第3話 MINEの通知と、隠された空白
駅前の交差点で茜と再会してから数日が経った。
俺は、まるで何事もなかったかのように日常をやり過ごすことに全力を注いでいた。朝早くに起き、満員電車に揺られて支社へ向かい、深夜までパソコンのモニターと睨み合う。再開発プロジェクトは地権者との交渉が難航し始めており、トラブル対応や資料作りに追われる日々は、皮肉にも俺にとって都合の良い逃避場所となっていた。
脳内を占拠しようとする茜の姿を、次から次へと降ってくるタスクの山で押し潰す。そうでもしなければ、あの日の光景——茜の薬指に光っていた指輪と、彼女を「ママ」と呼ぶ小さな女の子の姿がフラッシュバックし、息ができなくなってしまうからだ。
「佐藤さん、この数字の根拠、少し甘くないですか? B地区の地権者リストと照らし合わせると、矛盾が出ますよ」
デスクに身を乗り出すようにして資料を指差したのは、同僚の凛だった。
凛は俺より一つ年下で、今回のプロジェクトに東京の本社から一緒に赴任してきた。ショートボブが似合う、明るくサバサバとした性格の女性だ。仕事に対しては非常に厳しく、歯に衣着せぬ物言いで周囲を圧倒することもあるが、その実、誰よりも周りをよく見ており、繊細な気遣いができる人間だった。
「あ……本当だ。すまん、俺の確認漏れだ。すぐに修正する」
「ちょっと、大丈夫ですか? ここ数日、ずっと上の空ですよ。目の下に酷いクマできてるし。ちゃんと寝てます?」
凛は訝しげに眉をひそめ、俺の顔を覗き込んできた。彼女の大きな瞳には、明確な心配の色が浮かんでいる。
「いや、寝てるよ。ちょっと慣れない環境で疲れが溜まってるだけだ。気にするな」
「ふうん……。まあ、佐藤さんが倒れたら私が困るので、あまり無理しないでくださいね。今日のところはキリのいいところで上がってください」
凛はそう言って、呆れたように小さく息を吐き、自分のデスクへと戻っていった。
彼女の指摘通りだった。俺は全く眠れていなかった。ベッドに入っても、目を閉じれば否応なしに過去の記憶が引きずり出される。疲労で意識が途切れるように眠りに落ちても、すぐに嫌な夢を見て目を覚ましてしまう。そんな日々が続いていた。
その日の夜。
凛の忠告に従い、俺はいつもより少しだけ早く退社し、マンスリーマンションの薄暗い部屋に帰ってきた。
コンビニで買った味のしない弁当を胃に流し込み、シャワーを浴びて、ベッドに腰を下ろす。テレビをつける気にもなれず、静寂だけが部屋を支配していた。
ふと、サイドテーブルに放り出していたスマートフォンが、ブブッと短く震えた。
仕事のメールか何かだろう。そう思いながら、無意識に手を伸ばし、画面をタップする。
しかし、ロック画面に表示されていたのは、会社のメールアプリではなく、メッセージアプリ「MINE」の通知だった。
『Akane:久しぶり。こないだは急に声かけちゃってごめんね。』
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて大きく跳ねた。
呼吸が止まり、全身の血液が一気に沸騰するような感覚に襲われる。
茜からのメッセージ。
高校を卒業してから、お互いの連絡先は知っていたものの、俺からメッセージを送ることは一度もなかった。彼女からも、誕生日に形式的なお祝いの言葉が届くくらいで、それも数年前から途絶えていた。
震える指でロックを解除し、トーク画面を開く。
既読の文字がつく。もう、見ていないふりはできない。
『もし健ちゃんがよかったら、今度久しぶりにゆっくり話さない? 実は少し、相談したいことがあって……』
相談。
その二文字が、俺の頭の中でぐるぐると渦を巻いた。
既婚者であり、一児の母である彼女が、何年も疎遠だった俺に何の相談があるというのか。親友である翔太と結婚した彼女が、なぜ夫ではなく俺に連絡をしてきたのか。
理性は「関わるべきではない」と強く警告していた。
