表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/24

第011話 同期の人

指定された喫茶店は、ビルの一階にあった。


ガラス越しに、ネクタイを緩めた人たちが見える。テーブルの上にはノートパソコンや紙の資料が置かれ、コーヒーカップの横で手帳を開いている人もいた。


智也は入口の前で一度止まった。


大学の食堂とは違う。駅前のチェーン店とも違う。店そのものは普通なのに、中にいる人たちの背中が少し硬く見えた。


スマホの画面で店名を確認する。


間違ってはいない。


「杉浦さんですか」


声をかけてきたのは、三十歳前後の男だった。


スーツの上着を片腕にかけている。顔立ちは柔らかいが、目の下に薄く疲れがあった。髪は整っているのに、襟元だけ少し緩んでいる。


「はい」


「亮介の同期の者です。急にすみません」


相手は名刺を出しかけて、途中で手を止めた。


「あ、すみません。こういう時に名刺も変ですね」


「いえ」


智也は何と返せばいいのか分からず、ただ頭を下げた。


二人は窓際の席に座った。


相手はホットコーヒーを頼み、智也はアイスティーにした。飲みたいわけではなかったが、何も頼まないのも変だった。


店員が去ると、テーブルの上に少しだけ沈黙が落ちた。


智也は膝の上で手を組んだ。


相手は、何かを言う前に一度だけ息を吸った。


「大学、近いんですか」


相手が聞いた。


「電車で少しです」


「すみません、授業のあとに」


「いえ」


謝られると、かえって困った。


智也が来ると言ったのだ。断ることもできた。郵送してもらうこともできた。それでも来たのは、自分だった。


相手はコーヒーの水を一口飲み、グラスを静かに置いた。


「これです」


無地の茶色い紙袋がテーブルに置かれた。


会社名の入った袋ではなかった。手提げのついていない、小さな紙袋だった。口のところが二回折られている。


「ロッカーに残っていたものと、デスク周りにあったものです。ご家族には一度まとめて送ったんですけど、あとから出てきて」


「すみません」


「いや、こちらこそ遅くなってしまって」


相手は紙袋の口を少し開けた。


「名刺入れ、ペン、手帳。あと、充電器ですね。充電器は会社のものか私物か分からなかったんですけど、杉浦が使ってたので一応」


杉浦。


その呼び方が、少し変に聞こえた。


家では亮介だった。兄貴だった。母は亮介と呼び、父はあいつと言うことが多かった。会社では、杉浦だったのだ。


智也は紙袋の中を少しだけ見た。


黒いものが見えた。


名刺入れだろうと思ったが、手には取らなかった。中身を確かめるには、店のテーブルは明るすぎた。相手の前で開けるのも、何か違う気がした。


「ご家族のほうで、必要なければ処分していただいて大丈夫です」


相手は言った。


処分。


事務的な言葉だった。


けれど、今の智也にはそのほうがよかった。大切にしてください、と言われるよりずっといい。大切にするかどうかは、こちらで決めたい。そもそも、大切にできるかどうかも分からない。


アイスティーが来た。


グラスの中で氷が揺れる。ストローの袋を破る音が、やけに大きく聞こえた。


「仕事、できたんですか」


聞くつもりはなかった。


口に出してから、智也はグラスの縁を見た。氷が溶けて、表面に小さな水滴がついている。


相手はすぐには答えなかった。


「できました。そこは、本当に」


それから、少し笑った。


「腹立つくらい早かったです」


智也は顔を上げた。


「腹立つ?」


「あ、悪い意味だけじゃなくて。資料作るのも、先方への返事も早い。数字も見てる。上の人の受けもいい。そういうところは、本当に」


相手はコーヒーに手を伸ばした。


カップを持つ指が、少しだけ止まる。


「ただ、近くにいると疲れる時もありました」


その言い方に、智也は少しだけ目を細めた。


「疲れる」


「はい」


相手は困ったように笑った。


「全部自分で抱えるんですよ。任せればいいのに、自分でやったほうが早いって顔して。実際早いから、周りも止めにくい」


コーヒーカップが皿に戻る。


「感じはいいんです。取引先にも社内にも。怒鳴ったりもしない。でも、肝心なところで何を考えてるか分からない。こっちが手伝うって言っても、大丈夫です、で終わり」


「迷惑だったんですか」


智也は聞いた。


相手は少し困った顔をした。


「迷惑、とは違います。助かることも多かったです。杉浦が先にやってくれてたから、間に合ったこともありますし」


そこで一度、言葉を選ぶように視線を落とした。


「でも、同じチームにいると、自分が信用されてないみたいに感じる時がありました。本人はそんなつもりじゃなかったのかもしれませんけど」


本人はそんなつもりじゃなかった。


その言い方だけが、妙に残った。


大丈夫です。


智也はその言葉を頭の中で繰り返した。


亮介が言いそうだった。


家でも、似たようなことはあった。


母が何かを聞く。父が確認する。智也が文句を言う。亮介は「大丈夫」「平気」「別に」で済ませる。説明しない。説明しないくせに、あとから見るとだいたい終わっている。


できる。


でも、近くにいると疲れる。


「家でも、そんな感じでした」


声が出ていた。


相手は少しだけ驚いた顔をしたあと、ゆっくりうなずいた。


「そうですか」


「はい」


それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。


紙袋はテーブルの端にある。


亮介は仕事もできた。


でも、近くにいると疲れる。


その二つが同じ人間の中にあることを、智也は初めて外の人間の口から聞いた。


少しだけ息が入りやすくなった。


すぐに、アイスティーを飲んだ。紅茶は薄く、氷の味がした。


「こういうこと、弟さんに言っていいのか迷ったんですけど」


相手が言った。


智也はグラスを置いた。


「いいです」


「杉浦、悪い人ではなかったです。でも、分かりやすくいい人でもなかったです。こっちが勝手に助けられたこともあるし、勝手に置いていかれたこともある。そんな感じでした」


智也は返事をしなかった。


それは、よく分かる気がした。


分かる、と思ったことも嫌だった。


相手はそれ以上、亮介のことをきれいには言わなかった。


コーヒーを飲み、紙袋の口をもう一度だけ折り直して、テーブルの端へ寄せた。智也はその動きを見ていた。紙袋は、渡すものとしてそこにあるだけだった。


形見という言葉は出なかった。


出なくてよかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