第011話 同期の人
指定された喫茶店は、ビルの一階にあった。
ガラス越しに、ネクタイを緩めた人たちが見える。テーブルの上にはノートパソコンや紙の資料が置かれ、コーヒーカップの横で手帳を開いている人もいた。
智也は入口の前で一度止まった。
大学の食堂とは違う。駅前のチェーン店とも違う。店そのものは普通なのに、中にいる人たちの背中が少し硬く見えた。
スマホの画面で店名を確認する。
間違ってはいない。
「杉浦さんですか」
声をかけてきたのは、三十歳前後の男だった。
スーツの上着を片腕にかけている。顔立ちは柔らかいが、目の下に薄く疲れがあった。髪は整っているのに、襟元だけ少し緩んでいる。
「はい」
「亮介の同期の者です。急にすみません」
相手は名刺を出しかけて、途中で手を止めた。
「あ、すみません。こういう時に名刺も変ですね」
「いえ」
智也は何と返せばいいのか分からず、ただ頭を下げた。
二人は窓際の席に座った。
相手はホットコーヒーを頼み、智也はアイスティーにした。飲みたいわけではなかったが、何も頼まないのも変だった。
店員が去ると、テーブルの上に少しだけ沈黙が落ちた。
智也は膝の上で手を組んだ。
相手は、何かを言う前に一度だけ息を吸った。
「大学、近いんですか」
相手が聞いた。
「電車で少しです」
「すみません、授業のあとに」
「いえ」
謝られると、かえって困った。
智也が来ると言ったのだ。断ることもできた。郵送してもらうこともできた。それでも来たのは、自分だった。
相手はコーヒーの水を一口飲み、グラスを静かに置いた。
「これです」
無地の茶色い紙袋がテーブルに置かれた。
会社名の入った袋ではなかった。手提げのついていない、小さな紙袋だった。口のところが二回折られている。
「ロッカーに残っていたものと、デスク周りにあったものです。ご家族には一度まとめて送ったんですけど、あとから出てきて」
「すみません」
「いや、こちらこそ遅くなってしまって」
相手は紙袋の口を少し開けた。
「名刺入れ、ペン、手帳。あと、充電器ですね。充電器は会社のものか私物か分からなかったんですけど、杉浦が使ってたので一応」
杉浦。
その呼び方が、少し変に聞こえた。
家では亮介だった。兄貴だった。母は亮介と呼び、父はあいつと言うことが多かった。会社では、杉浦だったのだ。
智也は紙袋の中を少しだけ見た。
黒いものが見えた。
名刺入れだろうと思ったが、手には取らなかった。中身を確かめるには、店のテーブルは明るすぎた。相手の前で開けるのも、何か違う気がした。
「ご家族のほうで、必要なければ処分していただいて大丈夫です」
相手は言った。
処分。
事務的な言葉だった。
けれど、今の智也にはそのほうがよかった。大切にしてください、と言われるよりずっといい。大切にするかどうかは、こちらで決めたい。そもそも、大切にできるかどうかも分からない。
アイスティーが来た。
グラスの中で氷が揺れる。ストローの袋を破る音が、やけに大きく聞こえた。
「仕事、できたんですか」
聞くつもりはなかった。
口に出してから、智也はグラスの縁を見た。氷が溶けて、表面に小さな水滴がついている。
相手はすぐには答えなかった。
「できました。そこは、本当に」
それから、少し笑った。
「腹立つくらい早かったです」
智也は顔を上げた。
「腹立つ?」
「あ、悪い意味だけじゃなくて。資料作るのも、先方への返事も早い。数字も見てる。上の人の受けもいい。そういうところは、本当に」
相手はコーヒーに手を伸ばした。
カップを持つ指が、少しだけ止まる。
「ただ、近くにいると疲れる時もありました」
その言い方に、智也は少しだけ目を細めた。
「疲れる」
「はい」
相手は困ったように笑った。
「全部自分で抱えるんですよ。任せればいいのに、自分でやったほうが早いって顔して。実際早いから、周りも止めにくい」
コーヒーカップが皿に戻る。
「感じはいいんです。取引先にも社内にも。怒鳴ったりもしない。でも、肝心なところで何を考えてるか分からない。こっちが手伝うって言っても、大丈夫です、で終わり」
「迷惑だったんですか」
智也は聞いた。
相手は少し困った顔をした。
「迷惑、とは違います。助かることも多かったです。杉浦が先にやってくれてたから、間に合ったこともありますし」
そこで一度、言葉を選ぶように視線を落とした。
「でも、同じチームにいると、自分が信用されてないみたいに感じる時がありました。本人はそんなつもりじゃなかったのかもしれませんけど」
本人はそんなつもりじゃなかった。
その言い方だけが、妙に残った。
大丈夫です。
智也はその言葉を頭の中で繰り返した。
亮介が言いそうだった。
家でも、似たようなことはあった。
母が何かを聞く。父が確認する。智也が文句を言う。亮介は「大丈夫」「平気」「別に」で済ませる。説明しない。説明しないくせに、あとから見るとだいたい終わっている。
できる。
でも、近くにいると疲れる。
「家でも、そんな感じでした」
声が出ていた。
相手は少しだけ驚いた顔をしたあと、ゆっくりうなずいた。
「そうですか」
「はい」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
紙袋はテーブルの端にある。
亮介は仕事もできた。
でも、近くにいると疲れる。
その二つが同じ人間の中にあることを、智也は初めて外の人間の口から聞いた。
少しだけ息が入りやすくなった。
すぐに、アイスティーを飲んだ。紅茶は薄く、氷の味がした。
「こういうこと、弟さんに言っていいのか迷ったんですけど」
相手が言った。
智也はグラスを置いた。
「いいです」
「杉浦、悪い人ではなかったです。でも、分かりやすくいい人でもなかったです。こっちが勝手に助けられたこともあるし、勝手に置いていかれたこともある。そんな感じでした」
智也は返事をしなかった。
それは、よく分かる気がした。
分かる、と思ったことも嫌だった。
相手はそれ以上、亮介のことをきれいには言わなかった。
コーヒーを飲み、紙袋の口をもう一度だけ折り直して、テーブルの端へ寄せた。智也はその動きを見ていた。紙袋は、渡すものとしてそこにあるだけだった。
形見という言葉は出なかった。
出なくてよかった。