これ以上彼女に近づけば、俺が必死に保ってきた心の平穏は完全に崩れ去る。あの屋上で止まってしまった時計の針が、狂ったように動き出し、俺を再び深い絶望の底へと引きずり込むに決まっている。
無視しろ。適当な理由をつけて断れ。仕事が忙しいと言えばいい。
頭の中では完璧な言い訳が組み上がっていた。
しかし、俺の指は、そのどれもフリック入力しようとはしなかった。
画面の向こう側にいる茜を想像する。
どんな顔をして、このメッセージを打ったのだろうか。彼女の「相談」とは何なのだろうか。交差点で別れ際に彼女が見せた、あの躊躇うような表情が脳裏に蘇る。
声が聞きたい。会いたい。
何年も押し殺してきたその本能的な欲求が、理性の防波堤をあっさりと決壊させていく。
俺は、自分がいかに愚かで未練がましい男かを自嘲しながら、短い返信を打ち込んだ。
『いいよ。俺も仕事でこっちに戻ってきたばかりだし、ちょうど息抜きしたかったところだ。今度の土曜日、駅前のカフェでどう?』
送信ボタンを押した瞬間、後悔と、それ以上の期待が胸の中で弾けた。
すぐに『ありがとう! じゃあ土曜日の14時に』という返信と、可愛らしいウサギがお辞儀をするスタンプが送られてきた。
それを見て、俺は深く息を吐き出し、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。
もう、後戻りはできない。自ら火中の栗を拾いにいくようなものだ。
それでも、俺は週末が来るのを、どうしようもないほど待ち焦がれてしまっていた。
土曜日の午後。
俺は指定した駅前のカフェに、約束の三十分前には到着していた。
チェーン店ではない、少し落ち着いた雰囲気の自家焙煎珈琲の店だ。窓際の席を確保し、アイスコーヒーを注文する。
落ち着かなかった。手持ち無沙汰にグラスの水滴を拭ったり、スマートフォンの画面を無意味にスクロールしたりして時間を潰す。
服装はおかしくないか、髪型は変じゃないか。三十路を過ぎた男が、まるで初デートを控えた高校生のように身だしなみを気にしている自分が滑稽だった。
いや、俺の時間は高校時代から進んでいないのだから、あながち間違ってはいないのかもしれない。
「健ちゃん、ごめん、待たせちゃった?」
不意に、頭上から柔らかい声が降ってきた。
弾かれたように顔を上げると、そこには茜が立っていた。
今日は、淡いブルーのブラウスにネイビーのワイドパンツという、少しカジュアルな服装だった。交差点で会った時のふんわりとした雰囲気とは違い、どこか疲れたような、気怠げな空気を纏っているように見えた。
「いや、俺も今来たところだ。座って」
平静を装いながら向かいの席を勧める。
茜は「ありがとう」と微笑み、席に腰を下ろした。店員が来て、彼女はホットのカフェラテを注文した。
向かい合って座ると、彼女の顔がよりはっきりと見える。
高校時代と変わらない、少し色素の薄い大きな瞳。しかし、その目の下には、薄っすらとクマがあるのが分かった。肌の艶も、記憶の中の彼女より少し失われているような気がした。
そして、テーブルの上に置かれた彼女の左手には、やはりあのプラチナの指輪が鈍い光を放っている。
「今日は、時間作ってくれてありがとう。お仕事、忙しいんでしょ?」
「まあな。でも、週末くらいは休まないと倒れちまうからな。……さくらちゃんは? 今日は一緒じゃないのか?」
自分からその名を出した瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。しかし、自然な会話を装うためには避けて通れない話題だった。
「今日は、実家の母にお願いしてきたの。たまには一人でゆっくりしておいでって言ってくれて。……本当に、毎日戦争みたいで」
茜は少し苦笑いしながら、運ばれてきたカフェラテのカップに両手を添えた。
「そうか。子育て、大変なんだな」
「うん。可愛いんだけどね、やっぱり自分の時間は全然ないし、体力的にもきつくて」
