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茜色の空の下、君は誰かの妻になっていた――取り戻せない過去と、止まったままの僕の時計  作者: ledled


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第2話 屋上の亡霊と、塗り替えられた記憶

逃げるように転がり込んだワンルームのマンスリーマンションは、まだ荷物も少なく、ひどく殺風景だった。


ベッドに倒れ込むように仰向けになると、見慣れない白い天井が視界いっぱいに広がった。

窓枠から差し込むオレンジ色の夕陽が、部屋の壁に細長い影を落としている。その色は、俺の記憶の奥底にこびりついて離れない「あの日」の空の色と、残酷なほどに似ていた。

目を閉じれば、今さっき交差点で見せた茜の笑顔と、彼女の足元にしがみついていた小さな女の子の姿が、フラッシュバックのように何度も何度も脳裏に明滅する。


「ママの昔のお友達だよ」


その言葉が、耳の奥で呪いのように木霊していた。

分かっていたはずだ。彼女は翔太と結婚した。何年も前に。そして子供がいてもおかしくない年齢だ。頭では理解していたはずなのに、実際に目の当たりにした衝撃は、俺の想像を遥かに超えていた。

胸の奥を鋭い刃物でゆっくりと抉られているような、息苦しいほどの痛み。

この痛みから逃れるには、記憶に蓋をするしかなかった。東京でがむしゃらに働いていたのは、そのためだ。しかし、この街に戻ってきたことで、無理やり閉ざしていた記憶の蓋は呆気なく吹き飛び、パンドラの箱が開いてしまった。

そして、泥のような暗い感情とともに、絶対に思い出したくない、俺の人生の時計が止まった「あの日」の記憶が、鮮明な映像となって脳内を支配し始めた。


高校二年の秋。

俺と茜は、相変わらず「幼馴染」という便利な言葉の枠内に収まっていた。

家が隣同士で、幼稚園からずっと一緒。登下校も、休日遊びに行くのも、息をするように自然なことだった。

周囲からは「付き合ってるの?」とからかわれることも多かったが、その度に茜は「健ちゃんは家族みたいなものだから!」と笑って否定し、俺もまた、曖昧な愛想笑いで誤魔化していた。

本当は、ずっと好きだった。

いつから感情が変化したのかは分からない。気づいた時には、茜の笑顔を見るだけで胸が苦しくなり、他の誰かと楽しそうに話しているのを見ると、ど黒い嫉妬が渦巻くようになっていた。


けれど、俺には肝心な一歩を踏み出す勇気がなかった。

もし告白して、断られたら? この心地よい関係が壊れてしまったら? 「家族みたい」と言ってくれる彼女の隣から、永遠に追放されてしまったら?

そんな言い訳ばかりを並べ立て、俺は現状維持という名の生ぬるいお湯に浸かり続けていた。

いつか、自然な流れで結ばれる日が来るかもしれない。そんな根拠のない淡い期待を抱きながら。


だが、そんな俺の甘い幻想を打ち砕く存在が現れた。

翔太だった。

バスケットボール部のエースで、長身で端正な顔立ち。明るく、誰に対しても物怖じしない性格で、男女問わず常に輪の中心にいるような男。

俺とは正反対の、太陽のような存在だった。

二年に進級して同じクラスになった翔太は、持ち前のコミュニケーション能力であっという間にクラスの空気を掌握した。そして、あろうことか、茜に強い関心を示すようになったのだ。


