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17/17

空

 翌日から、突然何かが変わったわけではなかった。

 俺は、いつもどおり学校へ行った。

 授業を受けた。

 部活にも参加した。

 帰宅後は勉強をした。

 何もかも、以前と同じだった。

 ただ。

 勉強を終える時間を、少しだけ決めるようにした。

 予定していた範囲が終わらなくても、必要以上に自分を責めない。

 間違えた問題があれば、原因を確認する。

 それでも分からなければ、翌日にもう一度考える。

 そのくらいでいい。

 そう思おうとした。

 最初は、落ち着かなかった。

 机を離れても、頭の中では問題のことを考えていた。

 今の時間も勉強していれば、もっと先へ進めるのではないか。

 他の誰かは、今も努力しているのではないか。

 そんな考えが浮かんだ。

 それでも、俺は机を離れた。

 自分で決めた時間だったからだ。

 休んでいる間、何度も時計を見た。

 けれど、何も起こらなかった。

 誰かに追い抜かれたと分かるわけでもない。

 自分の価値がなくなるわけでもない。

 ただ、時間が過ぎていった。

 それだけだった。

 その当たり前のことに、俺は少しずつ慣れていった。

     *

 次の定期試験が近づいた頃。

 俺は、以前よりも落ち着いて勉強できるようになっていた。

 もちろん、不安がなくなったわけではない。

 試験が近づけば、順位が気になる。

 難しい問題に出会えば、焦る。

 自分より成績のいい人間がいると知れば、悔しいと思う。

 それは、変わらなかった。

 ただ、以前なら、その感情を消そうとしていた。

 悔しがる自分が嫌だった。

 不安になる自分が嫌だった。

 だから、もっと勉強した。

 もっと努力した。

 そうしていれば、いつか不安がなくなると思っていた。

 今は、少しだけ違う。

 悔しいなら、悔しいままでいい。

 不安なら、不安なままでもいい。

 そのうえで、できることをすればいい。

 そう考えられる日が、少しずつ増えていた。

     *

 定期試験の結果が返ってきた。

 俺は、答案を受け取った。

 点数を確認する。

 悪くない。

 前回よりも、少し上がっている科目もあった。

 順位は、まだ出ていなかった。

 俺は答案をしまい、息を吐いた。

 悔しくないわけではない。

 もっと取れたはずだと思う問題もある。

 次は、もっと上を目指したい。

 その気持ちは、今もある。

 けれど。

 俺は、答案をもう一度取り出した。

 間違えた問題を確認する。

 なぜ間違えたのか。

 次は、どうすればいいのか。

 それを考えること自体は、嫌いではなかった。

 問題が解けるようになるのは、やっぱり嬉しい。

 知らなかったことを知るのも、面白い。

 俺は、勉強が嫌いになったわけではなかった。

 ただ、いつの間にか、勉強の結果だけを見ていた。

 できたか。

 できなかったか。

 勝ったか。

 負けたか。

 その先にあるものを、見なくなっていた。

 俺は、ノートを開いた。

 間違えた問題の解き方を書き直す。

 今度は、ちゃんと理解できた。

 少しだけ、嬉しかった。

 その気持ちを、今度は否定しなかった。

     *

 放課後。

 教室を出ると、あいつが廊下で待っていた。

「終わった?」

「何が?」

「勉強」

「終わった」

「じゃあ帰ろうぜ」

「……お前、最近よく待ってるな」

「そうか?」

「そうだよ」

 あいつは、少しだけ笑った。

「まあ、たまにはいいだろ」

「毎日だと、たまにじゃないけどな」

「細かいこと気にするなよ」

「お前が言うな」

 俺たちは笑った。

 校舎を出る。

 空は、よく晴れていた。

 風が吹いて、校庭の木々が揺れた。

 俺は、何となく空を見上げた。

 以前なら、こんな時間は無駄だと思っていたかもしれない。

 早く帰って勉強しなければ。

 少しでも先に進まなければ。

 そんなことばかり考えていた。

