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第013話 一泊だけ

ゴールデンウィークに帰るつもりは、最初なかった。


大学は休みでも、東京にいたほうが楽だった。実家へ戻れば、母がいろいろ聞いてくる。父はあまり聞かないが、聞かないなりに見ている。仏壇の前に線香を上げることにもなる。


亮介の話も、たぶん出る。


そう思うと、帰らない理由を探すほうが自然だった。


連休の前の夜、母から電話が来た。


風呂に入る前で、智也は部屋着の袖をまくったまま、スマホの画面を見た。表示された「母」の文字は、知らない番号よりずっと見慣れている。それなのに、出るまでの間が少し長くなった。


「もしもし」


「智也? 今、大丈夫?」


「うん」


「連休、どうするの。授業は休みでしょう」


「まあ」


「帰ってくる?」


智也は洗面所のほうを見た。


開けっぱなしのドアの向こうに、鏡と棚が見える。低い棚の上には、亮介の名刺入れがある。それは、この部屋から動かないものみたいに置かれていた。


「別に、いいかな」


「いいかなって、帰らないってこと?」


母の声は責めていなかった。ただ、聞き返しただけだった。だから余計に、返事が難しかった。


「混むし」


「それはそうだけど。一泊だけでも帰ってきたら。顔見たいし」


一泊だけ。


母はその言い方を選んだ。長くいろとは言わなかった。墓参りをしろとも、亮介に線香を上げろとも言わなかった。顔見たいし、という普通の言葉だけを置いた。


「予定あるの?」


「ないけど」


「じゃあ、無理しない範囲で。お父さんも、帰ってくるなら言っておけって」


父がそう言ったところを、智也はあまりうまく想像できなかった。たぶん新聞かテレビを見ながら、短く「帰るのか」と聞いたくらいだろう。母がそれを少しやわらかく言い直している。


「分かった」


「本当?」


「一泊だけ」


自分で言ってから、決まってしまったと思った。


母は少し明るい声になった。


「じゃあ、ごはん作って待ってる。何時くらいに着く?」


「まだ切符取ってない」


「早めに取りなさいよ。連休なんだから」


「うん」


電話を切ると、部屋が急に静かになった。


窓の外で、車が細い道を通る音がした。換気扇は止めているのに、どこかで低く回っているような音がする。上の階か、隣か、この部屋の中の何かか分からない。


智也はスマホで新幹線の空席を見た。


指定席はほとんど埋まっていた。時間をずらせば残っている席もあったが、乗り継ぎが悪い。自由席でいいか、と思った。思ったあと、帰ることを本当に決めたのだと気づいた。


翌日の昼前、智也はリュックに着替えを詰めた。


一泊分ならたいした量ではない。下着とTシャツ、充電器、財布、学生証。実家に帰るだけだから、足りなければどうにでもなる。リュックの底に丸まっていたレシートを捨て、教科書を抜いた。


部屋を出る前に、棚の前で足が止まった。


名刺入れがあった。


黒い表面は、昼の光だと前より細かい傷が見えた。角の擦れたところだけ、少し白い。名刺も中に入ったままだ。手帳とペンは横に置いてある。紙袋は棚の下に滑り込ませてある。


実家へ持って帰るものではない。


智也はそう思った。


母に見せるものではない。父に見せるものでもない。会社の同期から受け取ったものを、どう説明すればいいのか分からない。説明したところで、母はきっと困った顔をする。父は短く相づちを打つだけかもしれない。


どちらも見たくなかった。


智也は名刺入れに触らなかった。


電気を消し、玄関で靴を履く。鍵を差して、少し持ち上げる。最初は引っかかったその癖も、もう手が覚え始めていた。考えるより先に手首が動いた。


鍵が回る。


その音を聞いてから、智也は階段を下りた。


駅は、いつもの平日より人が多かった。


小さな子どもを連れた家族、土産物の紙袋を持った会社員、キャリーケースを斜めに引く学生。ホームの柱の近くで立っていると、リュックが何度も人に当たった。


新幹線の自由席は、座れなかった。


智也は通路に立ち、リュックを足元に置いた。窓の外は見えない。座席の背もたれと、荷物棚に押し込まれたスーツケースと、人の肩だけが見える。


発車すると、通路に立っている人たちの体が少しずつ揺れた。


足元のリュックが倒れそうになり、智也は膝で押さえた。スマホを取り出す。母からメッセージが来ていた。


気をつけてね。


その下に、夕飯は魚でいい? と続いている。


智也は「何でもいい」と打って、送信する前に消した。


何でもいい、は母にとって一番困る返事だと知っている。だからといって、魚がいいとも肉がいいとも言えなかった。しばらく画面を見てから、「魚でいい」とだけ送った。


既読はすぐについた。


母から「了解」と返ってきた。絵文字はなかった。


通路の向こうで、子どもが水筒を落とした。母親らしい人が小さく謝りながら拾う。誰かの弁当の匂いがした。車内販売は来なかった。


智也はスマホをしまい、天井の広告を見た。


旅行の写真が貼られている。青い海と、白い建物。連休に行く場所としては明るすぎて、今の通路には合っていなかった。


実家の最寄り駅に着いたころには、足の裏が少し痛かった。


改札を出ると、空気が東京より広く感じた。駅前のロータリーには、迎えの車が何台も止まっている。タクシー乗り場の屋根の下で、高校生らしい二人がアイスを食べていた。


智也はバスに乗り、実家の近くで降りた。


道路の端に、白い小さな花が咲いている。名前は知らない。家が近づくにつれて、見慣れた塀や、角の古い自販機や、犬のいる家の門が目に入った。犬はいなかった。鎖だけが、日陰に丸く置かれている。


玄関の前で、智也はリュックの肩紐を直した。


チャイムを押す前に、鍵の開く音がした。


母が顔を出した。


「おかえり。疲れたでしょう」


「別に」


「ごはん、もうすぐできるから。荷物置いてきなさい」


玄関の匂いは変わっていなかった。


洗剤と味噌汁と、畳の古い匂い。靴箱の上には、前からあった小さな陶器の置物がそのまま置かれている。亮介の写真は玄関にはなかった。葬式で見た写真の顔を思い出しかけて、智也は靴を脱いだ。


廊下を歩く。


床板が一か所だけ、軽く鳴った。昔から鳴る場所だった。避けようと思えば避けられるのに、智也はそこを踏んだ。ぎ、と短い音がした。


自分の部屋だった場所のドアを開ける。


机の上には何もなかった。受験の参考書は母が片づけたらしく、本棚の下段だけが不自然に空いている。壁には、予定表を貼っていた跡が薄く残っていた。カーテンは洗われたのか、前より少し白く見えた。


智也はリュックを床に置いた。


ここには、亮介のものがない。


そう思ってから、すぐに部屋を出た。


台所から、魚を焼く匂いがしていた。


「智也、先に手、洗って」


母の声がした。


「うん」


洗面所の蛇口をひねると、水はまっすぐ出た。東京の部屋のように、最初に少し濁ることはない。水の勢いも強すぎず、弱すぎない。タオルはいつもの位置にかかっている。


手を拭いて食卓へ戻ると、父がもう座っていた。


仕事から帰ったばかりなのか、ワイシャツの袖を少しまくっている。テレビはついていない。テーブルには、焼き魚と味噌汁と、きゅうりの酢の物が並んでいた。


箸は三膳だった。


母が茶碗を置きながら言った。


「熱いうちに食べて」


智也は椅子を引いた。


三人分の食卓の一角に、自分の場所が用意されていた。

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