、止まらなくなった。

「ずっとだ。中学でも、高校でも。試験があれば一位を取ってきた。勉強して、間違えたところを直して、また勉強して。そうすれば、結果はついてきた」

「……うん」

「だから、俺は……」

 喉が詰まった。

 言いたくなかった。

 自分でも、認めたくなかった。

 それでも。

「一位じゃなくなったら、どうすればいいのか分からないんだ」

 あいつは、何も言わなかった。

「四位になった。次も四位だった。点数は上がったのに、順位は変わらなかった」

 俺は笑おうとした。

 うまく笑えなかった。

「おかしいよな。四位だぞ。悪い成績じゃない。そんなこと、俺が一番分かってる」

「うん」

「でも、悔しいんだよ」

 初めて、言葉にした。

「悔しい。怖い。次も一位じゃなかったらどうしようって、ずっと考えてる」

 胸の奥に押し込めていたものが、少しずつ溢れてきた。

「勉強しても安心できない。休んでると、誰かに追い抜かれる気がする。点数が上がっても、順位が上がらなかったら意味がないって思ってしまう」

 俺は、目を閉じた。

「……俺、何のために勉強してるんだろうな」

 雨が降り続いていた。

 あいつは、しばらく黙っていた。

 そして、ゆっくりと口を開いた。

「玲は、何で一位になりたいんだ?」

「……は?」

「いや、勝ちたいのは分かる。でも、それだけじゃないんだろ?」

 俺は、答えられなかった。

 何で。

 何で、一位になりたいのか。

 昔は、もっと単純だった気がする。

 問題が解けるのが嬉しかった。

 知らないことを知るのが面白かった。

 前よりできるようになることが、楽しかった。

 そして、結果が出ると、周りが喜んでくれた。

 自分の努力が認められる。

 期待に応えられる。

 自分は、必要とされている。

 そう思えた。

「……期待されてるから」

 俺は、ようやく答えた。

「期待されてると、応えなきゃって思う」

「うん」

「一位を取れば、みんな喜んでくれる。先生も、親も。周りも、安心してくれる」

 言葉を重ねるたびに、自分の本音が見えてくる。

「俺が一位なら、みんなは俺をすごいって言う。さすがだって言う。次も頑張れって言う」

「うん」

「……でも」

 俺は、手を握り直した。

「もし一位じゃなくなったら」

 声が、かすれた。

「みんな、俺をどう思うんだろう」

 あいつは、すぐに答えなかった。

 俺は、続けた。

「期待外れだと思うかもしれない。今までの俺は、たまたま運がよかっただけだって思うかもしれない。大したことない人間だったんだって」

「……玲」

「分かってる。そんなこと、考えすぎだって分かってる。でも、怖いんだよ」

 俺は、あいつを見た。

「一位でいられないことが怖いんだ」

 言葉にすると、胸が痛かった。

「一位じゃない俺を、俺自身が認められないんだよ」

 そこで、声が途切れた。

 教室が静かになった。

 あいつは、何も言わずに俺の隣にいた。

 励まそうともしなかった。

 大丈夫だとも言わなかった。

 ただ、そこにいた。

 そのことが、少しだけ救いだった。

「……俺さ」

 あいつが、静かに言った。

「前に、玲に言われたことがあるんだ」

「……何?」

「俺、お前と競争してるつもりないって」

 胸の奥が、また揺れた。

「あのとき、俺はずっと玲と自分を比べてた。勉強も、運動も、人付き合いも。玲ができることは、俺もできなきゃいけないって思ってた」

 あいつは、机の上のノートを閉じた。

「でも、玲は俺を二番だと思ったことがないって言ってくれた」

「……」

「俺が何位でも、俺は俺だって。あのときは、ちゃんと分からなかったけど」

 あいつは、少しだけ笑った。

「今は、少し分かる気がする」

 俺は、何も言えなかった。

「玲が一位じゃなくなっても、俺は玲を別の人間だと思ったりしないよ」

 その言葉は、静かだった。

 特別なことを言っているつもりもないのだろう。

 ただ、本当にそう思っている。

 それが分かった。

「……お前は」

 俺は、声を絞り出した。

「お前は、そう思えるんだな」

「まだ、練習中だけどな」

 あいつは苦笑した。

「俺だって、できないことはいっぱいあるし」

 その答えに、俺は少しだけ笑った。

 ほんの少し。

 でも、久しぶりに、自然に笑えた気がした。

「……ずるいな」

「何が?」

「そういうこと、さらっと言うところ」

「ええ……」

 あいつは困ったように笑った。

 俺も、少し笑った。

 そのあと、俺はしばらく黙っていた。

 まだ、全部を受け入れられたわけではない。

 明日になれば、また順位のことを考えるだろう。

 次の模試で一位を取りたいと思うだろう。

 四位という数字が、また頭をよぎるかもしれない。

 それでも。

 今だけは、少しだけ肩の力を抜いてもいい気がした。

「……なあ」

「ん?」

「俺、まだ一位を取りたい」

 あいつは、頷いた。

「うん」

「次は、一位になりたい。ちゃんと努力して、結果を出したい」

「うん」

「……でも、もう少しだけ、休んでもいいのかな」

 言った瞬間、胸の奥が痛んだ。

 そんなことを口にする自分が、情けなかった。

 けれど、あいつは笑わなかった。

「いいんじゃない?」

 それだけだった。

 いいんじゃない。

 あまりにも簡単な言葉だった。

 でも。

 俺は、その言葉をすぐには否定できなかった。

     *

 雨は、いつの間にか弱くなっていた。

 俺たちは、教室を出た。

 廊下の窓から、濡れた校庭が見えた。

「傘、持ってる?」

 あいつが聞いた。

「あるよ」

「俺も」

「じゃあ、別々だな」

「何でだよ。一緒に帰ろうぜ」

「傘があるだろ」

「傘があっても一緒に帰れるだろ」

 俺は、少しだけ笑った。

「……そうだな」

 昇降口で靴を履き替える。

 傘を開く。

 雨の匂いがした。

 俺たちは、並んで歩き始めた。

 いつもの帰り道。

 いつもの会話。

 何も解決していない。

 俺は、まだ四位のままだ。

 次の試験で一位を取れる保証もない。

 それでも。

 今は、隣に友人がいる。

 そのことを、俺は素直に嬉しいと思った。


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