第5話 雨の公園、届かなかった言葉の行方
季節外れの冷たい雨が、容赦なく街を打ち据えていた。
アスファルトに叩きつけられる雨粒の音が、夕方の喧騒を重く、くぐもったものに変えている。傘を打つ雨音の連続は、まるで俺の心の中で渦巻いている焦燥感をそのまま音に変換したかのようだった。
Twotterのあのアカウントを見つけてから、三日が経過していた。
その間、俺の精神状態は控えめに言っても最悪だった。プロジェクトの進捗報告会議でも上の空になりかけ、凛に何度も机の下で足を蹴られてようやく我に返るような有様だった。パソコンの画面を見ていても、書類の文字を追っていても、脳裏に浮かぶのは茜が吐き出していた血の滲むような本音の数々だ。
『誰も私を褒めてくれない。誰も私を認めてくれない。透明人間になったみたいだ』
その言葉が、鋭い棘のように俺の心臓に突き刺さったまま、抜ける気配がない。
仕事が終わり、駅前のオフィスビルを出た俺は、ビニール傘を広げて溜息を吐いた。まっすぐマンションに帰る気になれず、俺は無意識のうちに、いつもとは違う遠回りのルートへと足を踏み出していた。
冷たい雨の中を、宛もなく歩く。
靴の底からじんわりと冷気が這い上がってくるが、頭の中だけは異常に熱かった。
茜に連絡を取るべきか。それとも、このまま知らないふりをするべきか。
葛藤が堂々巡りを繰り返す。彼女の本当の苦しみを知ってしまった以上、ただの「幼馴染」という安全な場所に留まり続けることは、ひどく卑怯な振る舞いに思えた。だが、踏み込めばどうなる? 彼女の夫は翔太であり、彼女にはさくらちゃんという守るべき存在がいるのだ。俺が中途半端に手を差し伸べることは、彼女の家庭を完全に破壊し、取り返しのつかない事態を引き起こすトリガーになりかねない。
ぐるぐると同じ思考を繰り返しながら歩いているうちに、俺は懐かしい場所に行き当たっていた。
少し先の小さな公園。
高校時代、テスト期間中にお互いのノートを広げて勉強を教え合ったり、他愛のない話で何時間も時間を潰したりした、思い出の場所だ。
再開発エリアの端に位置するこの公園も、いずれは取り壊され、新しい商業施設の一部になることが決まっている。
雨の日の夜ということもあり、公園には街灯の薄暗い光が落ちているだけで、人影は全くなかった。
通り過ぎようとした、その時だった。
視界の端、錆びついたブランコのところに、小さなシルエットが蹲っているのが見えた。
最初は、雨宿りをしている野良猫か何かだと思った。しかし、目を凝らすと、それは明らかに人間の姿だった。
傘もささず、フードも被らず、ただ雨に打たれるがままになっている女性。
薄暗闇と雨のベールに阻まれて、最初は誰だか分からなかった。だが、その華奢な肩のラインと、濡れて首筋に張り付いた栗色の髪を見た瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。
見間違えるはずがない。
俺がこの数日間、いや、何年間も頭から離れることのなかった彼女だった。
「……茜?」
声を出したつもりだったが、雨音に掻き消されたのか、彼女はピクリとも動かなかった。
俺は傘を放り出しそうになる衝動を抑え、水たまりを跳ね飛ばしながらブランコへと駆け寄った。
「茜! 何やってるんだ、こんな所で!」
俺は彼女の頭上に傘を差し掛け、大きな声を張り上げた。
ゆっくりと、彼女が顔を上げる。
街灯の光に照らし出されたその顔を見て、俺は息を呑んだ。
ずぶ濡れになった顔は、血の気が失せて真っ白だった。そして、雨水なのか涙なのか分からない水滴が、絶え間なく彼女の頬を伝い落ちている。目の焦点は虚ろで、俺の姿を認識するまでに数秒の時間を要したようだった。
「……健、ちゃん……?」
掠れた、消え入りそうな声だった。
唇は寒さで紫色に変色し、全身が小刻みに震えている。カーディガンもスカートも雨水を吸って重く垂れ下がり、彼女の体温を容赦なく奪っていた。
「どうしたんだよ。こんな雨の中で傘もささずに……風邪引くぞ」
「健、ちゃん……なんで……」
