第4話 アウスタの幸せ、Twotterの本音
駅前のカフェで茜と別れてから、一週間が経過していた。
その間、俺の生活は表面的には何も変わらなかった。朝起き、スーツに袖を通し、満員電車に揺られてオフィスへ向かう。再開発プロジェクトの進行は相変わらず難航しており、地権者への説明会や自治体とのすり合わせなど、息をつく暇もないほどタスクは山積みだった。
しかし、俺の心の中は、あのカフェでの出来事以来、確実に変容を遂げていた。
パソコンのモニターに並ぶ無機質な数字を追っていても、会議で関係者の意見に耳を傾けていても、ふとした瞬間に茜の涙声が脳裏にフラッシュバックする。
『私、何のためにこの人と一緒にいるんだろうって、最近分からなくなってきちゃって』
震える肩、潤んだ瞳、そして、彼女の指で鈍く光っていたプラチナの指輪。
それらが複雑に絡み合い、俺の思考を泥沼のような場所へと引きずり込んでいく。
「佐藤さん、また手が止まってますよ」
隣のデスクから、凛の呆れたような声が飛んできた。
ハッと我に返り、モニターから視線を外すと、凛がコーヒーの入った紙コップを片手にこちらをジト目で睨んでいた。
「あ、悪い。ちょっと考え事をしてた」
「考え事って、B地区の補償額のことですか? それとも、先週の土曜日に会ってたっていう『昔の友人』のことですか?」
凛の鋭い指摘に、俺は思わず言葉を詰まらせた。
先週、カフェに行く前に「地元の友人と会う」とだけ彼女に伝えていたのだが、まさかそこまで見透かされているとは思わなかった。
「……なんでそう思うんだよ」
「勘です。佐藤さん、ここ数日、ずっと上の空というか、何か重いものを背負い込んでいるような顔をしてるから。まあ、プライベートなことなら深くは聞きませんけど、仕事に支障が出るのは困りますからね。佐藤さんが倒れたら私が一番割を食うんですから」
凛はそう言って、自分のデスクへと戻っていった。
彼女の言う通りだ。俺は明らかに精彩を欠いている。仕事に集中しなければならないのに、頭の中の容量の大部分を茜の存在が占拠してしまっているのだ。
俺は小さく息を吐き出し、キーボードに手を戻した。
しかし、モニターに映る文字はただの記号の羅列にしか見えず、全く頭に入ってこなかった。
その日の夜。
深夜近くにマンスリーマンションに帰宅した俺は、ネクタイを緩めながらベッドに倒れ込んだ。
部屋は静まり返り、冷蔵庫のモーター音だけが微かに響いている。
疲労は限界に達しているはずなのに、脳は変に覚醒していて、眠気は全く訪れなかった。
無意識のうちに、ポケットからスマートフォンを取り出していた。
画面のロックを解除し、親指が自然と画像共有SNSアプリ「アウスタ」のアイコンをタップする。
検索窓に、見慣れたアカウント名を入力する。
高校を卒業した後、共通の友人を通じて知った茜のアカウントだ。かつては毎日のように覗き見しては自己嫌悪に陥っていたが、彼女が結婚してからは、傷つくのが怖くて意図的に見ないようにしていた。
しかし今、俺はどうしても彼女の「現状」を知りたかった。
画面が切り替わり、茜のプロフィールページが表示される。
アイコンは、さくらちゃんと一緒に笑っているツーショット写真だ。
画面をスクロールすると、色鮮やかな写真が次々と目に飛び込んできた。
『今日は家族で遊園地! さくら、初めてのメリーゴーランドに大興奮でした』
『週末は翔太くんの会社のバーベキュー。お肉美味しかったー!』
『さくらの三歳のお誕生日。手作りケーキ、喜んでくれてよかった』
そこにあるのは、どこからどう見ても「幸せな家庭」の記録だった。
太陽の下で無邪気に笑うさくらちゃん。その隣で、母親としての優しい笑顔を浮かべる茜。そして、時折写真の端に写り込む、翔太の姿。
高校時代と変わらない、自信に満ちた笑みを浮かべる親友の顔を見るたびに、胸の奥がチクチクと痛んだ。
美しい写真、楽しげなキャプション、友人たちからの「いいね」や「幸せそう!」というコメント。
このアウスタのアカウントだけを見れば、茜は誰もが羨むような完璧で幸せな生活を送っているように見える。
俺が立ち入る隙など一ミリもない、完成された世界。
