第6話 茜色の空に告げる、本当の「さよなら」
雨の公園での出来事から数日が過ぎた。
俺の心の中に渦巻いていた、泥のような後悔と、身勝手な救済の妄想は、あの夜の冷たい雨と共にすっかり洗い流されていた。残ったのは、圧倒的なまでの無力感と、そして、冷徹なまでに明確な現実だけだった。
俺は彼女のヒーローにはなれない。
彼女の人生を丸ごと背負い、さくらちゃんから父親を奪い、すべての業を背負って生きていく覚悟など、俺には最初からなかったのだ。俺が抱きしめようとしていたのは、現在を生きる一人の母親としての彼女ではなく、俺の都合の良い記憶の中で美化され、永遠に高校生のままで止まっていた「幼馴染の茜」という幻影に過ぎなかった。
それに気づいた時、不思議と心は軽くなっていた。
数年間、俺を縛り付けていた呪いの正体は、彼女への未練ではなく、行動を起こさなかった自分自身への「自己憐憫」だったのだ。俺はずっと、悲劇の主人公を気取っていただけだった。
「佐藤さん、これ、直しておきましたよ」
デスクに置かれたクリアファイル。顔を上げると、凛がいつものように少し呆れたような、けれどどこかホッとしたような表情で立っていた。
「……悪い、助かった」
「ここ数日、やっとまともな顔色に戻りましたね。何か吹っ切れたんですか?」
凛の観察眼には恐れ入る。彼女は俺が地獄のような精神状態を彷徨っていた時も、深くは立ち入らず、しかし常に俺が倒れないように実務面でも精神面でも絶妙な距離で支えてくれていた。
「ああ。……自分のどうしようもない未熟さに気づいて、目が覚めたってところかな」
「ふうん。まあ、佐藤さんがこれ以上ポンコツにならないなら、それでいいです。でも」
凛は少しだけ身を乗り出し、俺の目をまっすぐに見つめた。
「一人で抱え込んで自滅するような真似は、もうやめてくださいね。私は、佐藤さんのそういう不器用なところ、嫌いじゃないですけど、見ていてハラハラするので」
その言葉に含まれた真っ直ぐな好意と信頼に、俺の胸の奥で何かが温かく解けていくのを感じた。
俺は過去の幻影ばかりを追いかけ、目の前にある確かな温もりや、俺を必要としてくれる人の存在を、ずっと見落としていたのだ。
仕事に真摯に向き合い、時には厳しく、時には優しく俺を引っ張ってくれる凛。彼女となら、過去ではなく、未来の話ができるかもしれない。そう思えた。
「ありがとう、凛。……このプロジェクトが落ち着いたら、少し、美味いものでも食いに行かないか。仕事抜きで」
俺がそう言うと、凛は一瞬驚いたように目を丸くし、それからパッと花が咲くような笑顔を見せた。
「約束ですよ。私、高いお店予約しますからね」
「お手柔らかに頼むよ」
凛とのやり取りを終え、俺はパソコンの画面に向き直った。
止まっていた時計の針が、チクタクと確かな音を立てて未来へ向けて進み始めているのを感じた。俺には俺の人生があり、築いていくべき未来がある。もう、後ろを振り返る必要はない。
その日の昼休み、スマートフォンの画面が短く光った。
MINEの通知。茜からだった。
『健ちゃん、この間はごめんなさい。もしよかったら、最後にもう一度だけ会って話せないかな。明日、夕方の五時に、高校の裏の河川敷で待ってます』
「最後にもう一度だけ」。
その言葉に込められた彼女の決意が、画面越しにも伝わってきた。
俺は迷うことなく、『分かった。行くよ』とだけ返信した。
これが、本当の意味での終わりの始まりだ。俺たちはお互いに、自分自身の過去と決別するために、もう一度だけ向き合わなければならない。
翌日の夕方。
仕事を少し早めに切り上げ、俺は指定された河川敷へと向かった。
見慣れた風景が広がる。高校時代、部活帰りに茜と待ち合わせをして、よく二人で他愛のない話をしながら歩いた土手道だ。
