第014話 ちゃんとしていた子
夕食は、焼き魚と味噌汁と、きゅうりの酢の物だった。
魚の皮は少し焦げている。母は「焼きすぎたかも」と言ったが、皿を置く手はいつも通りだった。父は茶碗を受け取り、短く「いただきます」と言った。
智也も箸を持った。
三人分の食器が並んでいる。
四人分だったころのことを、考えないようにした。考えないようにするほど、空いている場所が見える気がした。母はそこに何も置いていない。ただ、テーブルの端が少し広いだけだった。
「大学、どう」
母が味噌汁の鍋を置きながら聞いた。
「普通」
「普通って」
「授業とか、ガイダンスとか。まだ始まったばっかだし」
「友だちは?」
「少し」
「少しって、いるのね」
母はそれで安心したように笑った。
父は味噌汁を飲んでいる。相づちはないが、聞いていないわけではない。昔からそうだった。テレビを見ているようで聞いている。新聞を読んでいるようで、あとから急に話に入ってくる。
「ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「コンビニばっかりじゃないでしょうね」
「ばっかりではない」
「ばっかりでは、って」
母は苦笑して、小鉢を智也のほうへ寄せた。
「酢の物、食べなさい」
「分かってる」
きゅうりは冷たかった。薄く切られていて、少し甘い。実家の酢の物の味だった。東京の部屋で作る気にはならないものだと思った。そもそも、酢を買っていない。
母は台所と食卓を何度も行き来した。
もう全部並んでいるのに、何かしら手を動かしている。鍋の蓋をずらしたり、麦茶のポットを出したり、使っていない小皿を片づけたりする。座ればいいのに、と智也は思ったが、言わなかった。
「部屋、寒くない?」
母が聞いた。
「もう寒くない」
「古いアパートだから、冬は寒いんじゃない」
「冬まで分かんない」
「そうね」
そこで一度、会話が切れた。
箸が皿に当たる音がする。父が魚の骨を丁寧によけている。母は茶碗を持ったまま、智也の食べる量を見ている気がした。
「亮介もね」
母が言った。
名前が出た瞬間、智也は箸を止めなかった。
止めると、何かが分かってしまう気がした。だからそのまま魚の身をほぐした。骨が細かくて、少し面倒だった。
「最初のころ、あんまり食べてなかったみたいで。電話しても、ちゃんと食べてるって言うだけで」
母の声は普通だった。
何か特別なことを言う調子ではない。天気の話や、近所の店が閉まった話と同じくらいの声で、亮介の名前を置いた。
「ふうん」
智也は魚を口に入れた。
少し冷めていた。
「でも、あの子はちゃんとしてたからね」
母が言った。
ちゃんとしてた。
言葉は、食卓の上にすっと置かれた。母はそれを大事そうにも、重そうにも扱わなかった。自然に出てきた、というだけだった。
「部屋も、あの子なりに片づけてたんでしょう。昔から、あまり手がかからなかったから」
父が小さくうなずいた。
「そうだったな」
それだけだった。
母は少し笑って、智也を見た。
「智也は小さいころ、靴下が片方だけなくなることが多かったのよ」
「知らない」
「知らないって、自分のことなのに。洗濯しても片方だけ出てこないの。ベッドの下とか、ランドセルの中とか」
「ランドセルに靴下は入れないでしょ」
「入ってたの」
母は本当に少し笑った。
父も、口元だけゆるめたように見えた。
「亮介はそういうの、ちゃんと畳んでしまう子でね。ランドセルも前の日に準備してたし、プリントもすぐ出すし」
「へえ」
「へえ、じゃなくて。あなたはよく朝になってから騒いでた」
「覚えてない」
「そういうところは覚えてないのよね」
母の声には、とがったところがなかった。
責めているわけではない。比べているつもりも、たぶんなかった。昔の話をひとつ出して、少し笑っているだけだった。
だから、何も言えなかった。
亮介は、ちゃんとしていた子。
手がかからなかった子。
前の日に準備できる子。
智也の知らない母の中では、亮介はそういう形で残っている。葬式の写真より前から、ずっとそこにあった形なのだろう。
智也は酢の物に箸を伸ばした。
きゅうりが滑って、皿の端に当たった。
会社の同期の声が浮かんだ。
できましたよ。
近くにいると疲れる時もありました。
全部自分で抱えるんですよ。
喫茶店のテーブル、薄いコーヒーの匂い、紙袋の折り目。あの男は、亮介を悪く言ったわけではなかった。褒めながら、困っていた。言葉を選びながら、それでも面倒なところを隠しきらなかった。
母の中の亮介とは違う。
どちらが本当か、という話ではないのかもしれない。家の中の亮介。会社の亮介。智也の中の亮介。どれも同じ名前なのに、並べると少しずつ形が違う。
その中で、智也が持っている亮介だけが、いちばん汚れている気がした。
見下された。
腹が立った。
嫌いだった。
そういう言葉だけが、自分の皿の上に残っている。
「智也?」
母に呼ばれて、智也は顔を上げた。
「聞いてる?」
「聞いてる」
「本当に?」
「うん」
母はそれ以上追わなかった。
味噌汁の豆腐が、茶碗の底で崩れていた。智也はそれを箸で集めようとして、うまくつかめなかった。箸先で押すと、豆腐はさらに小さく割れた。
父が麦茶を飲んだ。
グラスを置く音が、少しだけ大きく聞こえた。
「まあ、亮介も抜けてるところはあったけどね」
母が思い出したように言った。
「傘、何本も買ってたし。持っていって、置いてくるの。あれは直らなかった」
父が「そうだったか」と言った。
「そうよ。玄関に同じような傘ばっかり増えて」
母はそこで笑った。
智也は黒い傘を思い出した。
東京の部屋にあった傘。雨の日に大学へ持っていった傘。山内に借り物かと聞かれて、そう、とだけ答えた傘。
あれも、置いていかれた傘のひとつだったのかもしれない。
そう思ってから、智也は魚の皮を皿の端へ寄せた。
母は亮介を完璧な人間として話しているわけではない。傘を置いてくる話もする。抜けているところがあったと言う。
それでも、最後にはちゃんとしていた子に戻る。
手がかからなかった子に戻る。
智也の中では戻らない。
あの冬の食卓で、亮介が言った。
俺と同じことしなくていいから。
その声は、今の食卓の音と混ざらなかった。混ざらないまま、智也の中で別の場所に残っている。母も父も、その場所を知らない。知らないまま、焼き魚を食べ、味噌汁を飲んでいる。
自分だけが違うものを持っている。
そう思うと、食卓の湯気が急に遠く見えた。
「ごちそうさま」
言うにはまだ少し早かった。
茶碗にはご飯が少し残っている。母がそれを見る前に、智也はもう一口だけ押し込んだ。味はあまり分からなかった。
父が箸を置いた。
「智也」
短い声だった。
「何」
父は空になった茶碗を見てから、顔を上げた。
「部屋はどうだ」




