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第002話 二〇三

外階段は、下から見たより狭かった。


大家は慣れた足取りで上がっていく。智也はキャリーケースを片手で持ち上げ、手すりに肩を寄せながらあとを追った。ケースの角が一段ごとにこすれる。中に入れた文庫本と充電器が、かすかにぶつかる音を立てた。


「重いでしょう」


大家が振り返らずに言った。


「大丈夫です」


大丈夫ではなかったが、階段の途中で手伝われるほうが面倒だった。


二階の廊下は、外に向かって細く開いていた。風が通る。洗濯ばさみがどこかで鳴った。手すりの向こうに、さっき歩いてきた道が見える。駅前の大通りは建物に隠れて、もう見えなかった。


廊下のいちばん奥。


ドアの横に、小さなプレートがあった。


二〇三。


数字の黒い塗装は少し剥げていた。ドアの下には、細い砂ぼこりがたまっている。


大家は鍵束から一本を選び、鍵穴に差した。回すと、少し固い音がした。引っかかったように一度止まり、大家が手首を少し持ち上げると、かちりと開いた。


「ここね」


ドアが開く。


智也は、先に靴を脱いだ大家の背中を見ながら、玄関に足を入れた。


兄が二か月前まで住んでいた部屋だった。


その言葉を、頭の中で一度言ってみる。


兄の部屋。


でも、玄関はただの玄関だった。


古い靴箱があり、たたきの端に小さな擦り傷がある。壁には傘立てを置いていたような跡が残っていた。誰かの靴が残っているわけではない。写真もない。花もない。


智也は靴を脱いだ。


キャリーケースを玄関の端に寄せる。床に置いた瞬間、車輪が少しだけ動き、靴箱に当たった。


「段差、気をつけて」


大家が言った。


「はい」


玄関の横に小さな台所がある。流しと一口コンロ。コンロの横には、油はねの跡がうっすら残っていた。奥に六畳ほどの部屋。窓には薄いグレーのカーテンが掛かったままで、床には何も落ちていない。


壁際に低い棚があった。


畳んだハンガーが数本、棚の横に置かれている。白いプラスチックのものと、黒い針金のもの。どれも、どこにでもあるハンガーだった。


天井の隅には、細いひびが一本入っている。照明は丸い蛍光灯で、紐が短く垂れていた。床はフローリング風の板で、入口の近くだけ少し色が薄い。何度も人が通った場所なのだろう。


智也は部屋の中央まで進めなかった。


玄関に近いところで立ち止まり、リュックの肩紐を握ったまま、目だけを動かした。


もっと何かがあると思っていた。


人が急にいなくなった部屋には、もっと分かりやすい跡があるのだと、勝手に思っていた。開けっぱなしの引き出しとか、読みかけの本とか、脱ぎ捨てた服とか。そういうものが、残っているのではないかと。


けれど、部屋はただ空いていた。


少し古くて、少し狭くて、普通に暮らせそうだった。


「きれいに使ってたから、そのまま住めるよ」


大家は窓の鍵を確かめながら言った。


カーテンの端をつまみ、レールを一度滑らせる。しゃっと乾いた音がした。


「カーテンも、嫌じゃなければ使って。前のままだけど、洗ってはあるから」


「ありがとうございます」


「冷蔵庫はないよ。洗濯機も自分で用意してね。ガスは今日の夕方だっけ」


「はい」


「立ち会い、忘れないように。あれ、いないと開けてもらえないから」


智也はうなずいた。


スマホのメモに、ガス、十七時から十九時、と入れてある。母にも何度も言われた。ガスの人が来るまで外に出ないこと。段ボールが届いたらすぐ連絡すること。鍵はなくさないこと。


母の声が、部屋の中で少しだけ浮いた。


「ゴミ出しは下に貼ってある。燃えるごみが月曜と木曜。資源が水曜。段ボールは月一回だから、今日出た分はしばらく部屋に置いといて」


大家は台所の壁を指した。


同じ曜日表が、そこにも貼ってあった。マスキングテープの端が少し浮いている。曜日の横に、青いペンで小さな丸がついていた。


亮介がつけたのか、大家がつけたのかは分からない。


「分からなかったら連絡して」


「はい」


大家の声は淡々としていた。


亮介のことを、いい子だったとも、残念だったとも言わない。ただ、部屋の使い方だけを話す。智也はそのほうが楽だった。


もし何かを言われたら、たぶん困った。


いいお兄さんだったね、とか、寂しくなるね、とか。そういう言葉を受け取る準備はしていなかった。ありがとうと言うのも違うし、はいと答えるのも違う。だから、洗濯機やゴミ出しの話だけが続くのは助かった。


「何か残ってたら、いらないものは捨てちゃっていいから」


「残ってるもの、あるんですか」


聞いてから、聞かなければよかったと思った。


大家は少し考えた。


「大きいものはないよ。棚とか、カーテンとか、ハンガーとか、そのくらい。使わないなら処分していいし、使えるなら使って」


使えるなら使う。


その言い方が、妙に現実的だった。


部屋は死んだ兄の部屋ではある。


でも、カーテンはカーテンで、ハンガーはハンガーだった。引っ越したばかりの大学生には、あれば助かるものでもある。


智也は返事をしなかった。


大家は気にした様子もなく、鍵を智也に渡した。


鍵は二本あった。銀色の小さい輪に、部屋番号を書いた白い札が付いている。二〇三。黒い油性ペンの字が、少しにじんでいた。


「亮介くん、こういうの几帳面だったからね」


大家は札を指先で軽く弾いた。


その一言に、智也は返事をし損ねた。


几帳面。


亮介にはよく似合う言葉だった。


似合うと思ったことが、少し嫌だった。


「じゃあ、私は下にいるから。水、出るか見ておいて」


「はい」


「何かあったら呼んで」


大家は靴を履き、ドアを開けた。外の風が少し入ってきて、カーテンの下が揺れた。


ドアが閉まる。


部屋は急に静かになった。


智也は玄関に立ったまま、鍵を握っていた。手のひらの中で、金属がぬるくなっていく。


兄の部屋。


そう思うと、足を踏み出しにくくなる。


でも、靴はもう脱いでいた。


キャリーケースも玄関に置いた。


大学へ通うには、ここから生活するしかない。家賃は安い。親戚の部屋だから、初期費用もほとんどいらない。父も母も、それで助かったと言っていた。


智也も、助かったと思っていた。


それが一番、よくなかった。


鍵をポケットに入れる。


薄いグレーのカーテンが、窓の前で小さく揺れていた。

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