「佐藤、茜ちゃんって彼氏いるの?」


ある日、体育の授業の着替え中に、翔太から無邪気にそう聞かれた時の焦燥感は、今でも忘れられない。


「……いや、いないと思うけど」

「マジ? あんなに可愛いのに? よっしゃ、俺、ちょっとアタックしてみるわ」


翔太の言葉に、俺の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。


「お前ら、幼馴染なんだろ? 応援してくれよな」


ポンと肩を叩かれた時の、その手のひらの熱さが、俺に圧倒的な脅威を突きつけていた。

翔太は有言実行の男だった。それからの彼は、ことあるごとに茜に話しかけ、昼休みには俺たちの席に当然のように混ざり、放課後には茜を部活の試合観戦に誘うようになった。

強引だが、決して嫌味ではない彼のアプローチ。

最初は戸惑っていた茜も、翔太の明るさに引っ張られるように、少しずつ彼と打ち解けていくのが分かった。

俺が隣にいるのに、茜の視線が翔太を追っている瞬間が増えていく。

二人が楽しそうに笑い合っているのを見るたびに、俺の心は焦りと劣等感で黒く塗り潰されていった。

勝てるわけがない。

外見も、運動神経も、コミュニケーション能力も。翔太と俺とでは、圧倒的な差があった。唯一勝っているのは「一緒に過ごした時間の長さ」だけ。だが、そんなものは、翔太の強烈な光の前では、何の役にも立たないような気がした。


このままでは、茜を取られる。

その危機感が、ついに俺の重い腰を上げさせた。

文化祭が終わった翌週の金曜日。俺は、今日こそ茜に想いを伝えると決意した。

放課後、いつものように一緒に帰る約束を取り付け、俺は茜に「先に行ってる。屋上で待ってるから」とメッセージを送った。

授業中も、上の空だった。頭の中では、茜にどう伝えるか、そのシミュレーションばかりがぐるぐると回っていた。

「ずっと好きだった。俺と付き合ってほしい」

シンプルに、ストレートに伝えよう。

結果がどうあれ、今のこの苦しい状態から抜け出したかった。もしかしたら、茜も俺のことを……。

そんな微かな希望を胸に抱きながら、放課後のチャイムが鳴ると同時に、俺は誰よりも早く教室を飛び出した。


屋上へと続く階段を駆け上がる足取りは、羽が生えたように軽かった。

秋の冷たい空気が、火照った頬を撫でていく。

屋上の鉄扉の前に立ち、一つ、大きく深呼吸をした。

心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく脈打っている。手汗をズボンで拭い、冷たいドアノブに手をかけた。

