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第018話 棚の奥へ

大家が帰ったあと、智也は掃除を始めた。


することがなくなったからだった。


水回りの確認は終わった。コンロは左側がつきにくいまま。換気扇は音が大きいまま。鏡の右端も白く曇ったまま。鍵も、少し持ち上げれば回るままだった。


何も大きく変わっていない。


それなのに、部屋を見られたあとだと、床のほこりや流しの水滴が急に目についた。


掃除機はない。


智也は安いフローリングワイパーを取り出し、シートをつけた。最初は付け方が分からず少し手間取ったが、今は角を押し込む場所も覚えている。白いシートを広げ、床に置く。


部屋の端からゆっくり拭いた。


ベッドの下から、ほこりと小さな紙片が出てきた。紙片には何も書かれていない。レシートの端か、何かの袋の切れ端だろう。亮介のものか自分のものか、見ただけでは分からない。


分からないものが、床から出てくる。


智也はそれをシートの端に寄せた。


ほこりは、灰色の細いかたまりになっていた。


窓を開けると逃げていきそうで、開けなかった。ワイパーの先で少しずつ集め、古いチラシの上に落とす。チラシはポストに入っていた不動産屋のものだった。駅近、築浅、南向き。どれもこの部屋には当てはまらない言葉だった。


丸めて、ゴミ袋に入れる。


低いテーブルの下も拭く。折りたたみハンガーの脚を持ち上げ、教科書を床から棚へ戻す。棚の上には、名刺入れがある。掃除の邪魔ではない。だから動かさなかった。


窓のそばのタオルは、また少し湿っていた。


朝拭いた水滴が、まだ乾ききっていない。智也はタオルを広げ、カーテンレールの端にかけた。青い布が窓の前で少しだけ揺れた。


台所へ行く。


流しには、朝のマグカップと皿が置いてあった。水を出し、洗剤をつける。泡が指の間に入る。マグカップの底には、コーヒーの茶色い跡が薄く残っていた。


スポンジでこすると、すぐに落ちた。


水切りかごに伏せる。


その隣には、白い皿が二枚あった。


亮介の部屋に残っていた皿だ。智也はもう何度も使っている。カレーを食べた。卵を焼いた時にも使った。パンの袋を置いたこともある。誰の皿かを考えるより先に、手が伸びる。


智也は棚を開けた。


食器を一度出す。


白い皿、少し欠けた小鉢、ステンレスのスプーン、自分で買ったマグカップ、百円ショップの箸、亮介が残したらしいガラスのコップ。並べると、どこからどこまでが自分のものか分かりにくい。


最初は分けようとした。


これは兄貴のもの。これは自分のもの。


そうやって置く場所を変えたこともある。けれど使っているうちに、すぐ混ざった。洗って戻す時、空いている場所に入れる。取り出す時、手前にあるものを使う。食器はそういうふうに動く。


智也は皿を戻した。


自分のマグカップだけ、少し手前に置く。けれど、その横に亮介のものらしいコップが並ぶ。境目を作ったつもりでも、棚を閉めれば同じ中に入る。


箸立てにも、同じことが起きていた。


前からあった箸と、自分で買った箸。長さも色も違うのに、洗って立てると、同じ筒の中で先が交差する。使う時は手前のものを取る。誰のものかを見てから選ぶことは、もうあまりなかった。


台所の棚を布で拭いた。


そのあと、洗面台へ向かった。


鏡の右端は白く曇っている。中央に立つと、顔の右側だけが少しぼやける。智也は左へずれた。ずれてから、またやっていると思った。


蛇口の根元に水あかがついていた。


布でこする。落ちない。少し強くこすると、爪の先が当たって嫌な音がした。水を流し、布を絞る。排水口の周りに髪が一本落ちていたので、つまんで捨てた。


棚の扉を見る。


閉まっている。


中に何があるかは知っている。


智也は少し迷ってから、扉を開けた。


歯ブラシの替え。使っていない石けん。小さな掃除用スポンジ。整髪料の空き容器。奥のほうに、カミソリがあった。


前と同じ場所にある。


何度見ても、そこにある。


智也はそれを手に取った。


軽かった。


透明なカバーがついている。新しいのか古いのかは分からない。柄の根元には白い跡が残っていて、持ち手の部分は少しざらついていた。


捨てよう。


そう思った。


今日は掃除をしている。床も拭いた。台所の棚も拭いた。水回りも見られた。いらないものを捨てるには、ちょうどいい日だった。


ゴミの曜日は分かる。


分別表も見た。スマホの写真に撮ってある。替刃を外して、危なくないように包めばいい。たぶん大丈夫だ。


たぶん。


智也はカバーを外そうとした。


外れない。


親指をかける場所を変える。少し力を入れる。透明なカバーはわずかにずれた。指先が危ない位置へ寄った気がして、すぐに手を離した。


試すものではない。


柄の裏側に、小さなボタンのようなものがあった。


押してみる。


少し動いた。


でも、替刃は外れなかった。


もう一度押す。今度は爪が滑った。手の中で斜めになり、智也は反射的に持ち直した。


「危な」


小さく言って、洗面台の上に置く。


スマホで調べれば分かる。


型番もメーカーも、どこかに書いてあるかもしれない。外し方も捨て方も、検索すればたぶん出てくる。


智也はポケットに手を入れた。


スマホに触れた。


出さなかった。


掃除の途中だった。


そこまでして、今すぐ捨てるものでもない。そう思った。そう思えば、戻す理由にはなった。


智也はそれをもう一度持った。


カバーをつけ直す。カチリとは鳴らなかった。ただ、元の位置にかぶさったように見えた。落ちないことだけ確認する。


棚に戻す。


前より少し奥へ押し込んだ。


歯ブラシの替えと石けんの箱の向こう側。扉を閉めれば見えない場所。完全に隠したわけではない。次に開ければ、たぶん見える。ただ、すぐには目に入らない。


扉を閉める。


意味なんかない。


そう思った。


誰かが残したものを、たまたま捨て損ねているだけだ。部屋の鍵が固いのと同じで、コンロの左側がつきにくいのと同じで、鏡の端が曇っているのと同じだ。


少し面倒なだけ。


智也は布を水で洗い、洗面台をもう一度拭いた。


蛇口の根元の水あかは、少しだけ薄くなった。完全には落ちない。落ちないままでも、明日の朝また顔は洗える。


浴室の換気扇を入れた。


スイッチを押す。


一秒、二秒、三秒。


遅れて、低い音が鳴り始めた。


その音にも、もう驚かなかった。

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