第004話 カーテン
四月になっても、朝の部屋は少し寒かった。
智也は布団の中で目を開けた。
天井の隅に、細いひびが一本ある。昨日の夜にも見た。寝る前にも見たし、夜中に一度目が覚めた時にも見た。だから、朝になってそれがまだ同じ場所にあることに、変な安心があった。
窓のほうが白い。
薄いグレーのカーテンの隙間から、朝の光がまっすぐ床に落ちていた。光の線は、畳んだ段ボールの角に当たり、そこだけ少し明るくなっている。
カーテンは、ちゃんと役に立っていた。
そのことに気づいて、智也はしばらく起き上がらなかった。
もしカーテンがなかったら、昨日のうちに買いに行くか、段ボールか何かを窓に立てかけるしかなかっただろう。外から見えるかどうかを気にしながら寝るのは嫌だった。隣の建物の壁しか見えない窓でも、何も掛かっていないのは落ち着かない。
残っていて助かった。
そう思うのが、まず嫌だった。
智也は布団から出た。
床は冷たい。靴下のままでも、足の裏にひやりとしたものが伝わった。部屋の隅には、昨日開けた段ボールが三つある。「衣類」の箱だけ口が大きく開いていて、母が入れたタオルが一枚、半分だけはみ出していた。
ガスは昨日の夕方に開いた。
作業員は五分ほどで帰った。コンロの火がつくかどうかを確認し、給湯の説明をして、署名をもらって帰った。そのあと智也はコンビニで買ったおにぎりを食べ、風呂には入らず、顔だけ洗って寝た。
冷蔵庫はまだない。
洗濯機もない。
でも、水は出る。電気もつく。ガスも使える。カーテンも掛かっている。
暮らせない理由は、ひとつずつ減っていた。
智也はリュックから小さなノートを出した。
買うものを書き出すために、実家を出る前に母が渡してきたものだ。表紙には、どこかでもらったらしい保険会社の名前が入っている。使わないと言ったのに、母は「何かに使えるから」とキャリーケースの上に置いた。
冷蔵庫。
洗濯機。
ゴミ袋。
洗剤。
そこまで書いて、ペン先が止まった。
ハンガー、と書きかけて、やめる。もうある。
皿、スプーン、とも書きかけて、やめる。たぶん、ある。
買わずに済むものが増えるたび、生活は少し楽になる。その楽さを、智也はまだうまく持てなかった。
智也はスマホを手に取った。
大学からの案内メールが届いている。新入生ガイダンス、学生証交付、履修説明。画面の中に並ぶ文字は、どれも同じような固さで、まだ自分のものではなかった。
床に置いた封筒から、昨日もらった資料を取り出す。
クリーム色の封筒には大学名が印刷されていた。中には地図と、学部ごとの集合場所が書かれた紙が入っている。折り目のついた紙を広げると、テーブルがないせいで床に直接置くしかなかった。
智也は膝をついて、その上にスマホを置いた。
経済学部。
自分で選んだはずの四文字が、紙の上では妙に遠かった。
高校の担任は「悪くない選択だ」と言った。母は「亮介と同じ系統だね」と言った。父は特に何も言わなかった。智也もその時は、そういうものだと思った。
今、兄の部屋の床でその文字を見ると、少しだけ違って見えた。
智也は紙を畳んだ。
着替えようとして、シャツの置き場に困った。
実家から持ってきたハンガーは二本だけだった。上着と制服の名残のようなジャケットを掛けたら、それで終わりだ。洗濯したものを干すには足りない。
クローゼットの横に、ハンガーが数本残っていた。
白いプラスチックのものが三本。黒い針金のものが二本。形も太さもばらばらで、どこの家にもありそうなものだった。
智也はそれを見ないふりをして、シャツを畳もうとした。
うまく畳めなかった。
一度着たシャツを段ボールに戻すのも嫌だった。床に置くのはもっと嫌だった。新しく買いに行くには、まだ店の場所も分からない。
智也は白いハンガーを一本取った。
軽い。
兄のもの、という感じはしなかった。少し曲がったプラスチックの道具でしかない。シャツを掛けると、当たり前のように肩の形を保った。
それだけだった。
それだけなのに、智也はハンガーを掛けたクローゼットの扉をすぐ閉めた。
台所へ行く。
コンビニで買った食パンが残っていた。常温で置けるジャムもある。マグカップは昨日「その他」の箱から出した。青い縁の、実家で使っていたものだ。
問題は、皿だった。
自分の皿は持ってきていない。母が入れたと言っていた気もするが、段ボールのどこかに埋まっている。探すには箱を全部開けないといけない。
シンク下を開ける。
古い鍋はなかった。包丁もない。小さなざると、白い皿が二枚だけ重なっていた。皿の上には、スプーンが一本置かれている。
智也はしばらくそれを見た。
捨てるつもりで置いたのか、使うつもりで残っていたのかは分からない。皿は少し重く、端に小さな欠けがある。スプーンの柄には細い傷がいくつも入っていた。
洗えばいい。
そう思った。
思ってしまえば、もうそれで終わりだった。
智也は皿とスプーンを流しに出した。水を強く流し、洗剤を少し多めにつける。スポンジでこすっている間、スプーンがシンクに当たって軽い音を立てた。
水で流す。
白い皿は、ただの白い皿になった。
食パンを一枚のせる。
ジャムを塗るためにスプーンを使う。ナイフではないから塗りにくい。ジャムの赤が、パンの端に厚く残った。
智也は床に座り、紙の資料をよけて皿を置いた。
食べる。
味は普通だった。パンは少し乾いていて、ジャムは甘い。マグカップの水は冷たかった。朝の部屋には車の音がほとんど届かず、どこかの部屋で椅子を引く音だけがした。
食べ終わると、皿にパンくずが残った。
智也はそれを指で払って、流しに捨てた。
スプーンも皿も、もう一度洗う。水滴が白い皿の上を流れ、シンクに落ちる。布巾がないので、自然に乾くまで伏せておくしかない。
洗えば使える。
カーテンも、ハンガーも、スプーンも、皿も。
全部、普通に使えた。
それが嫌だった。