「たまたま通りかかったんだ。とりあえず、立って。どこか暖かい場所に行こう。近くにファミレスがあるから」
俺は空いている方の手で、彼女の冷え切った腕を掴もうとした。
しかし、茜はその手を振り払い、力なく首を横に振った。
「嫌……帰りたくない……」
「帰るって、家に帰れなんて言ってない。とにかくここから離れよう」
「もう、嫌だ……。私、あそこには戻れない……」
茜は両手で顔を覆い、しゃくり上げるように泣き始めた。
静かな嗚咽ではなく、心の底から搾り出すような、ひどく痛々しい泣き声だった。
俺は傘を持つ手に力を込め、彼女の隣のブランコに腰を下ろした。冷たい鉄の感触がズボン越しに伝わってきたが、そんなことはどうでもよかった。
「何があった。……翔太か」
その名前を出した瞬間、茜の肩がビクッと大きく跳ねた。
彼女は顔を覆ったまま、震える声で途切れ途切れに話し始めた。
「今日……翔太が、珍しく早く帰ってきたの。でも、すごく機嫌が悪くて……。私が作った夕飯を見て、『こんな餌みたいなもん食えるか』って……お皿、払いのけられて」
「……なんだと?」
「私が、少しでも温かいものをって、急いで作ったのに……。それで、私、どうしても我慢できなくて、言い返しちゃったの。最近全然家にいないし、さくらの顔も見てないじゃないって」
茜の震える声が、雨音に混じって俺の耳に届く。
その内容の酷さに、俺の奥歯がギリリと音を立てた。
「そしたら翔太、『誰の金で飯が食えてると思ってるんだ』って……。『お前なんて、ただ家にいて家事してるだけだろ。そんなの、家事代行雇えば誰でもできる。お前には何の価値もない、俺の足手まといだ』って……」
「ふざけるな……!」
俺の口から、無意識のうちに激しい怒声が漏れていた。
Twotterで見た愚痴など比ではない。それは、一人の人間の尊厳を根底から踏みにじる、絶対的な暴力だった。
あの自信家で傲慢な男が、自分を正当化するために、最も身近にいる妻をサンドバッグにしている。彼女がどれだけ家事や育児に奮闘しているかを無視し、「稼いでいる」というただ一点の優位性だけで、彼女の存在価値を完全に否定したのだ。
「私、もう分かんないよ……。私なりに、一生懸命やってきたつもりだったのに。良い奥さんになろう、良いお母さんになろうって、ずっと我慢してきたのに。……私って、本当に何もできない、空っぽな人間だったのかな……」
茜は顔を上げ、すがるような目で俺を見た。
その瞳には、深い絶望と、自己否定の闇が広がっていた。
かつて太陽のように明るく、誰に対しても優しく笑いかけていた彼女の面影は、そこにはなかった。翔太という男によって、少しずつ、少しずつ心を削り取られ、ボロボロにされてしまった一人の女性がそこにいた。
「違う! 茜は何も悪くない。悪いのは全部あいつだ。あいつが最低なだけだ!」
「でも、私がもっと上手くやれてたら……」
「自分を責めるな! 茜は昔から、誰よりも優しくて、人の痛みが分かる人間だろ。お前が価値のない人間なわけがない!」
俺は必死に言葉を紡いだ。彼女の心にまとわりつく黒い呪いを、なんとかして振り払いたかった。
しかし、俺の言葉が彼女に届いているのかどうか、分からなかった。茜はただ、力なく首を振り続けている。
「……もう、疲れたの。誰の顔色も窺いたくない。怒鳴り声も聞きたくない。……健ちゃん」
茜はふらりと立ち上がり、俺の方へと一歩踏み出した。
傘の下、わずかな空間で、俺と茜の距離がゼロに近づく。
彼女の濡れた髪から漂う、微かなシャンプーの香りと、雨の匂いが混ざり合って俺の鼻腔をくすぐった。
「私……あの時、健ちゃんを選んでいればよかったのかな」
その言葉は、俺の鼓膜を震わせ、脳髄を直接揺らした。
「……え?」
「高校の時……屋上で、翔太くんに告白された時。あの時、本当は……健ちゃんが来てくれるんじゃないかって、少しだけ期待してたの。健ちゃんが『やめろ』って言って、私を連れ出してくれるんじゃないかって……」
時間が、止まった。
雨粒が空中で静止し、街の騒音が完全に消え去ったような錯覚に陥った。
