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第001話 三月の終わり

三月の終わりの東京は、思っていたより寒かった。


駅の改札を出たところで、杉浦智也はリュックの肩紐を引き直した。背中の汗が、外の風で少し冷える。キャリーケースの取っ手を伸ばすと、固い音がして止まった。


駅前の桜は、まだ半分ほどしか開いていなかった。


テレビで見た東京の桜は、もっと明るく咲いている気がしていた。けれど目の前の枝は、つぼみのほうが多い。信号待ちの人たちは誰も見上げていない。風が吹くたび、花のない枝先だけが細かく揺れた。


智也はスマホの地図を開いた。


青い点が、駅前で少し震えている。目的地までは徒歩十五分。数字で見れば近い。けれど、曲がる場所も、通りの名前も、まだ何ひとつ身体に入っていなかった。


キャリーケースの車輪が、歩道の継ぎ目で引っかかった。


一度ならまだいい。二度、三度と続くと、腕に小さな苛立ちがたまる。智也はケースを少し持ち上げて、また下ろした。車輪が鳴る。東京の歩道はもっと滑らかなものだと思っていた。


ポケットの中でスマホが震えた。


母からだった。


〈着いた?〉


智也は立ち止まらずに、片手で返信を打った。


〈着いた〉


すぐに次が来る。


〈大家さんにちゃんと挨拶してね〉


〈する〉


〈一人で大丈夫?〉


その文面を見て、智也は少しだけ画面から目を離した。横を、自転車の親子が通り過ぎる。子どものヘルメットに、小さな恐竜の絵がついていた。


大丈夫、と打とうとして、やめた。


〈平気〉


そう返した。


父は仕事で来られなかった。母は最後まで「行こうか」と言っていたが、智也が断った。大学の入学式はまだ先で、今日は部屋の鍵を受け取るだけだ。実家から送った段ボールは、二時から四時の間に届くことになっている。


一人でできる。


そう言ったのは自分だった。


本当に一人でできるかは、まだ分からない。


改札を出る前に、駅のトイレで顔を洗った。新幹線で来ただけなのに、目の奥が重かった。鏡には、髪の片側だけ少し浮いた自分が映っていた。水で押さえても、すぐに戻った。


実家を出る時、母は玄関で何度も忘れ物を聞いた。


「保険証は」


「入れた」


「印鑑」


「入れた」


「薬」


「入れた」


最後に父が「鍵だけなくすなよ」と言った。まだ受け取ってもいない鍵のことを言われて、智也は「分かってる」と返した。その声が少し強かったのを、駅まで送ってもらう車の中で思い出した。


今も、思い出した。


キャリーケースの取っ手を握る手に、少し力が入る。


信号が青になる。智也は人の流れに混じって横断歩道を渡った。


大通り沿いには、聞いたことのない名前の店と、見慣れたチェーン店が交互に並んでいる。コンビニ、牛丼屋、薬局、クリーニング店。地元にもあるような店なのに、看板の見え方が違った。建物が高いせいか、空が細い。


住むことになっている部屋は、親戚が持っている古いアパートだった。


親戚と言っても、智也はほとんど会ったことがない。父方の遠い親戚で、都内に小さなアパートを持っている人。そう聞かされただけだった。


そこは、二か月前まで兄が住んでいた部屋でもある。


杉浦亮介。


智也の兄。


兄のことを、好きだったとは言えない。


嫌いだったと言ったほうが近い。


一月の終わりに、あっけなく死んだ。


その言い方を、母は嫌がった。あっけなくなんて言わないで、と電話口で一度だけ言った。だから智也はそれから口に出していない。


でも、順番だけを見れば、やっぱりあっけなかった。


朝には会社へ行くはずだった兄が、夜にはもう戻らなかった。父が新幹線の時間を調べ、母が黒い服を出し、智也は合格発表を見る前に喪服を着た。親戚が来て、線香の匂いがして、誰かが亮介の名前を何度も言った。


それで、兄はいなくなった。


その兄が住んでいた部屋に、今から自分が入る。


そう考えると、キャリーケースの音が少しだけ大きく聞こえた。


地図は大通りから一本入るように示していた。角には古い文房具店があり、シャッターが半分下りている。智也はそこで曲がった。


車の音が、急に遠くなる。


道幅は狭くなり、歩道もなくなった。小さなマンションと一戸建てが混ざっている。ベランダには洗濯物が出ていて、どこかの部屋から掃除機の音がした。東京にも、こんな普通の音があるのだと思った。


スマホの青い点が目的地に近づく。


古い二階建てのアパートが見えた。


外壁は薄いベージュで、ところどころ雨の跡が残っている。外階段の手すりは、塗装が剥げて銀色の地が出ていた。郵便受けの下には、小さな鉢植えが三つ並んでいる。ひとつは土だけで、何も生えていなかった。


智也はアパートの前で立ち止まった。


スマホの画面を見る。


目的地に到着しました。


画面にはそう出ている。


住所は合っている。


キャリーケースを足元に置くと、腕が急に軽くなった。肩も少し痛い。リュックを背負い直し、建物を見上げる。


アパートの横には細い通路があり、その奥に自転車が三台停まっていた。どれも少し古い。前かごに雨水がたまり、乾いた葉が一枚浮いている。ゴミ置き場らしい金網の箱も見えた。曜日を書いた紙が貼ってあったが、遠くてまだ読めない。


一階のどこかの窓から、味噌汁のような匂いがした。


昼にはまだ早い。けれど、誰かの生活はもう普通に始まっている。


智也の生活だけが、まだ入口で止まっていた。


二階のいちばん奥に、古いドアが見えた。


あそこだろうか。


兄が使っていた部屋。


大学へ通うための部屋。


家賃が安く済む部屋。


どれも同じ場所を指しているのに、うまく重ならなかった。


「智也くん?」


声がした。


郵便受けの横に、女性が立っていた。年は母より少し上に見える。紺色の上着を着て、手には鍵束を持っている。父方の親戚だと聞いていた大家だろう。


智也は一瞬だけ返事が遅れた。


「はい」


大家は智也の顔を一度見て、手元の鍵束に目を落とした。


「荷物、午後だっけ」


「はい。二時から四時の間です」


「じゃあ、先に部屋だけ見ておこうか」


大家はそれだけ言って、外階段のほうへ歩き出した。


智也はキャリーケースの取っ手を握った。


階段の一段目に、ケースの角が当たった。

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