そこからしばらく、俺たちは高校時代の共通の友人の話や、この街がどれだけ変わってしまったかという、当たり障りのない昔話に花を咲かせた。
茜はよく笑い、俺もそれにつられて笑った。
まるで、高校時代の放課後、いつもの公園のベンチで話しているような錯覚に陥りそうになる。
しかし、決定的に違うのは、俺たちの間には見えない透明な壁が確実に存在しているということだ。彼女の言葉の端々に現れる「家庭」の匂いが、俺に現実を突きつけてくる。
一時間ほど経ち、昔話のストックが尽きかけた頃。
茜がふと、カップの縁を指でなぞりながら、視線を落とした。
「……ねえ、健ちゃん」
「ん?」
「今日、相談があるってMINEしたの、覚えてる?」
「ああ。何かあったのか?」
俺が真剣なトーンで問い返すと、茜は少しだけ躊躇うように唇を噛み、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、先程までの明るさはなく、深い孤独と疲労の色が沈殿していた。
「……翔太のことなんだけど」
その名前が出た瞬間、俺の全身の筋肉が硬直した。
聞きたくなかった。親友であり、俺から茜を奪っていった男の名前。
しかし、俺は押し黙り、彼女の次の言葉を待った。
「翔太ね、最近、全然家に帰ってこないの。仕事が忙しいのは分かるんだけど、休みの日もゴルフとか会社の付き合いでいなくなっちゃって」
茜は、ポツリポツリと、堰を切ったように話し始めた。
翔太は大学卒業後、外資系のコンサルティングファームに就職した。元々負けず嫌いで上昇志向の強い男だ。仕事で成果を上げ、若くして重要なポジションを任されているらしい。
しかし、その代償として、家庭を完全に顧みなくなっていた。
「さくらが夜泣きしても、うるさいって別の部屋に行っちゃうし。この間、さくらが熱を出して救急車を呼ぼうか迷った時も、電話に出なくて……結局、朝帰ってきた時に『大げさだな、病院連れてけばいいだろ』って言われたの」
「……」
「私、専業主婦だから、家のこと全部やるのは当たり前だと思ってる。それは分かってるの。でも、たまには『お疲れ様』って言ってほしいだけなのに。最近は、顔を合わせれば仕事の愚痴か、私の家事のダメ出しばかりで……」
茜の声が、微かに震えていた。
彼女は必死に涙を堪えるように、瞬きを繰り返している。
俺の胸の奥で、ドス黒い炎がメラメラと燃え上がり始めた。
「翔太は……昔から自信家で、自分のやり方が一番正しいと思ってるから。私が何か意見を言っても、『お前は社会に出てないから分からないんだ』って、鼻で笑われるの。……私、何のためにこの人と一緒にいるんだろうって、最近分からなくなってきちゃって」
茜は、両手で顔を覆うようにして俯いた。
その華奢な肩が、小さく震えている。
俺の頭の中で、あの屋上での翔太の言葉がフラッシュバックした。
『あいつはお前を幸せになんてできない。俺なら、絶対に茜を悲しませない。俺の彼女になれよ』
自信満々にそう言い放ち、強引に茜を奪っていったのはお前じゃないか。
絶対に悲しませないと言ったのは、お前じゃないか。
それなのに、どうして今、彼女は俺の目の前でこんなにも傷つき、涙を流しているんだ。
激しい憤りと、翔太に対する憎悪が全身を駆け巡った。
あんな男に、茜を渡すべきではなかった。
俺が、俺がもし彼女の隣にいたら。
絶対に彼女を一人で泣かせたりはしない。彼女の話をちゃんと聞き、彼女の辛さを分かち合い、世界中の誰よりも大切にするのに。
あの時、俺が勇気を出してさえいれば、彼女は今頃、俺の隣で心からの笑顔を見せていたはずなのに。
「……もし俺が隣にいたら」
無意識のうちに、声が漏れていた。
「え?」と、茜が顔を上げる。涙で潤んだ瞳が、俺を捉えた。
しまった、と思った。
理性で必死に押さえつけていたはずの感情の蓋が、彼女の涙を前にして外れかけている。
テーブルの上で、茜の手が震えているのが見えた。