以前の俺なら、これを見て「俺は彼女を幸せにできなかったが、彼女は別の場所でちゃんと幸せになっているんだ」と、無理やり自分を納得させ、再び記憶に蓋をしていただろう。
しかし、今は違う。
俺は知ってしまっている。この色鮮やかな写真の裏側に隠された、彼女の孤独と涙を。
カフェで彼女がこぼした言葉と、このアウスタの投稿には、あまりにも大きな乖離があった。
遊園地に行った日の夜、翔太は彼女に労いの言葉をかけただろうか。
バーベキューの準備や後片付けを、彼女一人に押し付けてはいなかっただろうか。
手作りケーキを作るために、彼女がどれだけの時間を一人でキッチンで過ごしたのか、彼は知っているのだろうか。
写真という切り取られた一瞬の「幸せ」を演出するために、彼女がどれほどの我慢と妥協を重ねているのか。そう考えると、このアウスタのタイムラインが、酷く空虚で嘘くさいものに思えてきた。
彼女は、本当はどう思っているのだろうか。
俺の前で見せたあの涙は、ただの一時的な感情の爆発だったのか。それとも、もっと根深い、逃げ場のない苦しみを抱えているのか。
知りたい。彼女の本当の心が知りたい。
俺は、取り憑かれたようにスマートフォンの画面を操作し始めた。
アウスタを閉じ、今度は短文投稿SNS「Twotter」のアプリを開く。
アウスタは実名や本人の写真を出している「表」の顔だ。ならば、どこかに「裏」の顔、本音を吐き出している場所があるのではないか。
俺は、共通の友人のアカウントから、茜と繋がっていそうな怪しいアカウントを片っ端から探し始めた。
彼女の趣味、好きな音楽、さくらちゃんの年齢、そして、カフェで聞いた彼女の現状。
それらのキーワードを頼りに、大海原から一本の針を探すような途方もない作業を続ける。
一時間が経過し、二時間が経過した。
目は乾き、肩は強張っていたが、指先を止めることはできなかった。
そして、午前三時を回った頃。
ある一つのアカウントが、俺の目に留まった。
アカウント名は「名無し」。アイコンは、デフォルトのグレーの人型のままだ。
プロフィール欄には、ただ一言『壁打ち用。吐き出し口』とだけ書かれている。
フォロワーは数人。フォローしているのも、育児情報のボットアカウントや、同じような匿名の愚痴アカウントばかりだ。
決定的な証拠はない。しかし、直感的に「これだ」と思った。
俺は震える指で、そのアカウントの過去の投稿を遡り始めた。
『また朝帰り。仕事の付き合いなら仕方ないって分かってるけど、せめて連絡くらいしてほしい』
『熱が39度出てるのに、「俺の飯は?」って聞かれた。私って、この家で家政婦以下の存在なのかな』
『さくらが夜泣きして一睡もできなかった。隣の部屋から舌打ちが聞こえて、涙が止まらなかった』
『誰も私を褒めてくれない。誰も私を認めてくれない。透明人間になったみたいだ』
『あの日、別の選択をしていれば、私の人生は違っていたのかな』
タイムラインに並ぶ言葉の数々は、アウスタの色鮮やかな世界とは正反対の、真っ黒で冷たい絶望に満ちていた。
そこにあるのは、他人の目を気にして繕われた「幸せな妻」ではなく、孤独と疲労に押し潰されそうになっている一人の女性の、血の滲むような本音だった。
投稿の日付を確認する。
先週、さくらちゃんが熱を出したと言っていた日の夜。
『大げさだな、病院連れてけばいいだろ』と翔太に言われたという、その直後の投稿があった。
『不安で押し潰されそうだったのに。一緒に起きて、大丈夫かって背中を撫でてほしかっただけなのに。どうしてこんなに冷たいの? 昔はあんなに優しかったのに。私が悪いの? 私がダメな母親だから?』
その文字を見た瞬間、俺の頭の中で何かが激しく弾け飛ぶ音がした。
怒りだった。
これまで感じたことのないほど、ど黒く、熱く、圧倒的な怒りの感情が、全身の血液を沸騰させた。
対象は、言うまでもなく翔太だ。
ふざけるな。
お前は、あの屋上でなんて言った。
『俺なら、絶対に茜を悲しませない。俺の彼女になれよ』
自信満々に、俺を嘲笑うようにそう言い放ったじゃないか。俺から彼女を奪い去り、見せつけるように隣で笑っていたじゃないか。
それなのに、これはなんだ。
お前が誓った「絶対」は、こんなにも薄っぺらく、くだらないものだったのか。
仕事が忙しい? 稼いでいるから偉い?