西の空には、あの日と同じ、燃えるような茜色の夕陽が沈みかけていた。空全体がオレンジと赤のグラデーションに染まり、川のせせらぎが夕日を反射してきらきらと光っている。
土手の草むらの斜面に、彼女の姿があった。
今日は落ち着いたベージュのトレンチコートを着て、風に揺れる髪を時折手で押さえながら、川の向こうを見つめている。
俺が近づく足音に気づき、茜はゆっくりと振り返った。
「健ちゃん」
彼女の顔を見て、俺は少しだけ安堵した。
雨の公園で見せたような、死人のような青白さと絶望の影は、もうそこにはなかった。少しやつれてはいるものの、その瞳にははっきりとした意志の光が宿っていた。
「待たせたな」
「ううん、私の方こそ急に呼び出してごめんなさい」
俺たちは数歩の距離を空けて立ち、茜色の空を見上げた。
「……落ち着いたのか」
「うん。あの夜、健ちゃんが帰った後、お母さんに全部話したの。翔太のことも、私の気持ちも」
「そうか」
「お母さん、泣いて怒ってくれた。私が一人で苦しんでたことに気づけなかったって。……それでね、私、決めたの」
茜は深く息を吸い込み、夕陽に照らされた横顔を俺に向けた。
「私、しばらく実家に帰ることにした。翔太とは、少し距離を置いて、ちゃんと話し合うつもり。もし彼が歩み寄ってくれないなら……その時は、離婚も視野に入れてる」
彼女の口から出たその言葉は、驚くほど静かで、しかし確かな強さを持っていた。
「私が我慢すればいいって、ずっと逃げてきた。でも、さくらの前で私が泣いてばかりいたら、あの子まで不幸にしちゃう。私は、あの子の母親だから。あの子を守るために、私が強くならなきゃいけないんだって、あの夜、健ちゃんにすがりついて、さくらの顔を見た時に気づいたの」
「……」
「健ちゃん。私、あの夜、ひどいこと言った。健ちゃんに私の人生を押し付けて、逃げようとした。本当に、ごめんなさい」
茜は深く頭を下げた。
俺はゆっくりと首を振った。
「謝るのは俺の方だ。俺も、お前を連れ出せるって、一瞬本気で思ってた。過去の未練に引きずられて、お前の現実から目を背けて、勝手にヒーローになった気でいたんだ。……でも、俺にはお前を救えないって、思い知らされたよ」
俺の言葉に、茜は少しだけ寂しそうに、けれど優しく微笑んだ。
「ううん。健ちゃんは、私を救ってくれたよ」
「え?」
「健ちゃんが私の話を聞いてくれて、あの日、公園で私のために怒ってくれたから。私、自分が空っぽなんかじゃないって、少しだけ思えたの。健ちゃんがいたから、私は目を覚ますことができた。だから……ありがとう」
茜の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ち、夕陽の光を反射して光った。
それは、悲しみの涙ではなかった。過去のしがらみや呪縛から解き放たれ、自分の足で歩き出そうとする人間の、美しく強い涙だった。
彼女はもう、俺の手の届かない場所へ、自分の力で歩き出している。
ならば、俺もここで、すべてを精算しなければならない。
何年間も胸の奥底で腐らせていた、あの言葉を。
「茜」
俺は、彼女の目を真っ直ぐに見つめ返した。
風が強く吹き抜け、二人の間の空気を揺らす。
今なら言える。見返りを求めるためでも、彼女の心を揺さぶるためでもなく、ただ純粋に、俺自身の時間を進めるために。
「俺は、ずっとお前のことが好きだった」
茜の目が、少しだけ大きく見開かれた。
「幼稚園の頃からずっと、お前と一緒にいるのが当たり前で、いつの間にか、世界で一番大切な女の子になってた。……でも、俺は臆病だった。傷つくのが怖くて、関係が壊れるのが怖くて、一歩を踏み出せなかった」
俺は、あの日、屋上の扉の前で逃げ出した自分の弱さを、すべて言葉にして吐き出した。