ガチャリ、と鈍い音を立てて扉が少しだけ開く。

隙間から、茜色の夕陽が射し込んできた。

俺は扉を押し開こうとして――、その手を、ピタリと止めた。


「……だから、俺にしとけよ」


扉の向こう側から、聞こえるはずのない声が聞こえた。

翔太の声だった。

いつもより低く、真剣な響きを帯びた声。

嫌な予感が全身を駆け巡った。俺は息を殺し、扉の隙間からそっと屋上の様子を覗き込んだ。

給水塔の影。

西日を背にして立っている二人のシルエットが見えた。

翔太と、茜だった。

茜は、壁を背にして立っていた。そして、翔太がその茜の逃げ場を塞ぐように、両手を壁についていた。

いわゆる、壁ドンというやつだ。


「翔太くん、あの、近、近いよ……」


茜の戸惑うような声が聞こえる。


「わざと近づいてるんだよ。茜、俺のことどう思ってんの?」

「どうって……お友達、だし」

「友達なんて思ってない。俺は、茜のことが好きだ」


翔太のストレートな言葉が、俺の耳を殴りつけた。

呼吸が止まった。

頭の中が真っ白になり、足の指先から急速に温度が奪われていくのが分かった。


「でも……私……」

「佐藤のこと、気にしてるのか?」


俺の名前が出た瞬間、ビクンと肩が震えた。


「あいつ、お前のこと幼馴染としか見てないぜ? いっつも俺に、お前のことただの腐れ縁だって言ってるし」

「……え?」

「お前も、いつまでもあいつの隣にいて、無駄な時間過ごすつもり? あいつはお前を幸せになんてできない。俺なら、絶対に茜を悲しませない。俺の彼女になれよ」


翔太の言葉は、自信に満ち溢れ、そして、酷く暴力的だった。

俺が茜をただの腐れ縁だと言ったことなど、一度もない。それは翔太の嘘だ。俺を牽制し、茜の心を揺さぶるための、卑怯な嘘だ。

飛び出して、否定しなければならない。

「違う、俺はお前が好きだ!」と、今すぐ叫ばなければならない。

頭では分かっていた。それが正解だと。

だが、俺の足は床に縫い付けられたように、一歩も動かなかった。


視線の先で、茜の顔が夕陽に照らされて赤く染まっているのが見えた。

彼女の瞳は揺れていた。戸惑い、迷い、そして――ほんの少しの、期待。

もし、茜が本当に俺のことを好きなら、翔太の言葉をすぐに否定するはずだ。「健ちゃんはそんなこと言わない」と。

しかし、茜は沈黙した。

その沈黙が、俺には答えのように思えた。


「ほら、何も言えないじゃん。……茜」


翔太が、さらに顔を近づける。

茜は、目を伏せた。抵抗する素振りはなかった。

重なり合う二つのシルエット。

夕暮れの屋上に、甘く、そして残酷な空気が流れた。


俺は、見ていることしかできなかった。

愛する人が、他の男に奪われていく瞬間を、ただ息を殺して覗き見ているだけの、哀れで滑稽な傍観者。

自分から呼び出しておきながら、最後まで一歩を踏み出すことができなかった臆病者。

激しい自己嫌悪と、絶望的な敗北感が、津波のように押し寄せてきた。

負けた。

完全に、負けたのだ。

俺は、音を立てないようにゆっくりとドアノブから手を離し、後ずさりをした。

そして、逃げた。

屋上から続く薄暗い階段を、転げ落ちるように駆け下りた。

どこへ向かっているのかも分からなかった。ただ、あの場所から、あの光景から、一秒でも早く遠ざかりたかった。

茜色の空の下、俺の初恋は、誰にも伝えることなく、誰にも知られることなく、無惨に砕け散った。


それから数日間の記憶は、ひどく曖昧だ。

俺は風邪を引いたと嘘をつき、二日間学校を休んだ。ベッドの中で布団を被り、死んだように眠り続けた。

目覚めるたびに、あの屋上の光景がフラッシュバックし、胃液を吐き出すような吐き気に襲われた。

月曜日。重い足取りで登校した俺を待っていたのは、決定的なトドメだった。

放課後。


「健ちゃん、ちょっといいかな」


教室に残っていた俺に、茜が声をかけてきた。

いつもの彼女だった。少しはにかんだような、可愛らしい笑顔。

だが、俺には分かっていた。彼女が何を言おうとしているのか。


「……ん、どうした?」


俺は、平静を装って答えた。声が震えないように、必死に喉の筋肉に力を込めた。

茜は、少しモジモジと指先をいじりながら、上目遣いで俺を見た。


「あのね、私……翔太くんと、付き合うことになったの」


頭を、鈍器で殴られたような衝撃。

分かっていた。知っていた。

それでも、彼女の口から直接告げられたその言葉は、俺の心に致命傷を与えた。


「翔太くんから、告白されて。……すごく真っ直ぐで、優しい人だから。私でいいのかなって思ったんだけど、少しずつ、知っていきたいなって」


茜の頬は、淡く染まっていた。

それは、恋をする乙女の顔だった。俺には決して向けられることのなかった、特別な顔。

俺が欲しくて欲しくてたまらなかったものを、翔太はあっさりと手に入れたのだ。


「そっか」


俺の口から出たのは、酷く乾いた声だった。


「……驚いた? 幼馴染の私に彼氏ができるなんて、思ってなかったでしょ」


茜は、少し不安そうに俺の顔を覗き込んだ。

彼女の瞳の奥に、何を期待していたのだろうか。俺が止めてくれること? 嫉妬してくれること?

分からない。俺にはもう、彼女の心が全く分からなくなっていた。

俺の胸の奥で、何かがパキリと音を立てて割れた。

もう、いい。

何もかも、終わったんだ。

俺は、顔の筋肉を無理やり引き上げ、歪な笑顔を作った。


「いや、驚いたけど……よかったな。翔太なら、いい奴だし。茜のこと、大事にしてくれると思うぞ」

「本当? 健ちゃんがそう言ってくれると、安心する」


茜は、パッと顔を輝かせた。

その純粋な安堵の表情が、俺の心をさらに深く抉った。

俺の気持ちなんて、彼女には一ミリも届いていなかったのだ。俺は最初から最後まで、ただの「いい幼馴染」でしかなかった。


「おめでとう、茜」


俺は、人生で一番の嘘をついた。

その瞬間、俺の中で何かが完全に死んだのが分かった。


それからの日々は、消化試合のようなものだった。

茜と翔太は、学校公認のカップルとして幸せそうに過ごしていた。

俺は、彼らの邪魔にならないよう、少しずつ茜と距離を置いた。茜も、翔太との時間を優先するようになり、俺たちの「幼馴染」としての時間は、砂時計の砂が落ちるように少しずつ減っていき、やがて完全に消滅した。

