第007話 経済学部
履修説明の教室は、午後の眠さで少しざわついていた。
前の席では、知らない学生が資料の端に丸をつけている。後ろでは誰かが小さく笑っていた。教授の声はマイクを通しているのに、ところどころ聞き取りにくい。
智也は配られた冊子を開いたまま、シャープペンを指先で回していた。
経済学部。
そう印刷された表紙を、もう何度も見ている。大学名の下に、学部名と年度が並んでいた。新しい紙の匂いがする。まだ折り目の少ない冊子。まだ名前を覚えていない教室。まだ顔と声がつながらない学生たち。
入学してから、説明ばかり聞いている気がした。
学生証の使い方。履修登録の期限。健康診断。英語のクラス分け。奨学金。掲示板を見ること。メールを確認すること。分からなければ早めに相談すること。
早めに、と言われても、何が分かっていないのかがまだ分からない。
智也は冊子のページをめくった。
経済学入門。
基礎数学。
英語。
情報処理。
必修と選択の違いは、説明を聞けば聞くほどややこしくなる。ページの端に小さく単位数が書いてあり、表の中には抽選という文字もあった。
「杉浦」
隣から声がした。
山内だった。
今日は黒い傘ではなく、机の横にリュックだけを置いている。髪は前より少しだけ整って見えたが、本人は眠そうな顔で冊子を見ていた。
「これ、何ページって言った?」
「二十六」
「助かった。全然追えてない」
山内はページをぱらぱらめくった。指の動きが少し雑で、薄い紙が折れかける。
「経済って、最初からこういう感じなんだな」
「どういう感じ」
「表ばっか」
智也は小さくうなずいた。
表ばっか。
たしかにそうだった。曜日、時限、教室、単位、担当教員。まだ授業も始まっていないのに、生活の一週間が表の中に先に作られていく。
教授は前で、将来的な進路の話をしていた。
資格。インターンシップ。キャリア形成。金融、メーカー、公務員。四年後の話が、まだ四月の教室で普通に出てくる。
智也は冊子の表紙を閉じた。
まだ駅から大学までの道も覚えきっていない。何号館がどれなのかも、校内のコンビニがどこにあるのかも曖昧だ。それなのに、四年後のことを考えろと言われる。
前の席の学生は、もうスマホで何かを検索していた。
資格の名前を打っているのかもしれない。画面には小さな文字が並び、指が早く動いている。右隣の学生は、冊子の余白に丸い字で「必修」と書き込んでいた。
みんな、分かっているように見える。
本当に分かっているのかは知らない。たぶん、半分くらいは智也と同じで、分かったふりをしているだけだろう。それでも、手を動かしている人間は、少し先に行っているように見えた。
智也はシャープペンの芯を少しだけ出した。
何か書こうとして、やめる。
どこに何を書けばいいのか分からなかった。
「杉浦って、どこ出身だっけ」
山内が、前を向いたまま聞いた。
「地方」
「ざっくりだな」
「説明しても分かんないと思う」
「まあ、俺も東京の地名ほとんど分かんないけど」
山内は笑った。
その軽さは、少し楽だった。答えにくいことでも、重く受け取られない感じがする。反対に、軽すぎて、どこまで返せばいいのか分からなくなる。
「東京来たかった感じ?」
智也はシャープペンを止めた。
「まあ」
「俺も。就職とか考えたら、東京のほうがいいかなって。経済だし」
山内は、そういうことを何でもないように言った。
東京。
就職。
経済。
言葉だけなら、どれも普通だった。大学に入ったばかりの教室で、誰かが言ってもおかしくない。山内の声にも、余計な意味はない。
「杉浦もそういう感じ?」
「別に」
「あ、違う?」
「家から出たかっただけ」
言ってから、少し強かったかと思った。
山内は気にした様子もなく、「それも分かる」と笑った。前の席の学生が振り返り、二人のほうをちらっと見た。智也は冊子に目を落とした。
家から出たかった。
それは嘘ではない。
でも、それだけで東京に来たわけでもない。経済学部を選んだ理由を聞かれたら、担任にすすめられたからとか、受験科目が合っていたからとか、就職に悪くなさそうだったからとか、いくつか答えは作れる。
どれも間違いではない。
間違いではないのに、どれも自分の声になりきらない。
「就職とか、もう考えてんの」
智也は聞いた。
山内は少しだけ肩をすくめた。
「ちゃんとは考えてない。でも、考えてることにしとかないとまずそうじゃない?」
「何それ」
「親とか先生とか、そういうの好きじゃん。将来見てます、みたいな顔」
山内は笑って、冊子の端を指で弾いた。
智也は返事をしなかった。
将来を見ている顔。
亮介は、そういう顔がうまかった。たぶん、本当に見えていたわけではない。けれど、分かっている側に立っているように見せるのがうまかった。
智也には、それがずっと腹立たしかった。
兄は、こういう話が似合う人間だった。
スーツを着て、会社名の入った名刺を持って、誰かに将来を聞かれたら、まともな答えを返せる。そういう顔をしていた。
実際に返せたのかは知らない。
知らないのに、そう思ってしまう。
智也は窓の外を見た。
午後の光は薄く、ガラスには教室の中がぼんやり映っている。前のスクリーンに映った文字が、窓にも薄く重なっていた。隣の山内はまたページを探している。
「経済学部」
智也は声に出さずに、表紙の文字をなぞった。
兄と同じことをしているつもりはない。
そう思おうとした。
東京に来たことも、経済学部を選んだことも、兄の真似ではない。兄が住んでいた部屋にいるのは、家賃が安く済むからだ。親戚の部屋で、通学にちょうどよく、今の自分には他の選択肢が少なかったからだ。
理由は、いくつもある。
それなのに、どの理由も少しずつ薄い。
教授の声が遠くなった。
智也は、亮介が実家の食卓に座っていた夜を思い出していた。
高校三年の冬だった。
母が鍋を出した夜。
東京から帰ってきた亮介が、スーツ姿のまま、いつもの席に座っていた。




