第012話 擦れた角
店を出るころには、外が暗くなり始めていた。
ビルの窓に明かりがつき、歩道にはスーツの人が増えている。同期の男は、駅とは逆方向へ歩いていった。最後にもう一度だけ頭を下げ、ビルの間の道へ消えた。
智也は紙袋を持って、改札へ向かった。
袋は小さかった。
名刺入れ、ペン、手帳、充電器。
どれも大きいものではない。重いはずがない。それなのに、持ち手を指にかけていると、袋の重さが少しずつ手首にたまっていく。
電車の中で、智也は紙袋を膝の上に置いた。
隣の席の会社員が、スマホでメールを打っている。向かいの窓には、車内の蛍光灯と自分の顔が薄く映った。足元に置いたリュックの横で、紙袋の口が少し開いている。
中身は見なかった。
電車の揺れに合わせて、袋の中で何かが小さく当たる音がした。ペンか、充電器か、名刺入れか。どれでもよかった。どれでも、兄が会社で使っていたものだった。
途中の駅で、隣の会社員が降りた。
席が少し空く。智也は紙袋を膝から足元へ下ろそうとして、やめた。床に置くのは、何か違う気がした。だからといって、大事に抱えるのも違う。
結局、膝の上に置いたまま、両手を軽く添えた。
紙の持ち手はない。
袋の口は二回折られているだけで、強く揺れれば中身が見えそうだった。智也は親指で折り目を押さえた。薄い紙が、指の腹で少しへこむ。
同期の男は、処分してもいいと言った。
その言葉は正しい。
名刺入れも、ペンも、手帳も、充電器も、使わなければただ場所を取る。会社で使っていたものなら、なおさら智也には使い道がない。
それでも、帰りの電車の中で捨てることはできない。
当たり前だ。
当たり前のことなのに、智也はその当たり前さに少し疲れた。
部屋に帰ると、智也は電気をつけずに紙袋を床へ置いた。
外の街灯の光だけで、部屋の輪郭は見える。薄いグレーのカーテンは半分だけ閉まっていて、窓ガラスに自分の姿がぼんやり映っていた。
靴を脱ぎ、リュックを下ろす。
蛍光灯の紐に手を伸ばしかけて、やめた。
明るくしなくても、袋はそこにある。
智也は床に座った。
紙袋の折られた口を開く。
まずペンが見えた。
黒いボールペン。会社の名前が入っているわけではない。どこにでも売っていそうなものだった。次に手帳。表紙は紺色で、角が少し丸くなっている。中を開く気にはならなかった。
手帳のゴムは少し伸びていた。
表紙には細い傷が斜めに入っている。鞄の中で何かとこすれたのだろう。智也は親指で表面を押したが、開かなかった。予定や名前が書かれているかもしれないと思うと、急に触りにくくなった。
手帳は横に置く。
充電器は白かった。
コードの根元が少し黒ずんでいる。会社のものか私物か分からなかった、と同期は言っていた。亮介が使っていたから一応、と。
白いコードは、部屋で使っている延長コードの黄ばんだ白とは少し違った。
会社の机の下にあったのか、ロッカーに入っていたのか。想像しても、はっきりした絵にはならない。智也の知っている亮介は、会社の机に座っていない。実家の食卓で鍋を食べているか、葬式の写真の中にいる。
会社の亮介は、まだ薄かった。
最後に、名刺入れを取り出した。
黒い革のような素材だった。
高いものなのか安いものなのか、智也には分からない。表面には細かい傷がいくつも入っている。角のひとつが、少し白く擦れていた。
手のひらに乗せると、思ったより薄い。
智也は指で開いた。
中に名刺が数枚入ったままだった。
白い紙に、会社名が印刷されている。
大手メーカー。
営業部。
杉浦亮介。
文字はきれいに並んでいた。肩書きはそれほど上ではない。それでも、智也には十分立派に見えた。
杉浦亮介。
会社では、兄はこの名前で呼ばれていた。
家の中の亮介ではなく、母が「ちゃんとしてる」と言う亮介でもなく、父が「あいつ」と呼ぶ亮介でもない。名刺の上の亮介は、白い紙の中でまっすぐ立っているように見えた。
智也は名刺を一枚だけ抜きかけて、やめた。
戻す。
指先が少し乾いていて、紙の端が引っかかった。
名刺の紙は厚かった。
高校の友人が遊びで作ったカードとは違う。まっすぐで、少し硬くて、角がきれいにそろっている。印刷された名前は、智也の知っている亮介よりも少し遠かった。
こんな紙を、兄は何枚も人に渡していた。
初めまして。
お世話になっております。
そういう声が、似合ったのだろう。
似合ったと思うことが、また嫌だった。
同期の声を思い出す。
できましたよ。
近くにいると疲れる時もありました。
全部自分で抱えるんですよ。
その言葉は、喫茶店のテーブルで聞いた時より、部屋の中のほうが近かった。名刺入れを手に持っているからかもしれない。兄の部屋に座っているからかもしれない。
智也は名刺入れを閉じた。
角の擦れたところを、親指でなぞる。
そこだけ、黒が少し薄くなっていた。
ポケットに入れたり、鞄に放り込んだり、机に置いたりしたのだろう。毎日使っていれば、そうなる。どれだけ仕事ができても、どれだけ外では感じがよくても、道具の角は擦れる。
反対側の角にも、小さな傷があった。
表面には細い線がいくつもある。強く傷ついたというより、何度も触られて、何度も置かれて、少しずつついた跡だった。手入れされていないわけではない。捨てられるほど傷んでいるわけでもない。
ただ、使われていた。
毎日、普通に。
智也はそこで指を止めた。
擦れたところに、親指の腹が少し引っかかる。
名刺の紙はまっすぐだった。
ケースの角だけが、少し白かった。
喫茶店で聞いた言葉が、そこでまた戻ってきた。
智也は名刺入れを低い棚の上に置いた。
そこには、大学の冊子と、使っていない封筒と、折りたたんだレシートが置いてある。兄のものと自分のものが、同じ棚の上で並んだ。
少し迷って、手帳とペンも横に置いた。
充電器だけは紙袋に戻した。使う予定はない。けれど、捨てる場所も決められない。紙袋の口をもう一度折り、棚の下に滑り込ませる。
部屋の中には、また兄のものが増えた。
カーテンやハンガーのようにすぐ使うものではない。延長コードのように役に立つものでもない。ただ、棚の上にあるだけのものだった。
それでも、目に入る。
名刺は、亮介を立派に見せた。
その名刺を入れていたケースの角は、思ったより簡単に擦れていた。