高校を卒業すると同時に、俺は逃げるように東京の大学へ進学した。

地元を離れ、彼らの噂が届かない場所へ。

全てを忘れて、新しい人生を始めるために。


だが、現実はどうだ。

マンスリーマンションの薄暗い部屋で、俺は力なく笑った。

何年経っても、俺は一歩も前に進めていない。

東京で積み上げてきたキャリアも、大人の男としての見栄も、今日、交差点で茜の姿を見た瞬間に全て吹き飛んだ。

俺はまだ、あの茜色の空の下にいる。

屋上の扉の前で立ちすくみ、一歩も踏み出せないまま、涙を堪えている惨めな高校生のままだ。

茜の薬指に光っていた指輪。

彼女を「ママ」と呼ぶ小さな命。

それは、俺が選ばれなかったという現実の、最も残酷な証拠。


「……俺は、何をしてるんだ」


暗闇に沈みゆく部屋の中で、俺の呟きは誰に届くこともなく、虚しく溶けて消えた。

地元に戻ってきた初日。

俺は、自分が過去の亡霊から一歩も逃げられていないことを、絶望とともに思い知らされていた。


このままでは、狂ってしまうかもしれない。

明日の朝、どんな顔をして仕事に向かえばいいのか。

もしまた、この街のどこかで彼女とすれ違ってしまったら、俺はどうなってしまうのか。

恐怖と後悔がドロドロと混ざり合い、俺の首を真綿で絞めるように苦しめていた。

時計の針は、夜の帳を下ろすように静かに進んでいく。

だが、俺の心の秒針は、あの屋上の扉の前で、永遠に止まったままだった。


部屋の空気が、酷く重く感じられた。

エアコンの乾燥した風が、頬を冷たく撫でていく。

ベッドから身を起こし、フラフラとした足取りで小さな冷蔵庫に向かった。中には、昨日の夜コンビニで買ったミネラルウォーターのペットボトルが一本だけ入っている。

キャップを開け、一気に喉に流し込んだ。

冷たい水が胃の腑に落ちていく感覚だけが、今の俺が生きているという現実を辛うじて繋ぎ止めていた。


窓の外に目をやると、すっかり日は落ち、街のネオンが遠くで瞬いていた。

あの交差点も、今は暗闇に包まれているのだろうか。

茜は今頃、あの小さな女の子と一緒に、温かい食卓を囲んでいるのだろうか。

翔太が仕事から帰ってきて、「パパ、おかえり」と出迎える声が響いているのだろうか。

想像しただけで、吐き気がした。

俺の入る隙間などない、完璧な家族の肖像。

その絵画を完成させるために、俺は自ら身を引き、ピエロを演じたのだ。

「おめでとう」なんて、どうしてあんな言葉が言えたのだろう。

あの時、かっこ悪くてもいい、惨めでもいいから、「俺にしとけ」と彼女の手を引いていれば、未来は変わっていたのだろうか。

タラレバの思考回路は、底なし沼のように俺を引きずり込んでいく。


携帯電話の画面が、無機質な光を放って点灯した。

仕事関係のメールの通知だ。

現実に戻れと、社会が俺に要求している。

俺は小さく息を吐き出し、画面を伏せた。

明日からは、また「ランド・クリエイトの佐藤」という仮面を被らなければならない。再開発のプロジェクトリーダーとして、この街の古いものを壊し、新しい景色を作っていく。

それはまるで、俺自身の過去を更地にしていくような作業にも思えた。

だが、いくら街の景色が変わっても、俺の心に根を張ったこの亡霊は、決して消えてはくれないのだろう。


俺は再びベッドに倒れ込み、目を閉じた。

瞼の裏には、やはり茜色の空が広がっていた。

あの空の下で、俺の時間は止まったまま、永遠の迷子になっている。

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