↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
10/17

変わらない俺

 最近、あいつはよく空を見る。

 以前は、そんなことをする余裕もなかったはずだ。

 授業が終われば勉強のことを考え、部活が終われば帰宅後の予定を考える。何かをしている最中でさえ、次にやるべきことを頭の中で組み立てていた。

 いつも何かに追われていた。

 そんなあいつが、今では帰り道に立ち止まって、何となく空を眺めている。

「何してんの?」

 俺が聞くと、あいつは振り返った。

「いや、空」

「見れば分かる」

「じゃあ聞くなよ」

 あいつは笑った。

 以前なら、こんな会話をする時間さえ惜しんでいたかもしれない。

 俺は少しだけ安心した。

 あいつは、変わり始めている。

 劇的に何かが変わったわけじゃない。勉強もするし、部活にも出る。小説だって書いている。相変わらず、やりたいことは多いらしい。

 ただ、以前ほど自分を責めなくなった。

 うまくいかない日があっても、次の日にやり直せばいい。

 そう考えられるようになったらしい。

 俺は、それが嬉しかった。

 あいつが苦しんでいた頃、俺は何もできなかった。

 何でもできると思っていた友人が、自分自身のことを何もできない人間だと思い込んでいく。

 その姿を、俺はずっと見ていた。

 だからこそ、あいつが少しずつ前に進んでいることが嬉しかった。

 ……もっとも。

「そういえば、今回の模試、いつだっけ?」

「来週」

「うわ、もうそんな時期か」

「お前、勉強してる?」

「してるよ。一応」

「一応って何だよ」

「一応は一応だろ」

 あいつは困ったように笑った。

 以前のあいつなら、こんなふうに答えられなかっただろう。

 勉強していない自分を責めて、他の誰かと比べて、結局はもっと頑張らなければと考える。

 そんなことを繰り返していた。

 今も、完全に変わったわけではない。

 それでも、少しずつ自分の歩幅を見つけている。

 なら。

 俺だって、いつかは。

「玲?」

「……何?」

「いや、ぼーっとしてるから」

「別に」

「そっか」

 あいつは、それ以上聞かなかった。

 俺は鞄を持ち直した。

「帰るぞ」

「うん」

 俺たちは並んで歩き始めた。

 いつもの帰り道。

 いつもの会話。

 何も変わらない日常。

 それなのに、俺の中には、ずっと消えないものがあった。

 次の模試。

 次の試験。

 次の順位。

 そして。

 一位。

 俺は、いつからそれを手放せなくなったのだろう。

     *

 俺は、これまで一位を取り続けてきた。

 中学でも。

 高校に入ってからも。

 模試でも、定期試験でも、順位が出るものなら、だいたい俺の名前は一番上にあった。

 努力はしてきた。

 授業を真面目に受ける。

 分からない問題を放置しない。

 間違えた問題は、なぜ間違えたのかを確認する。

 試験前だけ慌てるのではなく、普段から少しずつ積み重ねる。

 特別なことをしているつもりはない。

 ただ、必要だと思ったことを続けてきただけだ。

 だから、結果が出ること自体は不思議ではなかった。

 それに。

 一位を取ると、周りは喜んでくれた。

「さすが神谷」

「今回も一位かよ」

「どうやったらそんな点取れるんだ?」

 先生も、親も、友人も。

 俺が結果を出すと、安心したような顔をした。

 その顔を見るのが、嫌いではなかった。

 自分の努力が認められた気がした。

 期待に応えられたと思った。

 誰かの役に立てたような気もした。

 だから、次も一位を取ろうと思った。

 その次も。

 さらに、その次も。

 いつの間にか、一位を取ることは目標ではなくなっていた。

 取って当然のものになっていた。

 そして、取れなかったときのことを考えるようになった。

 もし二位だったら。

 もし三位だったら。

 もし、自分より上の人間が現れたら。

 俺は、何をすればいいのだろう。

 そんなことを考えるたびに、机に向かう時間が増えた。

 問題を解いている間は、余計なことを考えずに済んだからだ。

 努力していれば、少なくとも何もしていないわけではない。

 勉強していれば、前に進んでいるはずだ。

 そう思えた。

 それでも、不安は消えなかった。

 むしろ、努力を重ねるほど、失うことが怖くなっていった。

 一位でいるために努力する。

 一位でいるから安心する。

 安心したくて、また努力する。

 その繰り返しだった。

 俺は、それを努力家という言葉で片づけていた。

 自分が何に怯えているのか、考えないようにしていた。

     *

 模試の前日。

 俺は、いつもより少し早く目が覚めた。

 時計を見る。

 まだ起きる予定の時間ではない。

 もう一度寝ようと思ったが、眠れなかった。

 仕方なく起き上がり、机に向かった。

 昨日確認した問題を、もう一度解く。

 解ける。

 次の問題も解ける。

 その次も。

 それなのに、安心できなかった。

 もっと難しい問題が出たら。

 自分が忘れている範囲があったら。

 他の誰かが、自分よりも勉強していたら。

 考え始めると、きりがなかった。

 ふと、机の端に置いてあるスマートフォンが目に入った。

 あいつからメッセージが届いていた。

『明日、模試だな。終わったら一緒に帰ろうぜ』

 短い文章だった。

 俺は少し考えてから、返信した。

『いいよ』

 すぐに返事が来た。

『じゃあ、終わったら教室で』

 俺は画面を閉じた。

 あいつは、変わった。

 結果がどうであっても、自分の一日を自分のものとして過ごそうとしている。

 それができるようになった。

 なら、俺も。

 俺も、いつか。

 ……いや。

 今は、目の前の問題を解こう。

 そう考えて、俺は再びペンを握った。

 明日の結果を、少しでも確かなものにするために。

 そのときの俺は、まだ知らなかった。

 どれだけ準備しても、どれだけ努力しても、思いどおりにならないことがある。

 そして。

 思いどおりにならなかったとき、自分が何を失ったと思うのか。

 俺は、まだ知らなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。