第015話 使いやすいよ
「使いやすいよ」
智也は答えた。
言うつもりだった言葉ではなかった。もっと別の返しがあったはずだった。古い、とか、まあ普通、とか、大学から近い、とか。どれでもよかったのに、口から出たのはそれだった。
使いやすいよ。
自分の声は、思ったより軽かった。
父は「そうか」とだけ言った。
それ以上、何も聞かなかった。家賃のことも、水回りのことも、亮介のことも聞かなかった。ただ、部屋に不便がないならそれでいい、というように茶碗を持った。
母は少し安心した顔をした。
「ならよかった。古いから心配してたの」
「別に、不便はない」
「亮介も、最初は古いって言ってたけど、慣れたら平気みたいだったから」
母はそこまで言って、少し口を閉じた。
言いすぎたと思ったのかもしれない。
智也は焼き魚の残りを箸で崩した。身が細かくなって、皿の上でばらばらになった。口に入れると、急に乾いて感じた。麦茶を飲んでも、その感じは消えなかった。
使いやすい。
それは、確かにそうだった。
駅からも大学からも遠すぎない。近道も覚えた。カーテンも傘も食器もある。延長コードも使える。鍵は少し持ち上げれば回る。洗面台の水は最初だけ少し濁るが、待てば透明になる。
古いけれど、暮らせる。
暮らせるどころか、だいぶ助かっている。
父に嘘をついたわけではなかった。
だから嫌だった。
「もういいの」
母が聞いた。
智也は茶碗を見た。ご飯はなくなっている。味噌汁も少しだけ残っていたが、もう飲む気にならなかった。
「うん」
「少ないわね。東京でちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「ならいいけど」
母はまた何か言いかけて、やめた。亮介の名前が出そうになったのかもしれないし、ただ食べ物の話を続けようとしただけかもしれない。どちらでもよかった。
智也は茶碗を持って立ち上がった。
「置いといていいのに」
「いい」
流しへ運ぶ。
台所の蛍光灯は、食卓より少し白かった。シンクの中には、母が料理に使ったボウルと包丁が置かれている。水切りかごは広く、皿がきれいに立ててあった。洗剤のボトルはいつもの場所にある。
蛇口をひねると、水がまっすぐ出た。
東京の部屋のように、最初に少し濁ったりしない。水圧も強すぎない。古い家なのに、こういうところはずっと使いやすいままだった。
使いやすい。
また同じ言葉が戻ってくる。
智也は茶碗に水を入れた。米粒がふくらみ、白く浮いた。指でこすろうとして、やめた。洗うつもりで流しに来たのに、手が止まっている。
「本当に置いといていいのよ」
母が後ろから言った。
「あとで洗うから」
「うん」
智也はそう返したが、水を止めなかった。
流れる音だけが台所に残った。食卓では父が新聞を開いている。母は小鉢を重ねている。どれも普通だった。普通すぎて、その中に自分の声だけが浮いていた。
使いやすいよ。
兄の部屋を、そう言った。
死んだ兄の部屋を。
その夜、智也は自分の部屋だった場所で眠った。
布団は母が干したらしく、少し太陽の匂いがした。枕のカバーも洗われている。壁には、受験前に貼っていた予定表の跡が薄く残っていた。カーテンを閉めると、窓の外の街灯が布の向こうでぼんやりにじむ。
部屋は静かだった。
東京の部屋のように、外階段を誰かが上がる音はしない。隣の生活音もない。換気扇の低い音も聞こえない。実家の夜は、前からこんなに静かだっただろうかと思った。
机の引き出しを開ける。
古いシャープペンの芯と、使いかけの消しゴムが入っていた。消しゴムの角は黒くなっている。高校の時に使っていたものだろう。奥には、折れた定規と、何かの予備のボタンもあった。
亮介のものはない。
そのことに、ほっとした。
ほっとした自分が、また少し嫌だった。
布団に入っても、すぐには眠れなかった。
隣の部屋で母が何かを片づける音がする。階段を上がる父の足音がする。家の音は、昔から知っている音ばかりだった。知っている音なのに、少し遠い。
スマホを見ると、山内から大学の連絡のスクリーンショットが送られていた。
連休明けの小テストについてだった。
智也は「了解」とだけ返した。山内からすぐにスタンプが返ってきた。意味のない顔のスタンプだった。少しだけ笑いそうになって、やめた。
そのまま画面を閉じる。
目を閉じると、東京の部屋の棚が浮かんだ。
低い棚の上の名刺入れ。大学の冊子。使っていない封筒。折りたたんだレシート。自分のものと、兄のものが、同じ高さに置かれている。
持って帰らなくてよかった。
そう思った。
翌日の昼過ぎ、智也は東京へ戻った。
母は駅まで送ると言ったが、断った。
「バスで行けるから」
「荷物、重くない?」
「一泊分だし」
「また電話してね」
「うん」
玄関で靴を履くと、母はリュックの肩紐を少し直そうとした。智也は半歩だけ体をずらした。母の手は空中で止まり、それから何もなかったように下がった。
「気をつけて」
「うん」
父は仕事でいなかった。台所のテーブルには、父の朝の湯のみが伏せてあった。新聞はきれいに畳まれている。
玄関を出ると、昼の光が少し強かった。
駅までの道を歩く。昨日はいなかった犬が、門の内側で寝ていた。古い自販機の横に、空き缶が一本置かれている。小学生のころからある文房具屋は、シャッターが閉まっていた。
新幹線は、帰りも混んでいた。
今度は席に座れた。窓側ではなかったが、通路に立つよりは楽だった。隣の人が弁当を食べ始め、甘い卵焼きの匂いがした。
スマホが震えた。
母からだった。
ちゃんと食べてね。
その下に、手を振る小さな絵文字がついていた。
智也は文字を打とうとして、やめた。
分かった、と返せばいい。うん、でもいい。何も難しくない。それなのに、指は画面の上で止まった。母の普通の気遣いに、普通に返すことができなかった。
画面を閉じる。
ポケットにしまうと、母のメッセージは見えなくなった。
東京の部屋に戻るころには、外は暗くなっていた。
アパートの外階段を上がる。二階の廊下には、昼の熱が少し残っていた。隣の部屋の前に、コンビニの袋が一つ置いてある。ゴミなのか、買ってきたものなのか分からない。
智也は鍵を出した。
差して、少し持ち上げて回す。
もう考えなくてもできた。
ドアを開けると、閉めきっていた部屋の空気がぬるくこもっていた。靴を脱ぎ、リュックを下ろす。電気をつけると、蛍光灯が一度だけ小さくちらついた。
部屋の中には、自分のものが増えていた。
床に置いた教科書。壁際のリュック。百円ショップで買ったマグカップ。洗濯物を干すための折りたたみハンガー。コンビニの袋。低いテーブルの上のレシートとペン。
棚の上には、亮介の名刺入れがあった。
黒い角の擦れた名刺入れは、出かける前と同じ場所にある。手帳とペンも横にある。何も変わっていないはずだった。
でも、それ以外はもう、ぱっと見ただけでは兄の部屋に見えなかった。
カーテンは智也が開け閉めしている。傘は玄関に立ててある。食器は洗って水切りかごに伏せてある。延長コードにはスマホの充電器がつながっている。床の上の教科書は、亮介のものではない。
自分の部屋みたいだ。
そう思った。
思ってから、智也はリュックを床に置いたまま動けなかった。
電気はついている。
棚の上で、名刺入れの擦れた角だけが、少し白く見えていた。




