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茜色の空の下、君は誰かの妻になっていた――取り戻せない過去と、止まったままの僕の時計  作者: ledled


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第1話 交差点の残像と、止まった秒針

東京の喧騒は、何かを忘れようとする人間にとっては都合の良い隠れ蓑だった。


大学を卒業し、新卒で入社した中堅不動産開発会社「ランド・クリエイト」。そこで俺、佐藤健太は、がむしゃらに働き続けた。深夜に及ぶ残業、休日の接待、終わりの見えない図面の修正。心身をすり減らすような過酷な日々だったが、不満はなかった。むしろ、息をつく暇もないほどの忙しさは歓迎すべきものだった。頭を空っぽにして仕事に没頭している間だけは、胸の奥底にへばりついている泥のような後悔を、意識から遠ざけることができたからだ。


だから、入社して数年が経ち、上司から新たなプロジェクトのチーフを任せられた時、俺の心境は複雑だった。


「佐藤、お前の地元だろう。駅前の大規模再開発プロジェクトだ。土地勘もあるし、地権者との交渉もスムーズに進むはずだ。期待しているぞ」


会議室でそう告げられた時、俺は無意識に眉間に皺を寄せていたかもしれない。上司の期待に満ちた言葉に対し、俺はただ「はい、全力で取り組ませていただきます」と、無難な返事を返すことしかできなかった。


栄転であることは間違いない。社運を賭けたプロジェクトの責任者に抜擢されたのだから、喜ぶべきことだ。しかし、内心では冷たい汗が背中を伝っていた。


地元。あそこには、俺が置き去りにしてきた過去がある。蓋をして、見ないふりをしてきた、痛々しいまでの青春の残骸が散らばっている場所だ。


赴任が決まり、数年ぶりに降り立った地元の駅は、俺の記憶にあるものとは随分と姿を変えていた。かつて古びた商店が軒を連ね、下校途中の学生たちで賑わっていた駅前ロータリーの半分はすでに取り壊され、無機質な白い仮囲いが延々と続いている。かつての面影を残しているのは、駅前のシンボルだった古ぼけた時計塔くらいのものだった。


俺の仕事は、この街の風景をさらに変えることだ。古いものを壊し、新しい価値を創造する。それが不動産開発の仕事であり、俺に与えられた役割だ。しかし、街の景色が確実に塗り替えられていくのとは対照的に、俺の中の時間はあの日から一歩も進んでいないような気がしてならなかった。


赴任から二週間が過ぎた、四月の最初の週末。


俺は資料作りの息抜きと、再開発の対象エリア周辺の視察を兼ねて、一人で街を歩いていた。普段のスーツ姿ではなく、着慣れたチノパンとスニーカーというラフな格好だ。春の風はまだ少し肌寒さを残しているが、日差しは柔らかく、確実に季節の移ろいを感じさせた。


視察とはいえ、見慣れた街並みを歩いていると、嫌でも様々な記憶が蘇ってくる。


角にある小さなベーカリーは、高校からの帰り道、小腹を空かせた俺たちがよくメロンパンを買った店だ。少し先の小さな公園のベンチは、テスト期間中にお互いのノートを広げて、文句を言いながら勉強を教え合った場所。そして、少し歩けば見える高台の神社は、夏祭りの夜に二人で抜け出して、打ち上げ花火を見上げた場所。


そのどれもに、一つの影が寄り添っている。


茜。


俺の幼馴染であり、物心ついた時から空気のように当たり前に傍にいた存在。そして、俺が自分の臆病さゆえに手放してしまった、世界で一番大切な女の子。


彼女の明るい笑い声、少し拗ねた時に唇を尖らせる癖、風に揺れる栗色の髪から香るシャンプーの匂い。記憶の中の茜は、何年経っても色褪せることなく、いつも鮮明だった。忘れよう、上書きしようと努めれば努めるほど、彼女の輪郭は俺の心に深く、鋭く刻み込まれていった。東京での忙しい日々に紛れさせていたはずの痛みが、この街の空気を吸い込むだけで容易に蘇ってくる。