俺の心臓が、痛いほどの早さで警鐘を鳴らし始める。
「でも、健ちゃんは来なかった。私は翔太くんの勢いに押し切られて……それで、これが正解なんだって自分に言い聞かせた。でも、違った。最初から、間違ってたんだよ……」
茜は俺の胸元に崩れ落ちるようにして、その顔を押し付けてきた。
俺はとっさに傘を落とし、彼女の華奢な体を支えた。冷え切った彼女の体温が、シャツ越しに俺の肌に伝わってくる。
「健ちゃん……助けて。私を、ここから連れ出して……。もう、あの家には戻りたくない……!」
茜の細い腕が、俺の背中に回され、強く、強くしがみついてきた。
俺の胸の中で、彼女が子どものように声を上げて泣いている。
その涙の熱さが、俺の胸を焦がしていく。
理性の糸が、ブチブチと音を立ててちぎれていくのが分かった。
彼女が俺を求めている。
あの時、俺が踏み出せなかった一歩を、今、彼女の方から踏み出してくれたのだ。
「健ちゃんを選んでいればよかった」——俺が何年間も、狂おしいほどに欲しかった言葉。その言葉が今、俺の耳に直接届いている。
翔太は彼女を壊した。彼女を幸せにするという誓いを破った。
ならば、俺が奪い返してもいいはずだ。
彼女のすべてを引き受け、この冷たい雨の中から連れ出し、俺の部屋に匿ってやる。翔太から隠し、俺が彼女を一生守り抜く。
俺の心の中で、ど黒く熱い炎が燃え上がり、俺の行動を完全に支配しようとしていた。
「茜……俺が、お前を……」
俺は震える腕を上げ、彼女の細い背中を強く抱きしめ返そうとした。
過去の臆病な自分と完全に決別し、彼女を俺のものにするための、決定的な抱擁。
指先が彼女の濡れたカーディガンに触れ、その背中に力を込めようとした、まさにその瞬間だった。
「ママーーーーッ!!」
公園の入り口の方から、悲痛な、引き裂かれるような高い声が響き渡った。
俺の動きが、ピタリと止まる。
茜もまた、弾かれたように顔を上げた。
声のした方を振り返る。
街灯の下、激しい雨が降る公園の入り口に、二つの人影が立っていた。
一つの傘の下にいるのは、茜の母親。そして、その隣で小さな赤い傘を握りしめ、長靴を履いた小さな女の子が、こちらを指差して泣き叫んでいた。
「ママ! ママぁっ!」
さくらちゃんだった。
彼女は赤い傘を放り出し、水たまりをバシャバシャと跳ね上げながら、一直線にこちらに向かって走ってきた。
「さ、さくら……!」
茜の声が裏返った。
彼女は俺の腕の中から信じられないほどの力で抜け出すと、走ってくる小さな命に向かって膝をつき、両手を大きく広げた。
さくらちゃんが、茜の胸の中に飛び込む。
「ママ、どこ行ってたのぉ! さくら、ママがいなくて、怖かったぁっ!」
「ごめん、ごめんね、さくら。ママ、ちょっと外の空気吸いたくて……ごめんね、一人にしてごめんね……!」
茜はさくらちゃんをきつく抱きしめ、その小さな背中を何度も何度も撫でた。
さくらちゃんの泣き声と、茜の謝罪の言葉が、雨音に混じって公園に響き渡る。
茜の母親が小走りで近づいてきて、二人の頭上に傘を差し掛けた。
「茜! 全く、突然家を飛び出すから、さくらが泣いてパニックになっちゃって……。翔太さんも帰ってきてたけど、何があったの!」
「お母さん……ごめんなさい。私……」
茜はさくらちゃんを抱きしめたまま、母親を見上げて泣き崩れた。
そこにあるのは、つい数秒前まで俺に縋り付いていた「幼馴染の茜」ではなかった。
愛する娘の涙を前にして、我に返り、罪悪感に押し潰されそうになっている「母親の茜」だった。
俺は、地面に落ちたビニール傘を拾い上げることも忘れ、ただ呆然とその光景を見つめていた。
雨が容赦なく俺の全身を叩きつけ、体温を奪っていく。
しかし、寒さは感じなかった。ただ、胸の奥底にポッカリと巨大な穴が開き、そこから冷たい風が吹き込んでいるような感覚だけがあった。
俺は、何を勘違いしていたのだろうか。
「私を連れ出して」という彼女の言葉に舞い上がり、自分が彼女を救うヒーローになれるとでも思ったのか。
彼女を自分の部屋に連れ帰り、俺のものにする?
