第006話 延長コード
智也は黒い傘を少し傾けて、駅へ向かった。山内の青い折りたたみ傘は人の流れに混ざり、すぐに見えなくなった。
駅までの道は、行きより長く感じた。
雨のせいで、人の歩く速度がばらばらになっている。早足で追い越していく人もいれば、スマホを見ながらゆっくり歩く人もいる。傘と傘がぶつかりそうになり、智也は何度か肩を引いた。
黒い傘は大きかった。
そのぶん濡れにくい。リュックの端もほとんど濡れていない。足元だけが跳ね返りで湿っていく。靴の中に少しずつ冷たさが入った。
使える。
またそう思った。
駅のホームは湿った匂いがした。
電車の中では、傘を持つ手の置き場に困った。足の間に立てると、先から落ちた水が床に小さな丸を作る。隣の人の靴に当たらないように、智也は傘を少し斜めにした。
自分の最寄り駅で降りるころには、雨はさらに強くなっていた。
駅前のロータリーに、車のライトが白くにじんでいる。バスを待つ人たちが、屋根の下に詰まっていた。智也はスマホを取り出し、地図を開く。
画面に水滴が落ちた。
指で拭くと、地図が少し動き、青い点がずれたように見えた。行きに通った道を戻ればいいだけなのに、雨の夜になると見えるものが変わっていた。
文房具店の角を曲がる。
そのつもりで歩いていたのに、同じようなシャッターが続いて、どれが文房具店だったのか分からなくなった。スマホを見る。青い点は道の上で震えている。合っているようにも、少し外れているようにも見えた。
靴下が濡れていく。
智也は一度、コンビニの前で立ち止まった。
その時、大家の声を思い出した。
商店街を抜けたほうが近いよ。亮介くんもそっち使ってた。
内見の日、大家はゴミ出しの説明のあとで、そんなことを言っていた。駅からまっすぐ来るより、屋根のある商店街を通ったほうが濡れないし、少し近い、と。
その時は聞き流した。
兄が使っていた道を、自分がわざわざ覚える必要はないと思った。
でも、雨は強かった。
智也はコンビニの看板を背にして、商店街のほうへ歩いた。
古いアーケードは、駅前の大通りから一本入ったところにあった。屋根の下に入ると、傘に当たる雨音が急に遠くなる。店は半分ほど閉まっていた。総菜屋のガラスケースには、揚げ物が少しだけ残っている。八百屋の前には、濡れた段ボール箱が積まれていた。
傘を閉じる。
黒い布についた雨粒が、足元にばたばた落ちた。
アーケードの照明は白く、床のタイルはところどころ欠けている。智也はスマホを見ないで歩いた。出口の向こうに、見覚えのあるクリーニング店の看板が見えた。
近かった。
思ったより、ずっと近かった。
商店街を抜けると、アパートまでの道はすぐだった。外階段は雨で濡れ、手すりに水がついている。智也は傘をもう一度開くほどでもなく、肩を少しすくめて階段を上がった。
二〇三の前に立つ。
鍵はやっぱり固かった。
少し持ち上げる。回す。かちりと開く。
玄関に入った瞬間、靴下の冷たさが急にはっきりした。智也は黒い傘をたたきに立てかけ、濡れた靴を脱いだ。リュックを下ろすと、肩が軽くなる。
部屋は暗かった。
蛍光灯の紐を引く。白い光がついて、床の段ボールや大学の資料が浮かび上がった。朝出た時と、ほとんど変わっていない。変わっていないことが、少しだけ腹立たしかった。
智也は靴下を脱ぎ、浴室の入口に掛けた。
洗濯機はまだない。洗面台で軽くすすいで、ハンガーに掛けるしかない。昨日使った白いハンガーに濡れた靴下を掛けると、先から水が落ちた。
スマホの充電は二十パーセントを切っていた。
大学の資料を見ながら、パソコンも使いたい。お湯も沸かしたい。けれど、部屋のコンセントは思ったより少なかった。台所の横にひとつ。部屋の壁にひとつ。どちらも遠い。
智也は「その他」の箱を探した。
実家から持ってきた延長コードが入っているはずだった。母が入れたと言っていた気がする。だが、充電器、薬、爪切り、タオルは出てくるのに、コードは見つからない。
床に座り込んで、箱の奥まで手を入れる。
ない。
舌打ちしそうになって、やめた。
棚の下に、白いものが見えた。
低い棚と壁の隙間に、丸められたコードが押し込まれている。智也は指を入れて引っ張った。ほこりが少し舞う。コードは白というより、少し黄ばんだ色をしていた。
延長コードだった。
三つ口の、古いもの。コードの途中に小さなラベルが巻かれている。白いテープに、黒いペンで文字が書いてあった。
机。
たぶん、亮介の字だった。
智也はラベルを見たまま、少しだけ黙った。
机。
それ以上の意味はない。
机の近くで使うために、そう書いただけだ。引っ越しの時に分かりやすいようにしたのかもしれない。会社の書類か何かを片づける時に、どこかへ持って行かれないようにしたのかもしれない。
どちらにしても、今はただの延長コードだった。
智也はそれをコンセントに差した。
スマホの充電器をつなぐ。画面の電池マークが動く。パソコンのアダプタも差す。電気ケトルを置く場所に少し迷い、台所の端に寄せた。
スイッチを入れると、赤いランプがついた。
湯は、普通に沸き始めた。
その音を聞いていると、急に腹が減った。
商店街の総菜屋で買ったコロッケを袋から出す。白い皿を洗い、紙の包みを開けてのせた。冷めかけていたが、ソースをかければ食べられた。
スプーンは使わなかった。
箸は割り箸で済ませた。
食べ終わって皿を洗い、流しの横に伏せる。水滴が皿の裏を伝って落ちた。台所は狭く、少し動くだけで肘が壁に当たる。それでも、使えないほどではない。
洗面台へ行く。
鏡の中に、雨で少し乱れた髪の自分がいた。
智也は顔を洗った。
タオルで拭き、部屋へ戻る。
寝る場所は、部屋の奥だった。
前から残っていたベッドフレームに、昨日出した寝具を置いてある。マットレスは新しく買った安いものだ。フレームは低く、木の角が少し擦れている。捨てるには大きすぎたし、買い直すには金がかかる。
だから使う。
それだけのことだった。
智也は照明を消し、ベッドに横になった。
兄のベッドではない。
フレームが残っていただけだ。マットレスは違う。シーツも違う。枕も違う。そう考えると、少しはましだった。
雨の音が窓の外で続いている。
商店街を通れば近い。傘は大きい。延長コードは使える。皿も、ハンガーも、ベッドフレームも。
この部屋は、思ったより使える。
その言葉はもう、打ち消しても消えなかった。
智也は目を閉じた。
兄のベッドではないと思いながら、朝まで一度も起きなかった。




