第010話 知らない番号
電話が来たのは、四月の半ばだった。
三限の講義が終わったばかりで、教室の外は学生の声でうるさかった。廊下に出ると、同じような新入生が一斉にスマホを見たり、次の教室を探したりしている。
智也も流れに押されるように歩きながら、リュックの肩紐を引き直した。
スマホが震えた。
画面には、知らない番号が出ていた。
市外局番を見ても、どこからなのか分からない。実家でもない。大学の番号でもない。携帯番号ではなく、固定電話のようだった。
智也は立ち止まらなかった。
講義棟の廊下は人が多い。話し声と足音で、電話に出ても相手の声は聞き取りにくいだろう。そう思った。そういうことにした。
着信はしばらく続いて、切れた。
画面が暗くなる。
智也は廊下の端まで歩き、階段の踊り場に寄った。窓の外には中庭が見える。ベンチに座って弁当を食べている学生がいた。自分の大学生活は、そちらの景色の中にあるはずだった。
すぐに留守番電話が入った。
小さな通知が画面に出る。
智也はしばらくそれを見ていた。
知らない番号からの留守電。
放っておいてもいい。間違い電話かもしれない。何かの営業かもしれない。学生生活が始まったばかりで、知らない連絡先はいくつも増えている。
それでも、画面から目を離せなかった。
イヤホンを片方だけ耳に入れる。
再生する。
「杉浦亮介さんの会社の者です。会社に残っていた私物の件で、ご連絡しました」
丁寧な声だった。
智也は再生を止めた。
会社。
兄の会社。
画面には、知らない番号と再生時間だけが残っている。声はもう止まっているのに、その言葉だけが耳の奥に残った。
亮介の会社について、智也はほとんど知らなかった。
大手メーカーの法人営業。母はそう説明していた。父は会社名まで言っていたが、智也は聞き流していた。聞き流したというより、覚える気がなかった。
スーツを着て、名刺を持って、どこかのビルに通っていた兄。
それくらいの輪郭しかない。
智也はスマホをポケットに入れた。
すぐに折り返す必要はない。
そう思って、階段を下りた。
一階まで下り、また二階へ上がった。掲示板の前で立ち止まり、履修登録の締切日を眺めた。知っている日付だった。写真も撮ってある。それでも、しばらく見ていた。
電話をする場所を探しているのだと思おうとした。
実際には、かけ直すのを少し延ばしていただけだった。
廊下の端に、非常階段へ出る扉があった。外の音が少し遠くなる。智也はそこでスマホを出した。
番号を押す前に、もう一度留守電を聞く。
「杉浦亮介さんの会社の者です」
そこだけで止めた。
杉浦亮介。
家では、亮介だった。兄貴だった。母は亮介と呼び、父はあいつと言うことが多かった。会社では、杉浦亮介さん、だった。
智也は発信ボタンを押した。
呼び出し音が二回鳴る。
「お電話ありがとうございます」
会社名らしい言葉が続いたが、智也はうまく聞き取れなかった。名乗ると、少し保留になり、すぐに別の声へつながった。
留守電の声だった。
「杉浦さんですか。急にご連絡してすみません」
「いえ」
智也の声は、自分で思ったより小さかった。
相手は、亮介の同期だと言った。
会社のロッカーに残っていたものを整理したら、いくつか私物が出てきた。ご家族には一度まとめて送ったが、あとから出てきたものがある。郵送でもいいが、一度確認したほうがいいかもしれない。都合が合えば、会社の近くで渡せる。
言葉は丁寧だった。
丁寧すぎて、智也は相槌の場所に困った。
「郵送でも、いいんですけど」
相手が言った。
「ただ、こちらの整理が遅くなってしまったので。直接お渡しできるなら、そのほうが早いかと」
智也は廊下の壁を見た。
白い壁に、誰かが剥がした掲示物の跡がうっすら残っている。テープの四角い跡だけが、そこに残っていた。
断る理由を探した。
見つからなかった。
「今日の夕方なら」
自分でそう言っていた。
「ありがとうございます。では、会社の近くに喫茶店がありますので、そちらで」
相手が店の名前と駅名を言った。智也は慌ててスマホのメモを開く。駅名は聞いたことがあった。大学から電車で二十分ほどの場所だった。
「何を持っていけばいいですか」
聞いてから、変な質問だと思った。
相手は少し間を置いた。
「特には。確認だけしていただければ。もしご本人のものではなさそうなら、こちらで処分しますので」
ご本人。
亮介をそう呼ぶのだと思った。
本人はもういない。いないのに、会社の電話の中では、ご本人のものかどうかを確認する必要がある。そういう手続きの言葉が、智也の胸のあたりに硬く残った。
「杉浦さん」
電話の向こうで、相手が少しだけ声をやわらげた。
「ご無理のない範囲で大丈夫ですので」
「大丈夫です」
智也は反射で答えた。
大丈夫かどうかは分からない。
でも、そう言うしかなかった。
電話を切ると、非常階段の扉の向こうで誰かが笑った。大学の中の音だった。智也はしばらくスマホを手に持ったまま立っていた。
その日の夕方、智也は会社の最寄り駅で降りた。
電車では、ドアの横に立っていた。
大学から乗った時は学生が多かったのに、乗り換えの駅を過ぎるとスーツの人が増えた。誰も大きな声で話していない。スマホを見ている人、目を閉じている人、吊り革につかまりながら資料らしい紙を読んでいる人。
智也は窓に映る自分を見た。
リュックと、少しよれたシャツ。
兄も大学生の時はこんな格好だったのだろうか。そう考えかけて、やめた。今向かっているのは、大学生だった兄ではない。会社で杉浦と呼ばれていた兄のほうだった。
改札を出ると、スーツの人が多かった。
歩く速さが大学の人間と違う。スマホを見ながらでも、誰にもぶつからずに進んでいく。革靴の音が床に続いて、改札前の空気が少し硬かった。
智也はリュックの肩紐を握り直した。
自分だけが、違う時間の服を着ている気がした。
指定された喫茶店は、ビルの一階にあるらしい。
スマホの地図を開く。青い点は駅前で少し震えていた。目の前を、スーツの男が何人も通り過ぎる。そのうちの誰かが、兄と同じ会社の人間だったとしても、智也には分からない。
亮介は、この流れの中にいた。
そう思うと、駅前の風が少し冷たくなった。




