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第003話 棚の奥

大家が出ていったあと、智也はしばらく玄関に立っていた。


部屋の中に、人の声はない。


外階段を下りていく足音が、少しずつ遠くなる。最後に一階のドアが開いて閉まる音がして、それきりだった。


鍵をポケットから出して、もう一度見る。


白い札には、二〇三。


黒い字は少しにじんでいる。輪っかに通された二本の鍵が、手のひらで小さく重なった。どちらが普段使うほうなのか、まだ分からない。


智也はキャリーケースを部屋の隅まで運んだ。


畳んだハンガーの横に置く。床は思ったより冷たい。靴下の裏に、少しだけざらつきが残った。


窓を開ける。


冷たい風が入ってきた。薄いグレーのカーテンがふくらみ、洗剤の匂いが少しだけ動く。外には隣の建物の壁が見えた。向かいのベランダに、青い洗濯ばさみがぶら下がっている。


この部屋で暮らす。


そう思ってみても、まだうまく入ってこなかった。


電気はつく。水も、たぶん出る。窓も開く。鍵もある。暮らせる条件が一つずつそろっていくのに、そのぶんだけ、兄の部屋という言い方が薄くなっていく気がした。


薄くなることが、楽でもあった。


楽だと思うことが、嫌でもあった。


スマホを見る。


段ボールの配送予定までは、まだ一時間ほどある。ガスの立ち会いは夕方。冷蔵庫も洗濯機もない。今日できることは、部屋を見て、届いた荷物を置いて、必要なものをメモするくらいだった。


大家に言われたことを思い出す。


水、出るか見ておいて。


智也は台所へ行った。


蛇口は少し固かった。ひねると、最初に白く濁った水が出た。細かい泡のようなものが混じっている。すぐに透明になったが、智也は少し待った。


コップはない。


自分で持ってきたマグカップは、段ボールの中だ。


智也は手で水を受け、少しだけ口に含んだ。冷たかった。鉄の味がした気がした。気のせいかもしれない。


水は出る。


それだけ確認して、蛇口を閉めた。


次に洗面台へ行く。


浴室の手前に、古い白い洗面台があった。鏡の端が少し曇っている。照明をつけると、蛍光灯が一度だけ瞬いてから白く光った。


下の棚を開ける。


何もなかった。


中は乾いていて、奥に小さなほこりがたまっているだけだった。パイプのところに、前に貼られたガムテープの跡がある。智也は扉を閉めた。


上の小さな棚を開ける。


歯ブラシ立てがあった。


空だった。


透明なプラスチックの歯ブラシ立てで、底に白い水あかが残っている。捨てていいものなのか、使っていいものなのか、少しだけ考えた。


その奥に、銀色の柄が見えた。


智也は一度、扉を閉めた。


閉めた音が、思ったより大きく響いた。


自分の動きが不自然だったことに、閉めてから気づいた。何も見なかったことにするには、遅い。


もう一度、棚を開ける。


カミソリだった。


替刃式の、どこにでも売っていそうなもの。透明なカバーが刃の部分についている。柄の根元には、水あかのような白い跡が少し残っていた。


兄のものだ。


そう思っただけで、指先が止まった。


智也はカミソリをつまみ上げた。


軽かった。


兄が使っていたものにしては、拍子抜けするくらい軽い。手の中で少し向きを変えると、透明なカバーの内側に小さな水滴の跡が見えた。


捨てようと思った。


人の使ったカミソリなんて、残しておく理由がない。まして兄のものだ。使うこともない。棚に置いておいても邪魔なだけだ。


洗面台の下を開ける。


ゴミ袋はない。


台所へ戻り、シンク下も開ける。そこにもなかった。ガスの元栓と、古い雑巾が一枚あるだけだった。雑巾はたぶん部屋のものだ。誰のものなのか考えたくなくて、扉を閉めた。


金属とプラスチック。


これは何ごみなのか。


刃の部分だけ外すのか。カバーはつけたままでいいのか。そもそも、今日捨てていいものなのか。


スマホを取り出しかけて、やめた。


初日に、わざわざ調べて捨てるほどのものでもない。


そういうことにした。


智也はカミソリを棚の奥へ戻した。


さっきと同じ向きだったかどうかは分からなかった。少し奥へ押し込む。歯ブラシ立ての後ろに、銀色の柄が半分だけ隠れた。


扉を閉める。


鏡に自分の顔が映った。


泣いてはいなかった。


葬式のときも、そうだった。


母が泣いて、父が黙って、親戚が何人も来て、誰かが亮介の名前を口にするたびに空気が重くなった。それでも智也は泣かなかった。泣けないまま、出された弁当を食べ、靴をそろえ、帰りの新幹線で眠った。


兄が死んだ。


その事実は分かっている。


分かっているのに、洗面台の棚に残ったカミソリのほうが、今はよほど近かった。


インターホンが鳴った。


智也は肩を少し跳ねさせて、玄関へ戻った。ドアを開けると、宅配業者が段ボールを台車に載せて立っていた。


「杉浦さんでお間違いないですか」


「はい」


「三箱です。玄関先でよろしいですか」


玄関先に、実家から送った段ボールが積まれていく。受け取りのサインをして、ドアを閉める。急に玄関が狭くなった。


段ボールには母の字で「衣類」「本」「その他」と書いてあった。


その他。


智也はそれを見て、少しだけ息を吐いた。


その他の中に何が入っているのか、母は全部分かっているのだろうか。爪切り、充電器、常備薬、延長コード。入れた記憶のないものまで入っていそうだった。


箱の角には、宅配の伝票を剥がした跡が残っている。母は何度もガムテープを重ねたらしく、口の部分だけやけに固かった。指で押すと、段ボールが少しへこんだ。


キャリーケースを開け、上着を脱ぐ。


部屋の中央に座り、段ボールのガムテープに爪を立てた。うまく剥がれず、途中で切れる。カッターはたぶん「その他」の中だ。まだ開けていない箱の中に、箱を開けるための道具が入っている。


智也は爪で端を探した。


部屋は静かだった。


台所の蛇口から、一滴だけ水が落ちる音がした。


この部屋は、思ったより使える。


そう思ってしまった。


兄貴が死んだから、俺はこの部屋に住めている。


そう考えないようにして、智也はもう一度、ガムテープの端を探した。

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