 今だって、やるべきことはある。

 明日の予習もしたい。

 苦手な問題も復習したい。

 次の試験では、もっといい結果を出したい。

 その気持ちは、なくなっていない。

 でも。

 今は、空を見上げている。

 それだけの時間があってもいい。

「何してんの?」

 あいつが聞いた。

「いや、空」

「見れば分かる」

「じゃあ聞くなよ」

 俺は笑った。

 あいつも笑った。

 中学の頃から、何度も繰り返してきたような会話だった。

 それなのに、今は少し違って感じられた。

 俺は、あいつの隣にいる。

 追い越そうともしていない。

 置いていかれないように、必死に歩幅を合わせているわけでもない。

 ただ、隣を歩いている。

「なあ」

 俺は、あいつに声をかけた。

「ん?」

「俺、次の試験も一位を目指すよ」

 あいつは、頷いた。

「うん」

「……でも、また一位じゃなかったら、悔しいと思う」

「そりゃそうだろ」

「それでも、前よりはちゃんと勉強できる気がする」

 あいつは、少し考えてから言った。

「いいんじゃない?」

 その言葉に、俺は笑った。

「お前、そればっかりだな」

「便利だからな」

「何がだよ」

「いいんじゃない、って言葉」

 あいつは、少し照れくさそうに笑った。

「全部を解決できるわけじゃないけどさ。別に、全部を今すぐ解決しなくてもいいだろ」

 俺は、黙って聞いていた。

「俺だって、まだ迷うことはあるし。玲だって、これからいろいろ考えるんだと思う」

「……うん」

「だから、今はそれでいいんじゃない?」

 俺は、空を見上げた。

 青い空だった。

 特別にきれいなわけではない。

 雲が少し浮かんでいて、風が吹いている。

 いつもと変わらない空。

 でも、今日は少しだけ、ゆっくり見ていられた。

「……そうだな」

 俺は答えた。

 そして、歩き始めた。

 あいつと並んで。

     *

 その後、俺が一位を取り戻したのかどうか。

 それは、また別の話だ。

 俺は、これからも一位を目指すだろう。

 問題が解ければ嬉しいし、努力が結果につながれば、きっと喜ぶ。

 誰かに追い抜かれれば、悔しいと思う。

 その気持ちまで、なくす必要はない。

 ただ。

 もう、一位でなければ何もかも意味がないとは思いたくなかった。

 四位になった俺も。

 悔しがっている俺も。

 まだ自分の歩幅を探している俺も。

 全部、俺だ。

 そう思えるようになるには、まだ時間がかかるだろう。

 明日になれば、また不安になるかもしれない。

 次の試験の前には、眠れない夜があるかもしれない。

 それでも。

 俺は、少しずつ覚えていけばいい。

 努力することと、自分を追い詰めることは違う。

 前に進むことと、誰かを追い越すことは違う。

 一位を目指すことと、一位でなければならないと思い込むことも、きっと違う。

 俺は、まだ完璧ではない。

 これからも、完璧にはなれないのかもしれない。

 それでも、いい。

 ……いや。

 まだ、そう言い切れるほど強くはない。

 それでも。

 そう思える瞬間が、少しずつ増えてきた。

 隣を歩く友人が、何かくだらないことを言った。

 俺は笑った。

 そのあと、少しだけ歩く速度を落とした。

 あいつに合わせるためではない。

 追い越さないためでもない。

 ただ、今の自分が歩きやすい速度だったからだ。

 俺たちは、そのまま歩いていった。

 明日も、たぶん同じ道を歩くだろう。

 模試があっても。

 順位が変わっても。

 思いどおりにいかないことがあっても。

 俺は、また悩むのだと思う。

 それでも、もう少しだけ。

 自分の歩幅で進んでみようと思った。

 空は、どこまでも広かった。

 俺は、その広さを怖いと思う。

 まだ、怖い。

 けれど。

 その広さの中に、自分の立っている場所があることも。

 今は、少しだけ分かる気がした。


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