それは、さくらちゃんから母親を奪い、この小さな女の子に一生消えない傷を負わせるということに他ならない。
彼女がどんなに翔太を憎み、現状を嘆いていたとしても、彼女とさくらちゃんを繋ぐ絆は、俺などが入り込めるような生易しいものではないのだ。
彼女の「あの時、健ちゃんを選んでいれば」という言葉。
それは真実だったかもしれない。しかし、それはあくまで「あの時」の話だ。
彼女は今、高校生の茜ではない。
数年間の時間を経て、妻となり、母となった大人の女性だ。彼女の背負っている現実は、俺が想像していたよりも遥かに重く、複雑に絡み合っている。
俺が抱きしめようとしたのは、記憶の中の「幼馴染の茜」であって、目の前で泣きじゃくる娘を抱きしめる「さくらの母親」ではなかった。
俺には、彼女を救えない。
その残酷すぎる真実が、巨大な鉄槌となって俺の頭を打ち砕いた。
もし俺が彼女を連れ去ったとして、彼女はさくらちゃんを置いて俺と幸せになれるはずがない。かといって、俺にさくらちゃんを含めた彼女の人生すべてを、翔太から奪い取って背負うだけの覚悟と力があるのか。
ない。断じてない。
俺は結局のところ、過去の幻影に恋をし、自分に都合の良い「可哀想な彼女」を妄想して、自己満足に浸ろうとしていただけなのだ。
「……あ、あの、佐藤くん……だよね?」
茜の母親が、俺の存在に気づき、戸惑ったように声をかけてきた。
「……はい。偶然、通りかかって……茜が雨に濡れていたので、声をかけたところです」
自分でも驚くほど、冷静で、感情の抜け落ちた声が出た。
「そうだったの。ごめんなさいね、巻き込んでしまって……」
「いえ。……茜、風邪引くから、早く帰って温まった方がいい」
俺は地面に落ちていた傘を拾い上げ、茜の方を見た。
茜はさくらちゃんを抱きしめたまま、ビクッと肩を震わせ、ゆっくりとこちらを振り向いた。
その瞳には、先ほどの熱はすっかり消え失せ、深い戸惑いと、現実の重さに押し潰されたような疲労の色が浮かんでいた。
「健ちゃん……ごめん、なさい……私、変なこと言って……」
「気にするな。疲れてるんだよ。ゆっくり休め」
俺は短くそう告げると、きびすを返して歩き出した。
「健ちゃん……!」
背後から、すがるような彼女の声が聞こえた気がした。
しかし、俺は振り返らなかった。振り返ってはいけなかった。
これ以上彼女に関われば、俺は取り返しのつかない過ちを犯し、彼女をさらに深く傷つけることになる。
彼女を救うのは、過去の亡霊である俺ではない。
彼女自身が、この現実とどう向き合うかを決めるしかないのだ。
雨は、夜の闇の中で激しさを増していた。
俺は傘を深く差し、足早に公園を後にした。
頬を伝う冷たいものが、雨なのか涙なのか、もう俺には分からなかった。
ただ、茜色の空の下で止まっていた俺の時計が、今度こそ完全に、粉々に砕け散ったことだけは、はっきりと理解していた。




