空
翌日から、突然何かが変わったわけではなかった。
俺は、いつもどおり学校へ行った。
授業を受けた。
部活にも参加した。
帰宅後は勉強をした。
何もかも、以前と同じだった。
ただ。
勉強を終える時間を、少しだけ決めるようにした。
予定していた範囲が終わらなくても、必要以上に自分を責めない。
間違えた問題があれば、原因を確認する。
それでも分からなければ、翌日にもう一度考える。
そのくらいでいい。
そう思おうとした。
最初は、落ち着かなかった。
机を離れても、頭の中では問題のことを考えていた。
今の時間も勉強していれば、もっと先へ進めるのではないか。
他の誰かは、今も努力しているのではないか。
そんな考えが浮かんだ。
それでも、俺は机を離れた。
自分で決めた時間だったからだ。
休んでいる間、何度も時計を見た。
けれど、何も起こらなかった。
誰かに追い抜かれたと分かるわけでもない。
自分の価値がなくなるわけでもない。
ただ、時間が過ぎていった。
それだけだった。
その当たり前のことに、俺は少しずつ慣れていった。
*
次の定期試験が近づいた頃。
俺は、以前よりも落ち着いて勉強できるようになっていた。
もちろん、不安がなくなったわけではない。
試験が近づけば、順位が気になる。
難しい問題に出会えば、焦る。
自分より成績のいい人間がいると知れば、悔しいと思う。
それは、変わらなかった。
ただ、以前なら、その感情を消そうとしていた。
悔しがる自分が嫌だった。
不安になる自分が嫌だった。
だから、もっと勉強した。
もっと努力した。
そうしていれば、いつか不安がなくなると思っていた。
今は、少しだけ違う。
悔しいなら、悔しいままでいい。
不安なら、不安なままでもいい。
そのうえで、できることをすればいい。
そう考えられる日が、少しずつ増えていた。
*
定期試験の結果が返ってきた。
俺は、答案を受け取った。
点数を確認する。
悪くない。
前回よりも、少し上がっている科目もあった。
順位は、まだ出ていなかった。
俺は答案をしまい、息を吐いた。
悔しくないわけではない。
もっと取れたはずだと思う問題もある。
次は、もっと上を目指したい。
その気持ちは、今もある。
けれど。
俺は、答案をもう一度取り出した。
間違えた問題を確認する。
なぜ間違えたのか。
次は、どうすればいいのか。
それを考えること自体は、嫌いではなかった。
問題が解けるようになるのは、やっぱり嬉しい。
知らなかったことを知るのも、面白い。
俺は、勉強が嫌いになったわけではなかった。
ただ、いつの間にか、勉強の結果だけを見ていた。
できたか。
できなかったか。
勝ったか。
負けたか。
その先にあるものを、見なくなっていた。
俺は、ノートを開いた。
間違えた問題の解き方を書き直す。
今度は、ちゃんと理解できた。
少しだけ、嬉しかった。
その気持ちを、今度は否定しなかった。
*
放課後。
教室を出ると、あいつが廊下で待っていた。
「終わった?」
「何が?」
「勉強」
「終わった」
「じゃあ帰ろうぜ」
「……お前、最近よく待ってるな」
「そうか?」
「そうだよ」
あいつは、少しだけ笑った。
「まあ、たまにはいいだろ」
「毎日だと、たまにじゃないけどな」
「細かいこと気にするなよ」
「お前が言うな」
俺たちは笑った。
校舎を出る。
空は、よく晴れていた。
風が吹いて、校庭の木々が揺れた。
俺は、何となく空を見上げた。
以前なら、こんな時間は無駄だと思っていたかもしれない。
早く帰って勉強しなければ。
少しでも先に進まなければ。
そんなことばかり考えていた。
今だって、やるべきことはある。
明日の予習もしたい。
苦手な問題も復習したい。
次の試験では、もっといい結果を出したい。
その気持ちは、なくなっていない。
でも。
今は、空を見上げている。
それだけの時間があってもいい。
「何してんの?」
あいつが聞いた。
「いや、空」
「見れば分かる」
「じゃあ聞くなよ」
俺は笑った。
あいつも笑った。
中学の頃から、何度も繰り返してきたような会話だった。
それなのに、今は少し違って感じられた。
俺は、あいつの隣にいる。
追い越そうともしていない。
置いていかれないように、必死に歩幅を合わせているわけでもない。
ただ、隣を歩いている。
「なあ」
俺は、あいつに声をかけた。
「ん?」
「俺、次の試験も一位を目指すよ」
あいつは、頷いた。
「うん」
「……でも、また一位じゃなかったら、悔しいと思う」
「そりゃそうだろ」
「それでも、前よりはちゃんと勉強できる気がする」
あいつは、少し考えてから言った。
「いいんじゃない?」
その言葉に、俺は笑った。
「お前、そればっかりだな」
「便利だからな」
「何がだよ」
「いいんじゃない、って言葉」
あいつは、少し照れくさそうに笑った。
「全部を解決できるわけじゃないけどさ。別に、全部を今すぐ解決しなくてもいいだろ」
俺は、黙って聞いていた。
「俺だって、まだ迷うことはあるし。玲だって、これからいろいろ考えるんだと思う」
「……うん」
「だから、今はそれでいいんじゃない?」
俺は、空を見上げた。
青い空だった。
特別にきれいなわけではない。
雲が少し浮かんでいて、風が吹いている。
いつもと変わらない空。
でも、今日は少しだけ、ゆっくり見ていられた。
「……そうだな」
俺は答えた。
そして、歩き始めた。
あいつと並んで。
*
その後、俺が一位を取り戻したのかどうか。
それは、また別の話だ。
俺は、これからも一位を目指すだろう。
問題が解ければ嬉しいし、努力が結果につながれば、きっと喜ぶ。
誰かに追い抜かれれば、悔しいと思う。
その気持ちまで、なくす必要はない。
ただ。
もう、一位でなければ何もかも意味がないとは思いたくなかった。
四位になった俺も。
悔しがっている俺も。
まだ自分の歩幅を探している俺も。
全部、俺だ。
そう思えるようになるには、まだ時間がかかるだろう。
明日になれば、また不安になるかもしれない。
次の試験の前には、眠れない夜があるかもしれない。
それでも。
俺は、少しずつ覚えていけばいい。
努力することと、自分を追い詰めることは違う。
前に進むことと、誰かを追い越すことは違う。
一位を目指すことと、一位でなければならないと思い込むことも、きっと違う。
俺は、まだ完璧ではない。
これからも、完璧にはなれないのかもしれない。
それでも、いい。
……いや。
まだ、そう言い切れるほど強くはない。
それでも。
そう思える瞬間が、少しずつ増えてきた。
隣を歩く友人が、何かくだらないことを言った。
俺は笑った。
そのあと、少しだけ歩く速度を落とした。
あいつに合わせるためではない。
追い越さないためでもない。
ただ、今の自分が歩きやすい速度だったからだ。
俺たちは、そのまま歩いていった。
明日も、たぶん同じ道を歩くだろう。
模試があっても。
順位が変わっても。
思いどおりにいかないことがあっても。
俺は、また悩むのだと思う。
それでも、もう少しだけ。
自分の歩幅で進んでみようと思った。
空は、どこまでも広かった。
俺は、その広さを怖いと思う。
まだ、怖い。
けれど。
その広さの中に、自分の立っている場所があることも。
今は、少しだけ分かる気がした。




