表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/24

第010話 知らない番号

電話が来たのは、四月の半ばだった。


三限の講義が終わったばかりで、教室の外は学生の声でうるさかった。廊下に出ると、同じような新入生が一斉にスマホを見たり、次の教室を探したりしている。


智也も流れに押されるように歩きながら、リュックの肩紐を引き直した。


スマホが震えた。


画面には、知らない番号が出ていた。


市外局番を見ても、どこからなのか分からない。実家でもない。大学の番号でもない。携帯番号ではなく、固定電話のようだった。


智也は立ち止まらなかった。


講義棟の廊下は人が多い。話し声と足音で、電話に出ても相手の声は聞き取りにくいだろう。そう思った。そういうことにした。


着信はしばらく続いて、切れた。


画面が暗くなる。


智也は廊下の端まで歩き、階段の踊り場に寄った。窓の外には中庭が見える。ベンチに座って弁当を食べている学生がいた。自分の大学生活は、そちらの景色の中にあるはずだった。


すぐに留守番電話が入った。


小さな通知が画面に出る。


智也はしばらくそれを見ていた。


知らない番号からの留守電。


放っておいてもいい。間違い電話かもしれない。何かの営業かもしれない。学生生活が始まったばかりで、知らない連絡先はいくつも増えている。


それでも、画面から目を離せなかった。


イヤホンを片方だけ耳に入れる。


再生する。


「杉浦亮介さんの会社の者です。会社に残っていた私物の件で、ご連絡しました」


丁寧な声だった。


智也は再生を止めた。


会社。


兄の会社。


画面には、知らない番号と再生時間だけが残っている。声はもう止まっているのに、その言葉だけが耳の奥に残った。


亮介の会社について、智也はほとんど知らなかった。


大手メーカーの法人営業。母はそう説明していた。父は会社名まで言っていたが、智也は聞き流していた。聞き流したというより、覚える気がなかった。


スーツを着て、名刺を持って、どこかのビルに通っていた兄。


それくらいの輪郭しかない。


智也はスマホをポケットに入れた。


すぐに折り返す必要はない。


そう思って、階段を下りた。


一階まで下り、また二階へ上がった。掲示板の前で立ち止まり、履修登録の締切日を眺めた。知っている日付だった。写真も撮ってある。それでも、しばらく見ていた。


電話をする場所を探しているのだと思おうとした。


実際には、かけ直すのを少し延ばしていただけだった。


廊下の端に、非常階段へ出る扉があった。外の音が少し遠くなる。智也はそこでスマホを出した。


番号を押す前に、もう一度留守電を聞く。


「杉浦亮介さんの会社の者です」


そこだけで止めた。


杉浦亮介。


家では、亮介だった。兄貴だった。母は亮介と呼び、父はあいつと言うことが多かった。会社では、杉浦亮介さん、だった。


智也は発信ボタンを押した。


呼び出し音が二回鳴る。


「お電話ありがとうございます」


会社名らしい言葉が続いたが、智也はうまく聞き取れなかった。名乗ると、少し保留になり、すぐに別の声へつながった。


留守電の声だった。


「杉浦さんですか。急にご連絡してすみません」


「いえ」


智也の声は、自分で思ったより小さかった。


相手は、亮介の同期だと言った。


会社のロッカーに残っていたものを整理したら、いくつか私物が出てきた。ご家族には一度まとめて送ったが、あとから出てきたものがある。郵送でもいいが、一度確認したほうがいいかもしれない。都合が合えば、会社の近くで渡せる。


言葉は丁寧だった。


丁寧すぎて、智也は相槌の場所に困った。


「郵送でも、いいんですけど」


相手が言った。


「ただ、こちらの整理が遅くなってしまったので。直接お渡しできるなら、そのほうが早いかと」


智也は廊下の壁を見た。


白い壁に、誰かが剥がした掲示物の跡がうっすら残っている。テープの四角い跡だけが、そこに残っていた。


断る理由を探した。


見つからなかった。


「今日の夕方なら」


自分でそう言っていた。


「ありがとうございます。では、会社の近くに喫茶店がありますので、そちらで」


相手が店の名前と駅名を言った。智也は慌ててスマホのメモを開く。駅名は聞いたことがあった。大学から電車で二十分ほどの場所だった。


「何を持っていけばいいですか」


聞いてから、変な質問だと思った。


相手は少し間を置いた。


「特には。確認だけしていただければ。もしご本人のものではなさそうなら、こちらで処分しますので」


ご本人。


亮介をそう呼ぶのだと思った。


本人はもういない。いないのに、会社の電話の中では、ご本人のものかどうかを確認する必要がある。そういう手続きの言葉が、智也の胸のあたりに硬く残った。


「杉浦さん」


電話の向こうで、相手が少しだけ声をやわらげた。


「ご無理のない範囲で大丈夫ですので」


「大丈夫です」


智也は反射で答えた。


大丈夫かどうかは分からない。


でも、そう言うしかなかった。


電話を切ると、非常階段の扉の向こうで誰かが笑った。大学の中の音だった。智也はしばらくスマホを手に持ったまま立っていた。


その日の夕方、智也は会社の最寄り駅で降りた。


電車では、ドアの横に立っていた。


大学から乗った時は学生が多かったのに、乗り換えの駅を過ぎるとスーツの人が増えた。誰も大きな声で話していない。スマホを見ている人、目を閉じている人、吊り革につかまりながら資料らしい紙を読んでいる人。


智也は窓に映る自分を見た。


リュックと、少しよれたシャツ。


兄も大学生の時はこんな格好だったのだろうか。そう考えかけて、やめた。今向かっているのは、大学生だった兄ではない。会社で杉浦と呼ばれていた兄のほうだった。


改札を出ると、スーツの人が多かった。


歩く速さが大学の人間と違う。スマホを見ながらでも、誰にもぶつからずに進んでいく。革靴の音が床に続いて、改札前の空気が少し硬かった。


智也はリュックの肩紐を握り直した。


自分だけが、違う時間の服を着ている気がした。


指定された喫茶店は、ビルの一階にあるらしい。


スマホの地図を開く。青い点は駅前で少し震えていた。目の前を、スーツの男が何人も通り過ぎる。そのうちの誰かが、兄と同じ会社の人間だったとしても、智也には分からない。


亮介は、この流れの中にいた。


そう思うと、駅前の風が少し冷たくなった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