「馬鹿だな、俺は」


誰に聞かれるわけでもない自嘲気味な呟きが、乾いた口から零れ落ちた。


もう終わったことだ。何年も前の、過去の話だ。彼女は俺の親友だった翔太を選び、俺は敗北感と自己嫌悪に苛まれながら一人で東京へ逃げた。それだけの話じゃないか。今更こんな風に感傷に浸ったところで、過去が書き換わるわけでもない。失ったものが戻ってくるわけでもない。


まとわりつくような思考を断ち切るように頭を強く振り、俺は駅前の大きな交差点へと向かった。


休日の午後ということもあり、駅前の交差点は多くの人で賑わっていた。買い物袋を提げた楽しげな家族連れ、手を繋いで笑い合う若いカップル、部活帰りなのか足早に過ぎ去る学生たち。それぞれがそれぞれの時間を生き、それぞれの幸せの中にあるように見えた。


信号が赤に変わり、俺は横断歩道の最前列で足を止めた。ぼんやりと対岸の景色を眺めながら、午後の予定を頭の中で組み立て直そうとしていた。


その時だった。


ふと、視界の端に見覚えのあるシルエットが飛び込んできた。


斜め向かいの歩道。信号待ちの群衆の中で、その女性は静かに立っていた。


柔らかな春の陽光の下、少しウェーブのかかった栗色の髪が軽く風に揺れている。落ち着いた色合いの薄手のカーディガンに、ふんわりとした白いロングスカート。高校時代よりもずっと大人びて、洗練された雰囲気を纏っている。しかし、その華奢な肩のラインも、どこか儚げな横顔の佇まいも、俺の記憶の中にある姿と恐ろしいほどに完全に一致していた。


心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。


見間違えるはずがない。見間違えるはずがなかった。東京の雑踏の中で、似たような後ろ姿を見るたびに何度振り返ったことか。何千回、何万回と夢に見て、その度に絶望とともに目覚めた姿だ。


俺の突き刺すような視線に引き寄せられるかのように、彼女もゆっくりとこちらに顔を向けた。


視線が、交差する。


周囲の喧騒が、嘘のようにスーッと遠ざかっていった。行き交う車のエンジン音も、人々の楽しげな話し声も、商店街から漏れ聞こえるBGMも、一切耳に届かなくなった。まるで世界に俺たち二人だけが切り取られ、取り残されたかのような、奇妙で圧倒的な静寂が訪れた。


茜の目が、驚きに大きく見開かれるのが分かった。その桜色の唇が微かに動き、「けんちゃん」と、かつて俺を呼んでいたその懐かしい響きを紡ごうとしたのかもしれない。


直後、信号から歩行を促す軽快なメロディが鳴り響き、止まっていた時間が強制的に動かされた。


歩行者たちが一斉に歩き出す。人波に押されるようにして、俺は無意識のうちに横断歩道を踏み出していた。頭で考えるよりも先に、足が勝手に動いていた。彼女の元へ行かなければならない。確かめなければならない。そう本能が叫んでいた。


交差点の中央付近で、俺たちは互いに引き寄せられるようにして、すれ違う直前で立ち止まった。


近付くにつれて、彼女の姿がより鮮明になる。少し大人びたメイク。落ち着いた大人の女性の香水。しかし、俺を見つめる大きな瞳の優しさと、どこか不安げに揺れる光は、昔の茜のままだった。


「……茜?」


掠れた声が出た。喉がカラカラに乾いていて、声帯がうまく震えなかった。気の利いた言葉など、一つも浮かんでこない。ただ、名前を呼ぶことしかできなかった。


「健太……? 嘘、本当に健太なの?」


茜の声もまた、微かに震えていた。


その声を聞いた瞬間、俺の中で何年も張り詰めていた太い糸が、ふっと音を立てて切れるような感覚があった。あの日からずっと止まっていた俺の時計の秒針が、再びチクタクと、狂ったような速度で動き始めたような錯覚に陥った。