そんなものは言い訳にもならない。お前はただ、茜を自分の都合の良い所有物としてしか見ていないだけだ。彼女の心に寄り添うことを放棄し、彼女の尊厳を踏みにじり、徐々に精神を削り取っている。
あんなに明るくて、よく笑って、誰に対しても優しかった茜が。
自分のことを「ダメな母親」「透明人間」などと卑下するような言葉を、暗闇の中で一人、小さな画面に向かって打ち込んでいる。
その光景を想像しただけで、胸が張り裂けそうだった。
そして、翔太への怒りと同時に、俺自身に対する激しい自己嫌悪が襲ってきた。
どうして俺は、あの日、屋上の扉を開けなかったのか。
どうして、「俺にしとけ」と言えなかったのか。
自分が傷つくのを恐れて逃げ出した結果が、これだ。俺の臆病さが、彼女をこんな地獄のような場所に置き去りにしてしまったのだ。
俺が奪い返していれば。俺が彼女の手を引いていれば。
今頃、彼女は俺の隣で、あの心からの笑顔を見せていたはずなのに。
スマートフォンの画面を握りしめる手に、ギリギリと力が入る。
画面が割れそうなほどの力で握りしめても、この怒りと悔しさはどこにも向かう場所がなかった。
『あの日、別の選択をしていれば、私の人生は違っていたのかな』
その言葉が、鋭いナイフのように俺の心に突き刺さる。
彼女の言う「別の選択」が、俺を選ぶことだったのかどうかは分からない。ただの現実逃避の言葉かもしれない。
それでも、俺は自惚れてしまいたくなった。
今すぐ彼女の家に向かい、翔太の顔を殴り飛ばし、彼女とさくらちゃんを連れ出してやりたい。
「もう我慢しなくていい。俺が全部守ってやるから」
そう言って、彼女を強く抱きしめてやりたい。
守りたい。
傷ついた彼女を、孤独な暗闇から救い出したい。
その本能的な欲求が、俺の理性を完全に焼き尽くそうとしていた。
しかし、俺はベッドから立ち上がることができなかった。
頭では勇ましいことを考えていても、足は重く、床に縫い付けられたように動かない。
俺は、ただの「昔の幼馴染」だ。
彼女には夫がいて、子供がいる。法律的にも、社会的にも、彼女は翔太のものだ。
俺がどんなに彼女を想っていても、どんなに翔太に怒りを感じていても、俺には彼女の人生に踏み込む権利はない。
もし俺が感情に任せて行動を起こせば、彼女をさらに傷つけ、彼女の築き上げてきたものを全て壊してしまうことになるかもしれない。
さくらちゃんから、父親を奪うことになるかもしれない。
そんな覚悟が、俺にあるのか。
他人の家庭を壊し、社会的な非難を浴び、それでも彼女を守り抜くという強さが、今の俺にあるのだろうか。
高校時代に一歩を踏み出せなかった臆病な俺に、そんな大それたことができるはずがない。
圧倒的な無力感が、重い鉛のようにのしかかってきた。
俺は、本当に無力だ。
彼女の悲鳴のようなTwotterの投稿を見つけても、ただ画面越しに見つめることしかできない。
カフェで彼女の涙を見ても、表面的な慰めの言葉をかけることしかできなかったように。
俺はいつもそうだ。
肝心なところで逃げ出し、安全な場所から見守るふりをして、結局は何一つ行動を起こせない。
自分のかっこ悪さが、心底嫌になった。
窓の外が、白み始めていた。
いつの間にか、夜が明けようとしている。
結局、一睡もできないまま朝を迎えてしまった。
手の中のスマートフォンは、すでに熱を持ち、バッテリーの残量が少なくなっていることを知らせる警告を表示していた。
俺はTwotterのアプリを閉じ、画面を暗くした。
暗転した画面に、酷く疲弊した自分の顔が映り込んでいる。
