変わらない俺
最近、あいつはよく空を見る。
以前は、そんなことをする余裕もなかったはずだ。
授業が終われば勉強のことを考え、部活が終われば帰宅後の予定を考える。何かをしている最中でさえ、次にやるべきことを頭の中で組み立てていた。
いつも何かに追われていた。
そんなあいつが、今では帰り道に立ち止まって、何となく空を眺めている。
「何してんの?」
俺が聞くと、あいつは振り返った。
「いや、空」
「見れば分かる」
「じゃあ聞くなよ」
あいつは笑った。
以前なら、こんな会話をする時間さえ惜しんでいたかもしれない。
俺は少しだけ安心した。
あいつは、変わり始めている。
劇的に何かが変わったわけじゃない。勉強もするし、部活にも出る。小説だって書いている。相変わらず、やりたいことは多いらしい。
ただ、以前ほど自分を責めなくなった。
うまくいかない日があっても、次の日にやり直せばいい。
そう考えられるようになったらしい。
俺は、それが嬉しかった。
あいつが苦しんでいた頃、俺は何もできなかった。
何でもできると思っていた友人が、自分自身のことを何もできない人間だと思い込んでいく。
その姿を、俺はずっと見ていた。
だからこそ、あいつが少しずつ前に進んでいることが嬉しかった。
……もっとも。
「そういえば、今回の模試、いつだっけ?」
「来週」
「うわ、もうそんな時期か」
「お前、勉強してる?」
「してるよ。一応」
「一応って何だよ」
「一応は一応だろ」
あいつは困ったように笑った。
以前のあいつなら、こんなふうに答えられなかっただろう。
勉強していない自分を責めて、他の誰かと比べて、結局はもっと頑張らなければと考える。
そんなことを繰り返していた。
今も、完全に変わったわけではない。
それでも、少しずつ自分の歩幅を見つけている。
なら。
俺だって、いつかは。
「玲?」
「……何?」
「いや、ぼーっとしてるから」
「別に」
「そっか」
あいつは、それ以上聞かなかった。
俺は鞄を持ち直した。
「帰るぞ」
「うん」
俺たちは並んで歩き始めた。
いつもの帰り道。
いつもの会話。
何も変わらない日常。
それなのに、俺の中には、ずっと消えないものがあった。
次の模試。
次の試験。
次の順位。
そして。
一位。
俺は、いつからそれを手放せなくなったのだろう。
*
俺は、これまで一位を取り続けてきた。
中学でも。
高校に入ってからも。
模試でも、定期試験でも、順位が出るものなら、だいたい俺の名前は一番上にあった。
努力はしてきた。
授業を真面目に受ける。
分からない問題を放置しない。
間違えた問題は、なぜ間違えたのかを確認する。
試験前だけ慌てるのではなく、普段から少しずつ積み重ねる。
特別なことをしているつもりはない。
ただ、必要だと思ったことを続けてきただけだ。
だから、結果が出ること自体は不思議ではなかった。
それに。
一位を取ると、周りは喜んでくれた。
「さすが神谷」
「今回も一位かよ」
「どうやったらそんな点取れるんだ?」
先生も、親も、友人も。
俺が結果を出すと、安心したような顔をした。
その顔を見るのが、嫌いではなかった。
自分の努力が認められた気がした。
期待に応えられたと思った。
誰かの役に立てたような気もした。
だから、次も一位を取ろうと思った。
その次も。
さらに、その次も。
いつの間にか、一位を取ることは目標ではなくなっていた。
取って当然のものになっていた。
そして、取れなかったときのことを考えるようになった。
もし二位だったら。
もし三位だったら。
もし、自分より上の人間が現れたら。
俺は、何をすればいいのだろう。
そんなことを考えるたびに、机に向かう時間が増えた。
問題を解いている間は、余計なことを考えずに済んだからだ。
努力していれば、少なくとも何もしていないわけではない。
勉強していれば、前に進んでいるはずだ。
そう思えた。
それでも、不安は消えなかった。
むしろ、努力を重ねるほど、失うことが怖くなっていった。
一位でいるために努力する。
一位でいるから安心する。
安心したくて、また努力する。
その繰り返しだった。
俺は、それを努力家という言葉で片づけていた。
自分が何に怯えているのか、考えないようにしていた。
*
模試の前日。
俺は、いつもより少し早く目が覚めた。
時計を見る。
まだ起きる予定の時間ではない。
もう一度寝ようと思ったが、眠れなかった。
仕方なく起き上がり、机に向かった。
昨日確認した問題を、もう一度解く。
解ける。
次の問題も解ける。
その次も。
それなのに、安心できなかった。
もっと難しい問題が出たら。
自分が忘れている範囲があったら。
他の誰かが、自分よりも勉強していたら。
考え始めると、きりがなかった。
ふと、机の端に置いてあるスマートフォンが目に入った。
あいつからメッセージが届いていた。
『明日、模試だな。終わったら一緒に帰ろうぜ』
短い文章だった。
俺は少し考えてから、返信した。
『いいよ』
すぐに返事が来た。
『じゃあ、終わったら教室で』
俺は画面を閉じた。
あいつは、変わった。
結果がどうであっても、自分の一日を自分のものとして過ごそうとしている。
それができるようになった。
なら、俺も。
俺も、いつか。
……いや。
今は、目の前の問題を解こう。
そう考えて、俺は再びペンを握った。
明日の結果を、少しでも確かなものにするために。
そのときの俺は、まだ知らなかった。
どれだけ準備しても、どれだけ努力しても、思いどおりにならないことがある。
そして。
思いどおりにならなかったとき、自分が何を失ったと思うのか。
俺は、まだ知らなかった。




