第009話 言い切れない
「杉浦」
山内の声で、智也は教室に戻った。
前のスクリーンには、履修登録の画面例が映っている。教授の声はまだ続いていた。教室の中では紙をめくる音と、椅子のきしむ音が重なっている。
智也は、自分の手が冊子の同じ場所を押さえたままだったことに気づいた。
「これ、抽選ってことは、落ちたら別の取るってこと?」
山内がページの表を指している。
智也は一拍遅れて、その表を見た。
「たぶん」
「たぶんかよ」
「俺も分かんない」
山内は小さく笑って、前を向いた。軽い笑いだった。さっきの会話も、山内にとってはもう流れている。東京に来たかったかどうか。就職を考えたらどうか。経済学部だからどうか。
普通の雑談だった。
智也だけが、違う場所へ行って戻ってきたみたいだった。
教授は説明を続けている。
履修登録。抽選。資格科目。キャリア支援。聞き慣れない言葉も、聞き慣れたような言葉も、同じ速さで進んでいく。
智也はシャープペンを置いた。
兄と同じことをしているつもりはなかった。
東京に来たのも、経済学部を受けたのも、亮介の真似ではない。家から出たかった。自分で選んだ大学だった。受験科目も、偏差値も、担任との面談も、自分の都合で決めた。
そう言えるはずだった。
言えるはずなのに、声に出すと薄くなる気がした。
「これ、必修だけ先に入れればいいんかな」
山内がまた聞いてきた。
「たぶん」
「杉浦のたぶん、信用ならないな」
「じゃあ聞くなよ」
「いや、聞く相手がほかにいない」
山内は悪びれずに言った。
智也は少しだけ笑いそうになったが、うまく笑えなかった。口元だけが動いて、すぐ戻る。
山内は気にしていない。
気にしていないことが、少し助かった。
説明が終わると、教室の空気が一気に動いた。
椅子を引く音が重なる。学生たちが冊子を鞄に入れ、何人かは前のほうへ質問に行った。山内はリュックを片方の肩にかけながら、「学食寄る?」と聞いてきた。
「今日はいい」
「そっか。じゃ、また」
「また」
それだけだった。
山内は別の学生に声をかけられ、そのまま廊下のほうへ歩いていった。智也は少し遅れて立ち上がる。冊子を鞄に入れると、思ったより重かった。
教室を出る。
廊下には、同じような新入生が流れていた。掲示板の前で立ち止まる人、スマホで時間割を撮る人、エレベーターを待つ人。みんな、自分の大学生活を少しずつ組み立てているように見えた。
智也も、その中の一人だった。
そう見えるはずだった。
階段を下りる途中で、窓の外に中庭が見えた。
ベンチに座っている学生が何人かいる。弁当のふたを閉める人、イヤホンを片方だけ外して話している人、講義棟の写真を撮っている人。まだ誰も、この場所に慣れているようには見えない。
それなのに、智也だけが別のものを持ち込んでいる気がした。
冬の鍋。
スーツの袖口。
あの言葉。
大学の階段を下りているだけなのに、実家の食卓の湯気がまだ鼻の奥に残っているようだった。
帰りの電車で、智也は冊子を開かなかった。
窓の外には、夕方のビルが流れていく。車内のガラスに自分の顔が薄く映っていた。眠そうで、少し疲れていて、どこにでもいる大学生の顔だった。
駅で降りる。
商店街を抜ける道は、もう少しだけ分かるようになっていた。総菜屋の前を通り、シャッターの閉まった文房具店を曲がる。雨の日に覚えた近道を、晴れている日にも使っている。
近いから。
それだけだった。
アパートの外階段を上がり、二〇三の前で鍵を出す。
鍵はまだ少し固い。手首を持ち上げる。回す。かちりと開く。
部屋に入ると、薄いグレーのカーテンが窓の前に下がっていた。朝、閉めたまま出たものだ。床には段ボールが少し減っている。クローゼットの横には、白いハンガーに掛けたシャツがある。
智也はリュックを下ろした。
台所で水を飲み、白い皿を洗い直す。昨日の夜に洗ったはずなのに、乾いた水滴の跡が少し残っていた。指でこすり、水で流す。
普通に使える。
そう思うたび、言葉が胸の奥で引っかかる。
スマホには母からのメッセージが来ていた。
〈履修説明どうだった?〉
智也は画面を見たまま、少し考えた。
どうだった、と聞かれても、説明しようがない。分からなかった、と正直に返せば心配される。大丈夫、と返すには、まだ大丈夫ではない気がする。
〈普通〉
そう打った。
すぐに既読はつかなかった。
智也はスマホを伏せた。
夜、智也は床に教科書を広げた。
基礎経済学。
まだ開いても、ほとんど分からない。需要、供給、市場、効用。ページの端には、大学生になったばかりの人間が読むには妙に硬い言葉が並んでいた。
延長コードにつないだライトが、紙の上を白く照らしている。
延長コードには、小さなラベルがついたままだ。
机。
黒いペンで書かれた文字が、コードの途中に巻かれている。智也はそれを見ないようにして、教科書の最初のページに目を落とした。
亮介も、こんな言葉を知っていたのだろうか。
たぶん知っていた。
知っていて当然みたいな顔をしていた気がする。
実際には、分からない。
亮介が大学で何をどれだけ勉強したのか、智也はほとんど知らない。就職してからどんなふうに働いていたのかも知らない。家族が知っている亮介は、ちゃんとしている長男で、東京で働く兄で、スーツが似合う人間だった。
智也の知っている亮介は、あの食卓で軽く言った兄だった。
俺と同じことしなくていいから。
智也は教科書を閉じた。
同じことじゃない。
そう思った。
東京にいるからといって、同じではない。経済学部だからといって、同じではない。兄が住んでいた部屋に住んでいるからといって、同じではない。
でも、部屋の中には亮介のカーテンがあり、亮介のハンガーがあり、亮介が使っていたらしい延長コードがあった。
駅までの近道も、亮介が使っていた道だった。
白い皿も、黒い傘も、洗面台の棚の奥にあるカミソリも。
智也は閉じた教科書の上に、しばらく手を置いていた。
同じことじゃない。
もう一度そう思ってみた。
言い切るには、少しだけ足りなかった。




