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第005話 黒い傘

天気予報は、午後から雨だった。


智也は玄関で靴を履きながら、スマホの画面をもう一度見た。雲の下に、斜めの線が三本並んでいる。降水確率は七十パーセント。昼までは曇りで、夕方から強く降るらしい。


折りたたみ傘はなかった。


実家では、玄関の傘立てに何本も傘が入っていた。自分のものがどれなのか、はっきり決まっていないくらいだった。だから、一本くらい持ってきたつもりでいた。


でも、段ボールにもキャリーケースにも入っていなかった。


智也は部屋を振り返った。


開いたままの「その他」の箱には、充電器、常備薬、爪切り、タオル、母が入れたらしい小さな裁縫セットが見えた。傘はない。


買えばいい。


駅前まで行けば、コンビニがある。大学へ向かう途中にも、どこかに売っているだろう。けれど、初めて行くガイダンスの日に、傘を買うためだけに寄り道するのは面倒だった。


玄関の隅に、黒い傘があった。


二〇三の部屋に最初からあったものだ。


傘立てというほどのものはなく、靴箱の横にただ立てかけられている。持ち手は黒い樹脂で、少しだけ艶が落ちていた。布の部分も黒い。ビニール傘ではないが、高そうにも見えない。


智也は一度、ドアノブに手をかけた。


そのまま出ようとして、止まった。


昼には降らないかもしれない。


七十パーセントでも、降らない日もある。駅から大学までは電車を使うし、濡れるのは駅までの道と、大学の中だけかもしれない。そう考えれば、持っていかなくてもいい。


けれど、雨が降ったら濡れる。


黒い傘は、手を伸ばせば届くところにある。


智也は傘を取った。


思ったより軽かった。


玄関を出て鍵をかける。鍵はまだ少し固い。大家がやっていたように、手首を少し持ち上げると回った。かちり、という音が廊下に小さく響く。


外階段を下りると、空は低かった。


駅までの道を、智也はスマホの地図を見ながら歩いた。昨日よりは少しだけ迷わない。文房具店の角を曲がる場所も、クリーニング店の看板も、見覚えがある。


手には黒い傘がある。


ただそれだけで、少し姿勢が決まらない。傘の先が歩道に当たらないように持つと、肩に力が入る。人のものを持っている感じがした。


人のもの。


兄のもの。


その言葉は、駅の改札を抜けるまで手の中で転がり続けた。


大学の最寄り駅は、人でいっぱいだった。


改札の前に、同じような年の学生が何人もいる。新品に見えるリュック。履き慣れていない革靴。少し明るすぎる髪。親と一緒に来ている人もいた。母親が封筒を持ち、本人がスマホだけを見ている。


智也は案内板に従って歩いた。


キャンパスの門には、大学名の入った旗が立っている。風が弱く、旗はほとんど動いていなかった。受付で学部名を言うと、係の学生が紙の地図を渡してくれた。


「経済学部は三号館です」


「ありがとうございます」


三号館がどれなのか、地図を見てもすぐには分からなかった。


人の流れについていく。新しい建物と古い建物が並び、通路の脇に桜の木がある。花はもうだいぶ開いていた。枝の下で写真を撮っている人がいて、智也は少し遠回りした。


ガイダンスの教室は広かった。


前のスクリーンには、学部名が白い文字で映っている。席は半分ほど埋まっていた。智也は後ろすぎない場所を選んで座った。黒い傘は机の横に立てかける。倒れないように、足でそっと押さえた。


しばらくして、隣の席に男が座った。


明るい茶色の髪で、襟元のゆるいシャツを着ている。椅子に座るなり、配られた資料をぱらぱらめくった。


「これ、どれ見ればいいんだろ」


男が小さな声で言った。


独り言かと思ったが、目が智也のほうを向いていた。


「たぶん、最初は時間割のやつ」


智也は机の上の紙を指した。


「ああ、これか。助かった」


男は笑った。


声が軽かった。初対面の相手に向けるには、少し軽すぎるくらいだった。でも、嫌な感じはしなかった。深く考えずに話しているだけなのだろう。


「名前、なんだっけ。出席票に書くやつ」


「杉浦」


「俺、山内。よろしく」


「よろしく」


山内はそれで満足したように、出席票に名前を書き始めた。字は少し大きく、枠からはみ出しかけている。


ガイダンスは長かった。


履修登録の説明、学生証の扱い、奨学金、健康診断、英語のクラス分け。前の職員が次々に話し、資料のページを指定する。教室のあちこちで紙をめくる音がした。


智也はメモを取ろうとしたが、途中でやめた。


全部を書いても、たぶんあとで読まない。重要そうなところだけスマホで写真を撮る。山内は途中で小さくあくびをし、慌てて口を閉じた。


昼前に一度休憩があった。


山内は「学食、混んでそう」と言い、智也は「たぶん」と返した。そのくらいの会話だった。どこから来たのか、どの高校だったのか、そういう話にはまだならなかった。


それでよかった。


兄の部屋から通っていることも、兄が死んだことも、言う必要はない。


午後の説明が終わるころ、窓の外は暗くなっていた。


教室を出ると、廊下の奥から雨の音が聞こえた。ぱらぱらではない。ちゃんと降っている音だった。


玄関の前で、学生たちが一斉に傘を開く。


透明なビニール傘が多かった。コンビニで買ったばかりらしいものもある。折りたたみ傘を広げる人、雨宿りしながらスマホを見る人、友人らしい相手と肩を寄せて走り出す人。


智也は黒い傘を開いた。


布が大きく広がる。骨の一本が少しきしんだが、折れてはいない。雨粒がすぐに黒い布を叩き始めた。


「それ、渋いな」


横から山内の声がした。


山内は細い折りたたみ傘を広げていた。青と灰色のチェック柄で、少し小さい。


智也は傘の持ち手を握り直した。


「借り物」


「へえ。誰の?」


山内の声に、深い意味はなかった。ほんのついでに聞いた、という軽さだった。


「親戚」


智也はそう答えた。


「親戚んちから通ってんの?」


「まあ、そんな感じ」


「いいな。家賃浮きそう」


「そうでもない」


うそではない。


でも、本当のことでもなかった。


山内はそれ以上聞かなかった。正門のほうへ歩きながら、雨のせいで髪が終わる、とどうでもいいことを言った。智也は「大変だな」とだけ返した。


駅へ向かう道で、山内とは別れた。


「また明日」


山内が軽く手を上げる。


智也も小さく手を上げた。


雨は強くなっていた。


黒い傘の縁から、雨粒が等間隔に落ちていく。持ち手は手のひらになじみすぎず、少しだけ太い。兄の手は、自分より大きかっただろうか。そんなことを考えて、すぐにやめた。


借り物。


親戚。


言った言葉は、どれも間違いではなかった。


兄のものだとは言わなかった。


死んだ兄のものだとも、言わなかった。

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