第017話 直すって言って
大家が来る土曜の朝、智也は少しだけ部屋を片づけた。
洗濯物をハンガーごと窓際から外し、ベッドの上に寄せる。低いテーブルの上のレシートをまとめ、空のペットボトルを袋に入れる。教科書は重ねた。マグカップは流しへ持っていった。
名刺入れは棚の上に置いたままにした。
隠すものではない。
そう思ったが、見られたいものでもなかった。けれど、引き出しにしまうのも違う気がした。結局、大学の冊子の横にそのまま置く。角の擦れた黒い名刺入れは、部屋の片づき具合とは関係なくそこにあった。
十時を少し過ぎて、チャイムが鳴った。
智也は玄関へ行き、鍵を開けた。
差して、少し持ち上げる。
その動作を大家に見られたかもしれないと思ったが、大家は廊下のほうを向いていた。手には小さな工具箱と、紙袋を持っている。
「ごめんね、休みの日に」
「いえ」
「すぐ終わると思うから。下の部屋のほうでね、水の音がちょっと大きいって言われて」
大家は靴を脱ぎながら、いつもの調子で言った。
親戚ではあるが、部屋に入るときの態度は仕事の人に近い。遠慮しすぎず、馴れ馴れしすぎない。智也はその距離が少し楽だった。
「最近、何か困ってるところある?」
台所へ向かいながら、大家が聞いた。
智也は少し考えた。
困っているところ。
窓の水滴。換気扇の音。鏡の曇り。鍵の引っかかり。コンロの左側。どれも困っていると言えば困っている。けれど、ひとつずつ言うほどではない。
「コンロの左側が、つきにくいくらいです」
「ああ、そこね」
大家はすぐに分かったという顔をした。
台所の前にしゃがみ、つまみを押す。カチカチと音がした。火はつかない。大家は一度手を離し、もう一度押した。今度は青い火が小さく出た。
「右だけ使ってます」
「そのほうが早いね」
大家は当たり前のように言った。
智也も「そうですね」と返した。
言ってから、自分がもう左側を直してほしいと思っていないことに気づいた。右側だけで足りる。湯を沸かすにも、インスタントの味噌汁を作るにも、フライパンで卵を焼くにも、右側だけでどうにかなる。
不便なのに、困ってはいない。
大家は工具箱を開けたが、たいした作業はしなかった。五徳を外し、布で少し拭き、もう一度つまみを押す。火はついたり、つかなかったりした。
「これは、ちゃんと見てもらったほうがいいかもね」
「使えないわけじゃないんで」
「まあね。でも、使えないわけじゃない、でそのままになるのよ」
大家は笑うでもなく言った。
それから、コンロの下をのぞき込んだ。
「亮介もそこ、直すって言ってそのままだったな」
智也は返事をしなかった。
大家の声は、思い出話の声ではなかった。電球が切れているとか、郵便受けが固いとか、そういうことを言う時と同じだった。
「直すって」
智也はようやくそれだけ言った。
「うん。左がつきにくいって。業者呼ぶほどでもないけど、気になるって言ってた」
大家は立ち上がり、手を布で拭いた。
「そのあと?」
「そのあと、そのまま」
「忙しかったんですかね」
言ってから、少し後悔した。
亮介を忙しかった人にしたいわけではなかった。けれど、他に置き場所のない言葉だった。
大家は首をかしげた。
「どうだろうね。あの子、やるって言って忘れることもあったから」
忘れる。
智也はコンロのつまみを見た。
青い火はもう消えている。左側のつまみは少し古く、周りに細かい汚れが残っている。亮介が何度も押したのかもしれない。つかなかった火に、短く苛立ったのかもしれない。
でも、それは何か深い理由ではない。
ただ、直すと言って忘れた。
それだけだった。
大家は浴室へ移った。
「換気扇、回してみて」
智也はスイッチを押した。
一秒、二秒、三秒。
遅れて、低い音が鳴り始める。
「音、大きいでしょ」
「大きいです」
「古いからねえ。すぐ壊れるって感じではないけど。夜中は気になる?」
「まあ、少し」
「でも回さないと湿気残るしね」
大家は浴室の天井を見上げ、工具箱から小さなライトを出して当てた。ライトの白い光で、天井の隅の汚れが少し浮いた。智也はそれを見ないふりをした。
「これは様子見かな。下に響いてるのは、たぶん配管の音のほう」
「そうですか」
「二〇三が悪いって話じゃないから、大丈夫」
大丈夫。
言われても、何が大丈夫なのかよく分からなかった。怒られているわけではないことだけは分かった。
洗面台も見た。
大家は水を出し、少し待ち、排水口の流れを見る。智也は横に立っていた。鏡の右端は今日も白く曇っている。大家もそれに気づいた。
「これ、気になる?」
「別に」
「なら、もう少しこのままでいいか。交換するほどではないかな」
交換するほどではない。
コンロも、換気扇も、鏡も、全部その言葉で片づく気がした。暮らせないほどではない。壊れていると言い切るほどでもない。けれど、毎日少しだけ手間がいる。
この部屋は、そういうものばかりだった。
大家は最後に玄関へ戻った。
靴を履きながら、ドアの鍵を見た。
「鍵もまだ固い?」
「少し」
「持ち上げると回る?」
「はい」
「亮介も最初、それ言ってたわ」
大家はドアノブに手をかけた。
「持ち上げないと回らないって。直そうと思ってたんだけど、結局そのままね」
「そうですか」
「まあ、慣れると大丈夫でしょ」
「はい」
「慣れちゃうのも困るんだけどね」
大家はそう言って、工具箱を持ち直した。
「何か本当に困ったら言って。これは直したほうがいいなってなったら、ちゃんと直すから」
「分かりました」
「じゃあね」
大家は廊下へ出て、外階段を下りていった。
足音が遠くなる。
ドアが閉まったあと、智也はしばらく玄関に立っていた。
鍵を見る。
古い金属の表面に、細かい傷がついている。差し込むところの周りは少し黒ずんでいた。何度も鍵が当たった跡だろう。亮介の鍵も、ここに何度も差し込まれたはずだった。
亮介も最初、それ言ってたわ。
持ち上げないと回らないって。
智也は鍵を差した。
少し持ち上げる。
回す。
簡単に開いた。
簡単ではない。少し手間はいる。それでも、もう手間だと思う前に手が動く。
慣れると大丈夫。
大家の言う通りだった。
大丈夫になっていた。
智也は鍵を抜いた。
手のひらに、金属の角の感触が少し残った。
コンロの左側はつきにくいままだ。換気扇の音は大きいままで、鏡の端は曇っている。
ただ、亮介もこの鍵を持ち上げていた。
たぶん。
そう思ったあと、智也はすぐに首を振った。
知らない。
知っているのは、今この鍵が少し持ち上げないと回らないことだけだ。
智也は鍵を抜き、下駄箱の上に置いた。
換気扇の音が、浴室の奥でまだ鳴っていた。