「久しぶりだな。こんな所で会うなんて、驚いたよ」


どうにか絞り出した俺の言葉は、酷く上擦り、不自然なほどに明るく響いてしまったと思う。平静を装おうと必死になればなるほど、隠しきれない動揺が全身から滲み出ていたはずだ。


「うん、本当に久しぶり。……健太、少し雰囲気変わったね。スーツじゃないからかな、大人っぽくなったというか」


茜は少しはにかむように、昔と変わらない笑顔を見せた。


その笑顔を見た瞬間、俺の胸の奥で燻っていたドロドロとした感情が、一気に炎を上げて燃え上がりそうになった。手を伸ばせば触れられる距離に、彼女がいる。俺はずっと、この笑顔に会いたかったのだ。この笑顔を独り占めしたかったのだ。


もし今、彼女の手を取って走り出したらどうなるだろうか。そんな馬鹿げた妄想が一瞬頭を過った。


だが、俺がその破滅的な衝動に身を任せようとした、まさにその時だった。


「ママぁ、だれぇ?」


不意に、茜の足元から、舌足らずで可愛らしい声が響いた。


俺の視線が、無意識に下へ向く。


そこには、茜の白いスカートの裾を小さな手でしっかりと握りしめている、三歳か四歳くらいの女の子がいた。茜と同じ、少し色素の薄い大きな栗色の瞳。少し丸みを帯びた輪郭。小さなピンク色の靴。


その存在を認識した瞬間、俺の頭の中は真っ白になり、全身の血液が一瞬にして凍りつくような感覚に襲われた。


「あ、ごめんなさい。ほら、さくら、ご挨拶して。ママの昔のお友達だよ」


茜はしゃがみ込み、女の子の目線に合わせて優しく、慈愛に満ちた声で語りかけた。さくらと呼ばれた女の子は、俺の顔をじっと見上げると、恥ずかしそうに茜の背中に隠れてしまった。


「人見知りが激しくて。さくらって言うの」


立ち上がった茜は、少し困ったような、しかし母親としての確かな喜びに満ちた笑顔を俺に向けた。


その時だった。


彼女が風に乱れた髪を耳にかきあげた左手に、銀色の光が鋭く反射した。


薬指に光る、シンプルなプラチナの結婚指輪。


それは、俺にとって死刑宣告にも等しい、残酷すぎる光だった。重いハンマーで頭を力一杯殴られたような衝撃が全身を貫いた。呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、胸が激しく締め付けられ、酸素が肺に入ってこない。


そうだ。彼女はもう、俺の知っている「幼馴染の茜」ではないのだ。


「誰かの妻」であり、目の前にいるこの小さな命を育む「一児の母」なのだ。


親友の翔太と交際を始め、数年前に結婚したことは、風の噂で聞いていた。共通の友人からのSNS越しに、知っていたはずだった。覚悟はできていたつもりだった。しかし、こうして生身の現実として、圧倒的な存在感を持って突きつけられると、俺の心は自分が思っていた以上に脆く、音を立てて簡単に崩れ去ってしまった。


「そっか……可愛い娘さんだな。茜によく似てるよ」


自分でも驚くほど、平坦で感情のない声が出た。顔の筋肉を無理やり引き攣らせて、必死に、ただ必死に笑顔を作った。今、俺はどんな顔をしているのだろうか。引き攣った、無様な顔をしているに違いない。せめて泣きそうな顔だけはしていないと思いたかった。


「ありがとう。健太は? 今はこっちに戻ってきてるの? それともお休みで帰省?」

「あ、ああ。仕事の都合でな。駅前の再開発の担当になって、数年こっちの支社にいる予定なんだ」

「へえ、すごいね! 健太、昔から真面目でコツコツやるタイプだったし、大きな仕事任されてるんだね。おめでとう」


茜は素直に感心したように、少しトーンを上げて言う。


その無邪気な反応が、何の裏表もない純粋な称賛が、今の俺には何よりも酷く、残酷に感じられた。


俺の時計はあの日からずっと止まったままなのに、茜の時間は確実に進んでいたのだ。俺が選ばれなかったあの屋上の日から、彼女は翔太と共に歩み、愛を育み、新しい命を誕生させ、家族としての確かな歴史を築き上げている。


