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第016話 窓の水滴

梅雨に入る少し前から、窓の内側が曇るようになった。


朝起きると、ガラスの下のほうに細かい水滴がついている。最初は雨漏りかと思ったが、違った。外が降っていなくても、部屋の中の湿気で勝手にそうなる。


智也はカーテンを開け、指でガラスをなぞった。


水滴が線になって下りる。


窓枠の端にたまった水が、少し黒く見えた。ほこりが混ざっているのだろう。ティッシュで拭くと、すぐに紙が破れた。白い紙片がガラスに張りつき、余計に汚くなった。


「面倒くさ」


声に出してから、智也は洗濯物の山から古いタオルを一枚抜いた。


青いタオルだった。端が少しほつれている。上京してから百円ショップで買った二枚組の片方で、亮介のものではない。そういう確認を、たまにしてしまう。


タオルで窓を拭く。


水滴は思ったより多く、布の表面がすぐに湿った。ガラスの下のほうを何度か往復させると、外の景色が少しはっきり見えるようになった。向かいの建物の壁と、細い電線と、曇った空。


晴れていないのに、部屋は朝だった。


智也はタオルを窓のそばに畳んで置いた。


置いてから、もう一度見た。


窓用のタオル。


そんなものがこの部屋にできた。


洗面所へ行き、顔を洗う。


鏡の右端は、相変わらずうっすら曇っている。水をかけたわけでもないのに、そこだけ白い膜が残っていた。布で拭いても、洗剤をつけても、完全には取れない。


智也は鏡の中央より少し左に立った。


右端に顔がかかると、輪郭がぼやける。最初は気になって、何度もこすった。今は、左に寄れば済むと分かっている。歯ブラシをくわえたまま少し左へずれる動きも、もう大きくはならなかった。


棚の扉は閉めたままだった。


中に何があるかは知っている。


知っているから、開けなかった。


朝食は食パン一枚だった。


コンロで湯を沸かし、インスタントコーヒーを作る。やかんを置く時、智也は自然に右側の五徳を使った。左側のつまみには触れない。


左側は火がつきにくい。


何度もカチカチ鳴らしているうちに、ガスの匂いが少しして嫌になる。右側なら一回でつく。湯を沸かすだけなら、それで足りる。


青い火が出た。


智也はやかんを乗せ、食パンをかじった。


トースターはない。フライパンで焼くこともできるが、朝からそこまでする気にはならない。袋から出したパンをそのまま食べる。母が見たら何か言いそうだと思った。ちゃんと食べてね、というメッセージを思い出して、スマホは見なかった。


湯が沸くまでの間に、リュックの中身を確認する。


教科書、ノート、学生証、折りたたみ傘。傘は黒い。玄関に置いたままだった兄のものではなく、最近買った安い傘だった。黒い傘を使うたびに山内に何か言われるのも面倒で、コンビニで透明ではない一番安いものを買った。


やかんが鳴る前に火を止める。


コーヒーを入れ、飲みきらないまま流しに置いた。


部屋を出る時、玄関の鍵を差す。


少し持ち上げる。


手首をひねる。


鍵は一度で回った。


前は、引っかかるたびに舌打ちした。大家に言えば直るのか、そもそも直すほどのことなのか、考えたりもした。今は考えるより先に、鍵を持ち上げている。


外階段に出ると、空気が重かった。


雨は降っていない。けれど、どこかで降り始めているような匂いがする。鉄の手すりが少し湿っていて、触ると指に冷たさが残った。


大学では、連休前より人の声が落ち着いていた。


最初の頃のざわつきは少し減っている。履修もだいたい固まり、教室を間違える学生も少なくなった。智也も、どの棟の階段が混むか、どの自販機の前が空いているか、少しずつ覚えていた。


山内とは昼に少し話した。


「今日、雨降るらしいよ」


「降りそう」


「傘ある?」


「ある」


「ちゃんとしてるじゃん」


山内は何も考えずにそう言った。


智也は「まあ」と返した。


ちゃんとしてる。


言葉だけが一瞬、実家の食卓へつながりかけた。母の声が浮かぶ前に、山内が別の話を始めた。小テストの範囲が広いとか、英語の先生の声が小さいとか、そういう話だった。


夕方、大学を出るころには本当に雨が降っていた。


強くはない。細かい雨が、傘の表面を薄く濡らす。駅からアパートまでの道は、排水溝のふたが黒く光っていた。商店街を抜ける近道を使い、いつもの角で曲がる。


部屋の前に立つ。


鍵を差し、少し持ち上げる。


開く。


当たり前みたいに開いたことに、智也は少し遅れて気づいた。


ドアを開ける前に、傘の先を一度廊下で振った。


細かい水がコンクリートに散る。隣のドアの前まで飛ばないように、手首の角度を少し変える。こういうことも、何度かやるうちに覚えた。最初は玄関の内側まで水を持ち込んで、靴下で踏んだ。


今は外で落とす。


それだけのことだった。


中に入ると、部屋の空気はぬるく湿っていた。靴下の裏に、床の冷たさが移る。カーテンは朝開けたままだった。窓の下のほうには、また薄く水滴がついている。


リュックを置き、窓のそばのタオルを取る。


拭く。


タオルはまだ少し湿っていた。朝の水分が乾ききっていなかったのかもしれない。智也はそれを気にせず、ガラスの下を横に拭いた。


こういう部屋なのだ。


そう思いかけて、やめた。


思わなくても、手は動いていた。


玄関のたたきに新聞紙を敷くことも、いつの間にか覚えた。


濡れた靴をそのままにすると、翌朝まで湿った匂いが残る。最初は何の匂いか分からず、排水口を疑った。けれど違った。靴と傘と、狭い玄関にたまる雨の匂いだった。


新聞紙は実家から持ってきたわけではない。コンビニで買ったものの下に敷いてあった広告紙を、捨てずに取っておいたものだった。


浴室の換気扇を入れる。


スイッチを押して、一秒、二秒、三秒。


遅れて、低い音が鳴り始めた。


最初はその遅れにいちいち不安になった。壊れたのかと思って、スイッチを押し直したこともある。今は三秒待つ。待っていれば鳴ると知っている。


音は大きい。


夜に回すと隣の部屋まで聞こえるんじゃないかと思う。けれど消すと浴室の湿気が残る。水滴と湿気と、大きな音。その全部を、どこかで折り合いをつけるしかない。


智也は濡れた傘を玄関に立てかけ、靴下を脱いだ。


低い棚の上には、名刺入れがある。


大学の冊子と、レシートと、ペンと、名刺入れ。自分のものと亮介のものが同じ高さで並んでいる。もうそれを見るたびに立ち止まるわけではない。それでも、視界の端には入る。


スマホが震えた。


大家からだった。


水回り、見るだけ見てもいい?


下の部屋で少し水音が気になるって言われてて、ついでに二〇三も確認しておきたいの。


智也は画面を見たまま、換気扇の音を聞いた。


三秒遅れて鳴り出したその音は、もう部屋の音のひとつになっていた。


午前なら大丈夫です。


そう打って送ると、すぐに既読がついた。

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