第008話 冬の鍋
実家の食卓には、鍋が出ていた。
母が「簡単でいいよね」と言いながら作った水炊きで、白菜が多すぎた。豆腐は鍋の端で崩れて、白いかけらが湯の中をゆっくり動いていた。
父は仕事から帰ったばかりだった。
ネクタイを緩めたまま、ビールの缶を片手にテレビを見ている。ニュースの音は小さく、何を言っているのかはほとんど分からなかった。画面の下に天気予報の文字だけが流れていた。
亮介はその日、東京から帰ってきていた。
出張のついでだったと思う。土曜の夜だけ実家に泊まり、翌日の昼にはまた戻ると言っていた。スーツ姿のまま食卓に座っているのを、智也はよく覚えている。
「着替えたら」
母が言った。
「あとでいい」
亮介はそう返して、取り皿を手元に寄せた。
家の狭い食卓に、スーツの亮介だけが少し違う場所から来たみたいに座っていた。箸を持つ手も、鍋の取り皿を取る動作も、昔と変わらないはずだった。けれど、シャツの袖口や腕時計が、台所の蛍光灯の下で妙に浮いて見えた。
似合っていた。
それが嫌だった。
母は鍋の灰汁をすくいながら、智也の皿に白菜を入れた。
「智也、東京の大学も受けるんでしょ」
「うん」
「どこだっけ。経済?」
「経済。まだ受かってないけど」
「受かるよ。模試も悪くなかったんでしょ」
母はそう言って、父の皿にも豆腐をよそった。豆腐は途中で崩れ、父の皿の中で形がなくなった。
「無理はするなよ」
父がテレビから目を離さずに言った。
励ましなのか、止めているのか分からない言い方だった。父はいつもそうだった。強く反対はしない。ただ、金のことや生活のことを短く言う。
「私立なら、仕送りも考えないとね」
母が言った。
「奨学金も調べてる」
智也はそう答えた。
調べていると言っても、学校でもらった資料を読んだだけだった。制度の名前は覚えたが、自分がどれに当てはまるのかはまだ曖昧だった。
「アパートの話は、お父さんから聞いた?」
母が父のほうを見た。
父は缶を置いて、少し考える顔をした。
「親戚のところだろ。空いてるなら、普通に借りるよりは助かる」
「でも古いんでしょ」
「新しいところを選べるほど余裕はない」
父は責めるようには言わなかった。
ただ事実を言っただけだった。智也もそれは分かっていた。東京の家賃を調べた時、画面に並ぶ数字を見て、途中で見るのをやめた。駅から遠い部屋でも、実家の感覚とは違った。
「場所は悪くないって」
父が言った。
「大学が決まってから、ちゃんと確認する」
「まだ受かってないし」
智也はそう言った。
母は「受かるって」と、また軽く言った。
その軽さが、ありがたい時と、そうでない時があった。
亮介は取り皿の豆腐を箸で割っていた。
「東京出たいんだ」
智也は、その言い方が少しだけ嫌だった。
「出たいっていうか、大学が東京にあるから」
「ふうん」
亮介は豆腐を食べた。
それだけで終わればよかった。
母が、鍋のふたを少しずらしながら言った。
「亮介も最初は大変だったよね」
亮介は「まあ」と曖昧に返した。
「洗濯機の置き場がどうとか、電話してきたじゃない」
「そんなの覚えてない」
「覚えてるよ。お母さん、説明したもん」
母は笑っていた。
悪い笑いではなかった。昔のことを思い出して、少し安心しているような笑いだった。父も缶を置いて、「最初は誰でもそんなもんだ」と言った。
誰でも。
智也はその言葉を聞きながら、鍋の中の鶏肉を箸で探した。
亮介は何も言わず、ポン酢を少し足した。
その手つきも、なぜか落ち着いて見えた。実家の食卓なのに、出張先の店でも同じように箸を持っていそうだった。そう思うと、智也は自分の部屋着の袖口が急に子どもっぽく見えた。
高校のジャージ。
袖のゴムが少し伸びて、手首のところでゆるんでいる。
同じ食卓についているのに、亮介だけがもう家の外にいる人間だった。
亮介も最初は大変だった。
亮介にも分からないことがあった。
そういう話を聞けば、少し楽になってもよかったのかもしれない。けれど、その時の智也には、母の言葉まで亮介の側に立っているように聞こえた。
亮介には東京があった。
亮介には先に出ていった経験があった。
そして今、自分の前にスーツで座っている。
智也がこれから向かおうとしている場所を、兄はもう通ってきた人間みたいな顔をしていた。
「一人暮らしは、やってみないと分かんないでしょ」
母が言った。
「ごみ出しとか、ちゃんとできる?」
「できる」
「食べるものも偏るし」
「分かってる」
「亮介、最初どうしてたっけ」
また亮介に話が向いた。
智也は、取り皿の端を箸で軽く叩いた。小さな音がしたが、誰も気にしなかった。
亮介はしばらく黙っていた。
それから、何気ない口調で言った。
「俺と同じことしなくていいから」
箸の先で、白菜が切れた。
智也は顔を上げた。
亮介は智也ではなく、鍋の中を見ていた。声には力が入っていなかった。忠告にも、冗談にも、嫌味にも聞こえるくらいの軽さだった。
「どういう意味」
智也は聞いた。
亮介は少しだけ目を上げた。
「そのまま」
「そのままって」
「東京来るのが目的なら、別に他でもいいだろ」
母が「ああ、そういうこと」と言った。
「そうね。智也は智也で考えればいいのよ」
父も「まあ、行きたいところを受ければいい」と言った。
食卓は普通に続いた。
母はポン酢が足りないと言って立ち上がった。父はテレビの音量を少しだけ上げた。亮介はもう何も言わず、取り皿の中の豆腐を食べた。
誰も気づいていなかった。
今の言葉が、智也のどこに入ったのか。
俺と同じことしなくていいから。
兄と同じになれると思うな。
兄の真似をするな。
東京に来たくらいで何か変わると思うな。
そう言われた気がした。
亮介が本当にそう思っていたかは分からない。たぶん、亮介自身も深く考えていなかった。何気なく言っただけかもしれない。母が受け取ったように、智也の進路を心配しただけかもしれない。
それでも智也には、別の言葉に聞こえた。
お前は俺とは違う。
鍋の湯気と、豆腐の白さと、亮介のスーツの袖口を覚えている。
そのあと、何を食べたのかは覚えていない。