その事実が、俺という存在の小ささと、永遠に失ってしまったものの大きさを容赦なく突きつけてくる。俺は彼女の人生のメインキャストではなく、ただの「昔の友人」というモブに成り下がっていた。


「まあな。とりあえず、今日は休みで周辺の視察をしてたんだ」


これ以上、ここに留まっているのは危険だった。ボロが出そうだった。心の奥底に押し込めていたはずの、真っ黒な嫉妬と後悔が、いつ決壊して溢れ出してもおかしくなかった。


「そっか、お仕事中だったんだね。引き留めちゃってごめんなさい。さくら、お兄ちゃんにバイバイは?」


茜に促され、さくらが小さな手を振り返す。その無垢な瞳が、俺の罪悪感をさらに刺激した。


「いや、気にしないでくれ。……それじゃあ、俺はそろそろ行くよ。娘さんもお腹空かせてるかもしれないし」


逃げるようにそう告げると、俺は小さく手を挙げた。


「うん。……あ、あのね、健太」


茜が何かを言いかけた。その声に僅かな躊躇いと、何かを求めるような響きが含まれているように聞こえたが、俺はそれを聞くのが恐ろしくて、足早に歩き出した。


「じゃあな、またどこかで」


振り返ることなく、交差点の人混みへと紛れ込む。背中に刺さる茜の視線を感じながらも、俺はただ前だけを見て歩き続けた。振り返ってしまえば、もう二度と歩き出せなくなる気がしたからだ。


交差点を渡りきり、少し離れた薄暗い路地裏に入った途端、俺は耐えきれずに壁に手をついて大きく息を吐き出した。


心臓が異常な速さで警鐘を鳴らし続けている。冷や汗が全身から噴き出し、ワイシャツが肌に張り付く感覚が酷く不快だった。


「……くそっ、くそぉっ!」


絞り出すような声が、人気のない路地に虚しく響いた。


あの日、高校の屋上で彼女と翔太が抱き合っている姿を見た時以上の絶望感が、今の俺を完全に支配していた。


あの時はまだ、俺にもチャンスがあったのかもしれないと、心のどこかで卑怯な言い訳ができた。勇気を出してさえいれば、俺が先に想いを伝えていれば、未来は変わっていたかもしれないと。


しかし、今は違う。茜の薬指に光る指輪と、彼女の足元にしがみつくあの小さな命。それは、俺が入り込む隙間などこの世界のどこにもないという、完全で絶対的な証明だった。


茜色の空の下、俺が世界で一番愛した君は、俺ではない誰かの妻になり、母になっていた。


取り戻せない過去の重さが、鉛のように胃の腑にのしかかる。もしあの時、自分が素直になっていれば。もしあの時、傷つくことを恐れずに一歩を踏み出していれば。


そんな無意味な「もしも」が、頭の中をぐるぐると駆け巡り、俺の精神を蝕んでいく。


見上げた空は、春の霞に覆われて白く濁っていた。俺の視界もまた、いつの間にか滲んで、何も見えなくなっていた。


止まっていたはずの秒針は、動き出したのではない。ただ俺の心臓を直接抉りながら、残酷に、そして暴力的に、現在という圧倒的な時間を見せつけてきただけだった。


地元に戻ってきた初日にして、俺は自分の愚かさと未練の深さを思い知らされていた。終わったことだと強がっていた自分の薄っぺらさが、痛いほどによく分かった。


この街での生活は、俺にとって過去の亡霊と戦い続ける、地獄のような日々になる。そんな確信めいた予感が、俺の足元に暗く、深い影を落としていた。

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