目の下にはくっきりとクマができ、無精髭が伸びて、酷く老け込んだように見えた。
「……茜」
乾いた唇から、彼女の名前が零れ落ちる。
あの日、交差点で再会した時から薄々気づいてはいたが、もう誤魔化すことはできなかった。
俺は、茜のことが好きだ。
高校時代に抱いていた淡い恋心なんかじゃない。何年も押し殺し、見ないふりをしてきた想いが、今、圧倒的な熱量を持って俺の全てを支配している。
彼女が誰の妻であろうと、一児の母であろうと、関係ない。
俺は彼女を求めている。
彼女の苦しみを取り除き、彼女を自分の腕の中に囲い込みたいと、狂おしいほどに願っている。
止まっていた時計の針は、もう止められない。
しかし、この想いをどうすればいいのか。
行動を起こせば全てを壊す。黙っていれば、彼女はあの暗闇の中で一人で泣き続ける。
どちらの選択肢も、地獄でしかなかった。
俺は、冷え切った部屋の中で、両手で顔を覆い、深く、長い息を吐き出した。
この感情の出口は、どこにも見当たらなかった。
ただ、彼女の悲鳴のような言葉だけが、頭の中で何度も何度もリフレインしていた。
シャワーを浴びて冷たい水で顔を洗い、無理やり意識を覚醒させる。
鏡の中の自分は相変わらず酷い顔をしていたが、もう後戻りはできないことだけは分かっていた。
スーツに着替え、ネクタイを締める。この首を絞めるような布切れが、俺を「社会人としての佐藤健太」に縛り付けている鎖のように感じられた。
マンションを出ると、朝の冷たい空気が肺に入ってきた。
出勤する人々が足早に駅へと向かっている。その波に混ざりながら、俺はスマートフォンの電源を入れた。
何も通知は来ていない。茜からの連絡もない。
当たり前だ。俺たちはただの幼馴染で、たまに愚痴を言い合う程度の関係なのだから。
けれど、Twotterのあの痛々しい言葉の数々を知ってしまった以上、俺はもう今まで通りには振る舞えない。
もし次に彼女に会ったら、俺はどうしてしまうのだろうか。
理性を保てる自信は、一ミリもなかった。
オフィスに到着すると、すでに凛がデスクに向かってパソコンを操作していた。
「おはようございます。……佐藤さん、顔色悪いですよ。本当に大丈夫ですか?」
「ああ、おはよう。大丈夫だ、ちょっと寝不足なだけだから」
「寝不足って……昨日よりひどくなってますよ。今日は午後イチの自治体との打ち合わせが終わったら、直帰してください。これはチーフの命令じゃなくて、同僚としての忠告です」
凛の言葉には、有無を言わせない強さがあった。
彼女の優しさが、今は少しだけ痛かった。俺が抱えている問題は、睡眠をとれば解決するような生易しいものではないのだから。
「わかった。善処する」
「善処じゃなくて、絶対です。私がスケジュール調整しておきますから」
凛はそう言って、再びモニターに向き直った。
俺は自分のデスクに座り、パソコンの電源を入れた。
画面が明るくなり、未読のメールが何十件も表示される。
仕事は待ってくれない。この街の再開発は進んでいく。
しかし、俺の心の中では、アウスタの作られた幸せな写真と、Twotterの血を吐くような本音の言葉が、交互にフラッシュバックし続けていた。
翔太への怒りと、茜への抑えきれない想い。そして、踏み込めない自分の無力感。
それらが複雑に絡み合い、ギリギリと俺の心を締め上げる。
茜色の空の下で止まっていた俺の時計は、今、狂ったように秒針を早め、破滅へのカウントダウンを刻んでいる。
そんな恐ろしい予感を抱きながら、俺は重い指でキーボードを叩き始めた。
今日の終わりが、何をもたらすのか。
それはまだ、誰にも分からなかった。