「高校の屋上で、お前と翔太が一緒にいるのを見た。あの時、俺が飛び出してお前を奪い返していればって、何千回も、何万回も後悔した。お前が結婚してからも、ずっとその亡霊に取り憑かれてたんだ」
「健ちゃん……」
「でも、もう終わりだ」
俺は、小さく息を吐き出し、口角を上げて笑ってみせた。
「俺は、お前が好きだった。その過去は消えないし、嘘じゃない。でも、俺が愛していたのは、俺の記憶の中にいる高校生の茜だ。今目の前にいる、母親として強く生きようとしてる茜じゃない。……だから、これが本当のさよならだ」
好きだった。
過去形で放たれたその言葉は、俺の心の中に溜まっていた黒い感情をすべて浄化し、空の彼方へと吹き飛ばしてくれたような気がした。
茜は両手で顔を覆い、静かに泣き始めた。
けれど、その泣き声はどこかスッキリとしていて、穏やかなものだった。
俺は彼女に触れることはしなかった。ハンカチを差し出すこともしなかった。彼女の涙は、彼女自身で拭い去らなければならないものだと分かっていたからだ。
やがて、茜は顔を上げ、袖口で乱暴に涙を拭った。
そして、高校時代と全く同じ、少しはにかむような、太陽のように明るい笑顔を俺に向けた。
「……そっか。健ちゃん、私のこと好きだったんだね。知らなかったな」
「嘘つけ。絶対薄々気づいてただろ」
「ふふっ、どうだろうね。でも……ありがとう、健ちゃん。私、すごく嬉しい」
二人の間に、数年間失われていた、あの穏やかで心地よい沈黙が降りてきた。
それは、幼馴染としての無邪気な時間ではなく、それぞれの痛みを知り、それぞれの道を歩むことを決めた大人同士の、成熟した時間だった。
「俺も、前を向いて歩くよ。今の職場で、俺を支えてくれる人がいる。その人と、ちゃんと向き合ってみようと思うんだ」
凛の顔を思い浮かべながらそう言うと、茜は少しだけ驚いた顔をした後、心からの祝福の笑みを浮かべた。
「そっか。よかった。健ちゃん、絶対幸せになってね。健ちゃんは優しいから、素敵な家庭を築けるよ」
「お前もな。何かあったら、またいつでも愚痴くらいは聞いてやる。俺たちは、腐れ縁の幼馴染だからな」
「うん。よろしく頼むね、幼馴染くん」
西の空に沈みかけていた夕陽が、完全に山の向こうへと姿を消そうとしていた。
茜色の空が少しずつ群青色に染まり、一番星が静かに瞬き始める。
俺の時計は、もう止まっていない。
確かな鼓動と共に、俺の胸の中で力強く時を刻んでいる。
「じゃあ、俺は行くよ」
「うん。気をつけて帰ってね」
俺は踵を返し、茜に背を向けて歩き出した。
数歩進んだところで、ふと振り返りたい衝動に駆られたが、俺はぐっと歯を食いしばり、前だけを見据えて足を踏み出した。
背中に刺さる彼女の視線を感じる。
それは引き留めるためのものではなく、俺の背中を押してくれる、温かい見送りの視線だった。
土手道を降り、アスファルトの舗装路に出る。
街灯が次々と点灯し、夜の街が静かに息づき始める。
スマートフォンの画面を開くと、凛から『仕事終わりました。お腹空きました!』という短いメッセージが入っていた。
俺は思わず吹き出し、『今から向かう。高い店はやめてくれよ』と返信を打った。
冷たい夜風が頬を撫でていくが、不思議と寒さは感じなかった。
心の中を満たしていた重い鉛は消え去り、代わりに澄み切った空気が肺いっぱいに満ちている。
さよなら、俺の初恋。
さよなら、茜色の空の下で立ち止まっていた、臆病な俺。
俺は歩幅を広げ、駅の改札へと続く明るい道に向かって、力強く歩き始めた。
もう、迷いはない。
俺の時計の秒針は、新しく始まる未来の時間を、確かに刻み続けていた。
それは、誰のものでもない、俺自身が選んだ新しい人生の始まりの音だった。
誰もが抱える過去の痛みや後悔を、生きていくための糧に変えて、俺はこれからも歩き続ける。
茜色の空の向こう側に広がる、まだ見ぬ明日へと向かって。