その手を強く握りしめ、「俺のところに来い」と言ってしまいたかった。今すぐ彼女を抱きしめて、その細い肩を支えてやりたかった。
それができたら、どれほど楽だろうか。
だが、そんなことは許されない。俺は他人の家庭を壊す権利など持っていないし、何より、今更そんなことを言うのは、あまりにも卑怯で身勝手すぎる。
高校時代に彼女の手を引けなかった臆病者が、他人の妻になった彼女に手を伸ばすなど、滑稽極まりない。
俺は、テーブルの下で自分の太ももを強くつねり、必死に理性を総動員した。
深呼吸をして、感情を押し殺す。
「……いや、なんでもない。翔太のやつ、相変わらず自分勝手だな。昔からワンマンなところがあったけど、結婚しても変わってないのか」
俺は、できるだけ平坦で、ただの「昔の友人」としてのトーンを装って言葉を紡いだ。
「うん……。ごめんね、健ちゃんにこんな愚痴言っても、どうしようもないのに。でも、誰かに聞いてほしくて。健ちゃんは、昔から私の話を一番ちゃんと聞いてくれたから……つい、甘えちゃった」
「いいよ。いくらでも聞く。俺でよかったら、いつでも愚痴くらい聞いてやるよ」
「ありがとう……」
茜は、無理に口角を上げて、力のない笑顔を作った。
その痛々しい笑顔が、俺の心をさらに深く抉った。
俺は彼女を救えない。
彼女の話を聞き、表面的な慰めの言葉をかけることしかできない。根本的な解決には何一つならないと分かっていながら、ただ頷くことしかできない。
圧倒的な無力感が、俺を包み込んでいた。
それからさらに一時間ほど、茜はこれまでの不満や不安を吐き出し続けた。
俺はひたすら聞き役に徹し、相槌を打った。
外の景色はすっかり夕暮れに染まり、カフェの中もオレンジ色の照明が目立つようになっていた。
「ごめんね、本当に長くなっちゃった。もう帰らなきゃ。母にも悪いし」
茜はふと時計を見て、慌てたようにバッグを手に取った。
「ああ、送るよ」
「大丈夫、駅すぐそこだし。今日は本当にありがとう。誰かに話したら、少しすっきりした。また、明日から頑張れそうな気がする」
茜は立ち上がり、少しだけ明るい声で言った。
その言葉は、俺に向けられたというより、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
店の外に出ると、春の夕暮れの冷たい風が頬を撫でた。
駅の改札口まで並んで歩く。
お互いに言葉は少なかったが、その沈黙は決して心地よいものではなかった。何かを言えば、決定的な一線を越えてしまいそうな、危うい緊張感が漂っていた。
「じゃあ、ここで。本当にありがとう、健ちゃん」
改札の前で、茜は振り返って小さくお辞儀をした。
「ああ。あんまり無理するなよ。何かあったら、いつでも連絡してこい」
「うん。……健ちゃんも、お仕事頑張ってね」
茜は最後に、昔と変わらない、少しはにかんだような笑顔を見せた。
そして、改札を通り抜け、人混みの中へと消えていった。
俺は、彼女の後ろ姿が見えなくなるまで、その場から動くことができなかった。
周囲を行き交う人々の喧騒が、遠くのノイズのように聞こえる。
彼女は「すっきりした」と言って帰っていった。
しかし、残された俺の心の中は、以前よりもさらに重く、黒い感情で満たされていた。
翔太に対する激しい怒り。
彼女を救えない自分への無力感。
そして、他人の妻である彼女を、どうしようもなく求めてしまっている自分自身の浅ましさ。
もう、引き返せない。
俺は今日、彼女の話を聞いてしまった。彼女の孤独に触れてしまった。
蓋をしていたはずの想いは、完全に目を覚まし、理性の鎖を食いちぎろうとしている。
ただの幼馴染の友人として振る舞うことなど、到底できそうになかった。
夕闇が迫る駅前の広場で、俺は見えない何かに向かって、強く拳を握りしめた。
茜色の空の下で止まっていた俺の時計は、狂ったような速度で、しかし確実に破滅に向かって秒針を刻み始めていた。




